枠と境界線2(終)
「明かりに使っていたの、今持ってるの?」
ぼくが聞くと、彼女はなにか気づいたらしく、目を開いて頷き、これです、と鞄の前ポケットから、ぼくたちの前に、その、手のひらサイズのものを取り出した。
彼女の肩にかけているスクールバッグは中身が詰まってずっしり重たそうに見えていたが、これなら鞄の中でもあんまり場所を取らないだろうと見える。
「ああ、それか」
そういえば最近学校で、小さな懐中電灯(予算的な問題なのか、ちょっと相応に見た目はチープなもの)の箱を配っていたのだったと、改めて思った。ちなみにぼくのは家に置きっぱなしだ。
「電池がなくなってきたから、ちょっと灯りが弱いけど、なんとかまだ、このまま使えるの」
帰りの夜道は危ないからどうとかで、なにかのキャンペーン運動の一環だと聞いているそれは、四角い形のシルバーボディのライトで、ちょっと青みがかった光が、案外、それなりに道を照らしてくれるのだ。
まつりは、ひとつ解決した、というように、満足そうににやりと笑って、それから、すぐ無表情に戻ってしまった。
「あの……何かわかったなら、聞かせてくれませんか?」
まつりの無表情は、笑っているときと極端なので、人を寄せ付けないような雰囲気を醸していたのだろう。梅原さんが、恐る恐ると言った風に聞く。
まつりは、そんな彼女を見つめたまま、ぱちくりと瞬きした。
そして。
「まだ確証がないから」
と、断った後、空を見上げる。星が輝き出しているのがわかった。
□
気付けば本格的に日が暮れてきていたので、ぼくらは帰ることになった。
放課後から二、三時間彷徨けば、19時くらいになる。ちなみに今日、彼女の部活(確か、バレーボール部だ)は、体育館の整備などの関係で、休みだったらしい。
まだまだ日が短い時期のため、徐々に視界にはっきり見える景色が狭まって来ている中で、彼女が、今日はありがとうございました! と言っていた。
おそらく、今の彼女の表情は素敵な笑顔なんだろうが、街灯が少ない道では、闇が隠して、それさえよくわからなくて、ちょっと残念な気がする。
「うん。途中までは送るから、なにかあったらこいつを使うといいよ」
いかにも下僕扱いして、まつりがぼくを指差す。人に指を差しちゃだめだと習わなかったのか。
ツッコミを入れるのが面倒で、ぼくも「そうだね、なにか力になれることがあったらまた聞かせて欲しい」と言っておいた。
高校の近くの方面の家に彼女を送り届けた後も、まつりは不思議そうにその場から離れず、なにか考えていた。
「……あの娘は、夏々都に気があるんじゃない?」
ぽつりと呟き、また黙って、彼女の家を仰視する。
それは普通の、よくある木造二階建ての一軒家だった。
黒い網みたいな柵の向こうに、ガラスの引き戸があり、花が植えられた鉢が、玄関までの道のりの両脇に続いている。戸には『セールスお断り!』と、おじさんが右手で断っている絵のシールが大きく貼られているのが印象的だ。
まつりがあまりに動こうとしないので、ぼくもその場で考え事をして待っていることにした。そういえば、ぼくも気になることがある。さっき道のりの中で通り過ぎてきた交番は、無人だったのだ。
交番の中には寂しく電話が残されているだけなのが見えていた。なんとなく、あの様子だと、昨日も一昨日も、誰もいなかったんじゃないかなと思える。
──もしかすると、彼女は交番に行ったにしても、中でお巡りさんと話したりはしていなかったんじゃないだろうか? しかし、まつりやぼくに嘘を付いて、なにか彼女にメリットがあるのかはわからない。
思わず、ってこともあるし──
「って……え、なんだって?」
危うく、聞き流すところだった。
「だから、なんで夏々都を選ぶのか、不思議なんだ」
「いやいや、確か、お前に会わせて欲しいって、言ってたけど」
ぼくが慌てて言うが、まつりは聞いておらず、自分の世界に入っていた。
それからもしばらく突っ立っていると、やや肌寒くなってくる。
夏が終わったばかりだと思っていた季節は、あっという間に秋だ。この時期の『夜』は、少しずつ早くなってきている。
ぼくは思わず『くしゅん』と、我ながら恥ずかしいくらい高い声のくしゃみをして、身を震わせてしまう。……恥ずかしい。
これは笑われると覚悟したが、まつりはそれに反応することもなく、ぼんやりしながら、なにかを探して、辺りをキョロキョロ見回していた。
うう……寒い。帰りたい。あったかいご飯が食べたい。確かに使命は大事だが、ぼくは寒さへの耐久力があまりないので弱音を吐きたくなる。
しかし我慢し、数十分くらい、彼女の家を見張り続け、だんだん遠ざかる意識に、ぼくが、なんのために、彼女の家に立ってたんだったかわからなくなってきた頃、まつりは唐突にぼくの方を向いた。
──そして、おもむろに、上着を脱ぐ。
「着ろ」
それから、そいつは命令形で、ぼくに差し出した。一応確認すると、上着の下──も、上着。というか、三枚重ねだと判明した。
薄い黒の上着→緑のカーディガン→黒のカーディガンだ。マトリョーシカかよ。
「んーん。『ミル・クレープ』だよ」
まつりは呟く。心のツッコミが漏れていたらしい。それから、上着を手にしたぼくを、じいっと見て、ちゃんと上着を着るまで観察して、満足そうにしていた。案外世話好きなやつである。
(本人なりには)下僕あつかいしている人たちから、あまりまつりへの不満の声が上がらないのは、まつりの《この辺り》が上手いからだと、ぼくは思う。
──かと思えば、まつりは、ぼくを置いてふらっと歩き出し、彼女の家の横側──裏庭が若干見える方に回っていった。
そこには誰もいない。……と、いうか、ぼくには、闇しか見えないが、まつりは、ずっとそこに視線を向け続けていた。いったい、何を思っているのだろう?
もらった上着が案外温かくて、冷えていた体を自覚して、少しほっこり落ち着きながら、考えてみたが、わからない。
少しして、なにか考え終わったようで、ぼくを引っ張って、彼女の家から離れて歩き出す。帰り道ではなく、さっき来た道の方向だったので、どうやら、交番までをまた辿るらしい。
左から始めてまっすぐな道を、上から下として表すならば、高校、交番、彼女の家、帰り道の順である。
「……おなかすいた」
歩きながら、ぽつりと、まつりはそう溢した。そういえば、いつもなら、そろそろ夕飯の時間である。だが今日は、おそらくその準備の途中でぼくが無理を言って連れてきてしまったのだ。
なんとなく、悪いことをしたようで、気まずくて、でも謝るのは違うみたいで、思わずまつりから目をそらし、星を見た。今日はやけに、空気が澄んでいるみたいで、綺麗に、よく見える。
交番にも、やっぱり人はおらず、ぽつんと寂しく、電話があるだけだった。
「あのね」
「ん?」
突然、まつりはそう話しかけてきた。あれから変わらない、優しい語り口で、なんだかほっとしてしまう。
「……夏々都を置いて、二人で外に出たときに、ちらっと、見たんだ。付いてきてた人」
「へえ」
「遠くから付いてきてたとして、話の内容自体が聞こえていなくてもさ……『もしかしたら自分のことを話してるんじゃないか』ってのは、気になっちゃったと思う。ただでさえ、あんな風にアクションが大きい娘だ。内容がわかんなくても、勘がいい人なら、内容の雰囲気は掴むかもしれない」
つまり、何が言いたいのだろう。ぼくにはこの段階では、よくわからなかった。
「……えっと。それで」
「それから彼女だけ連れ出して、ちょっと話して、それからちょっと離れて、一人にさせてから、奥で、見てたの。《彼》は、その間もずっと彼女を見ていた。お店の裏の方だから、人の気はなかったけれど、彼がなにかすることはなかったね」
「えーと……彼、ってのは、どんなやつだ?」
「んー、見たところ、普通の、《高校生》かな?」
「えっ!?」
てっきり『変態っぽいおじさん』みたいな答えが返ってくると思っていたぼくは、びっくりして目を丸くした。まつりは、そんなぼくを、不思議そうに見つめて答える。
「さりげなく聞いたんだけど、彼女には、見た目はわからないようだった。常に鏡や周囲を気にしていて、誰かに付けられてる気がしてて、でも『見てない』から、気軽に相談さえも出来ない。 でも彼女は、どうも、犯人が自分に危害をくわえるわけではないと、知ってる。ってことで、まず考えてみたんだ。二つが当てはまる人物像で、一番身近なもの。あの見た目からしても、当たりだと思うね」
「それが──高校生……まさか……うちの高校の?」
危害をくわえて来ないだろうと彼女が考える理由。ぼくを呼んだ理由。姿を『見てない』理由。泣きそうな彼女の困った顔の理由。それらが──犯人が、同じように『高校生』だから?
「わからないけど、たぶん。女子的に、夏々都が一番話しやすかったのもあるんじゃないかな。同じ『男子』を、どうにかしてくれるんじゃないかって、希望があったのかもしれない」
「……ぼくが、知ってる人?」
「かもしれないね」
「暗い中で、手帳を見たのか、お前が聞いたのは……何か、意味が?」
「ところで、ななとくん。ライトを持ってるのは例えば、『去年の』一年生まで、とかじゃないですか? ななとくんの『最近』は、他の子には、長いよ。それに、家に結構前から置きっぱなしでしょうに」
「あ、あれ……?」
昔の記憶が確かなことに対して今と昔の境目がわからなくなることが、ぼくには、ある。無意識に、間違えるのだ。他者との《感覚的な》違いが、激しい。
「ななとー」
──と、振り向けばまつりが、こちらを目を半分開けた状態で見てくる。
ジト目に見えた。呆れているのかと、苦笑いする……──が、まつりはそのまま地面にしゃがんだ。
あれ? 様子が、おかしい。そういえば、やけに甘ったるい声になっていた。
「おなかすいたー。ねむたいー。つかれたー。もう歩けないよー!」
「──……」
ぐずりだしてしまった。本人的には、夜中といえば、もうおねむな時間だったので、目がうまく開かないようだ。
……いや、少し前までは、一日中寝ないのを数週間続けるという、驚異の体力を見せていたのだけれど。
最近は、規則正しくなってしまったというか、ぼくが、そうさせてしまったというか……
本来、2歳か3歳の子どもみたいなやつなので、こうなってしまったら──つまり本人なりに『大人らしく』振る舞えなくなってしまった状態で、無視して歩くのも可哀想で、ぼくはゆっくり、傷つけないように、そいつの手を引いた。
街中であんまり甘やかすと、逆に正気に戻ったときが怖いので、というか、そいつの正気でのプライドを傷つけそうなので、手を繋ぐ程度に留めている。
まつりは寒さからか、少し震えつつ立ち上がり「上着をやっぱり返せ」と言ってきた。
ぼくも寒かったので断る。代わりに、しかたなく背中に乗せてやったら(背負うくらいなら、まだ許容範囲だろうという謎の定義がぼくにはあった)、喜んでくれたのはいいが、体力のないぼくは、すぐに潰れそうになった。
□
あれから、用が《済んだ》というまつりを背負ったまましばらく歩いた。
外の若干の寒さは、やがて、背中の重みの方が気になって、もう、よくわからなくなっている。
なんとか背負うのに慣れてきた頃には、辺りはさっきよりも暗くなっていた。
「えへへー」
背負われたまつりは、ご機嫌だった。背中にしがみついて、足をバタバタさせる。……やめろ。落とすぞ。
夏の暑い時期もあんまりこの態度は変わらなかったので、本気で体温が低いか、あんまり気温を感じてないんじゃないかと、疑いたくなってしまう。
つっこんだときには、まつりは既に話を聞いていなかった。いや……いつものことだけれど。
「ななとー、ななとー!」
今度は、なにかに気付いたように、話の流れを切り、まつりは足をまた揺らしてぼくをしきりに呼んできた。眠気はとんだのかもしれない。
「本当に機嫌がいいな。ぼくはちょっと怖いぞ」
「ななと、おろして!」
甘えたような声のまま、高いテンションのまま、突然「おろして」と言われた。ので。なにを要求されたか、一瞬わからなかった。
戸惑って数秒考え、とりあえず背中からおろしてやる。
まつりはそのまま、とたとたと、幼い足取りで歩き出した。ちなみに、気まぐれなあいつに、歩けるじゃないか、なんて言っても無意味である。
なにか考えたまま、まつりはぼくを置いて進む。ぼくは後を追う。そうしてぼくらは家に帰った。
□
「ご飯作る時間、足りなかった」
──どうやら、夕飯を作る時間がなくなったことを気にしていたらしい。
カーディガン(外用)から、もこもこの上着(室内用)に着替えて、テーブルにスープを盛った皿を並べながら、まつりはしょんぼりと言った。
「いや、ぼくは、あるだけで嬉しいけど……」
手伝いで、スプーンを並べながら言うと、不満そうに口を尖らせる。
「成長期なんだから、もっと栄養をですね……というか、まつりが、まだもの足りない気がするのです」
「そっかー、そうだなー、うーん……」
今からもっと作ればいいじゃないか、と作らない側が言うのは簡単だが、もう今日のまつりにそんな体力はないだろうし、ぼくがやるにはまだ経験値が足りないし、今(21時を過ぎたくらいだ)も、このままシャワーを浴びたりすると時間がない。
「こうなったら夏々都を食用に」
「ぼくの緊急用に残していたカップラーメン、食えよ……」
さすがに、まつりに今、食される状況(物理的に。刃物とか持ってくるおっかなさ)になるのはごめんなのでぼくは慌てて最後の手段を使った。
──最近は、緊急用に食べ物を隠しているのだ。(隠さないといつのまにか食われる)
たぶん、こいつも知っていて言うのだろう。こいつほど、生きるのにエネルギー消費が激しすぎるやつを知らない。
「わーい!」
自分の部屋に置いていたのを改めて取ってきて渡すと、まつりは嬉しそうにお湯を注いだ。
□
食事はその後、いつも通り、ほのぼのと終わった。
あいつの作る料理は、相変わらず美味しい。
──そういえば、汁物だけは、昔から、ちゃんと味を感じられるような気がする。小さな頃、栄養失調ぎみだったぼくに、よくあいつが飲ませて、食べさせてくれたからかもしれない。
ぼく自身の問題の話なので、本来あいつはきっと『何』を作っても、美味しいのかもしれないけれど。あんまりわかってあげられないのは、少し、寂しい気がする。
あいつは、なにか思っているだろうか。いつも特に何も言わない。嫌な顔もしないし、食べているのを、いつも嬉しそうに眺めているが、よくわからない。
そんなまつりは、先ほどカップラーメンをスープまで平らげると、部屋にこもり、シャワーを浴びに行った。
一方、食後すぐに入浴したくないタイプのぼくは、静かにリビングで机に向かい、宿題をしている。けれど。
「……眠い」
まぶたが下りそうだ。思っていたより、今日は疲れたようだ。睡魔が襲ってくる。
それでも我慢して、虫眼鏡で見たくなるような、やたらと細かい字の英論文(宿題)をしばらく訳していたが、よく知らない単語の連続でとうとう行き詰まり、ペンを持つ手を止めた。
「辞書……二階か」
頭上からは、水の流れるシャラシャラーって感じの音が、さっきから続いている。集中力が途切れた途端、妙にそれが気になってきた。いつもは、気にしないのに。
自室に辞書を取りに行こう。……と思いつつ、階段を上がって──そのまま、自室の角を曲がり、気づいたらあいつの部屋に向かっていた。
中からはシャワーの音が続いている。普段最低30分くらい出て来ないので、まだ入浴中だろう。なんて考えつつ、そっとドアノブを握る。
……別に、やましい意味はない。ないんだけど。
変態っぽいな。この状況。
って考えると、若干、ハラハラドキドキしそうな気はするが、しかし、実際、どう握ってみたところで、ドアは開きはしないし、開けられそうにもない。
力を込めてみて気付いたが、本日もしっかり鍵(上下真ん中に、計3つ)が付いていた。
そう。まつりは、いつも鍵をかけているのだった。半分寝ぼけ気味なせいか、それを失念していた。──にしても、こんなに厳重なのには、いったいどんな意味があるのだろう。少し、興味が湧いてしまう。
開けられそうにはないけれど、せめて声くらいは届くかなと、いたずら心が顔を出す。ついでだから何か言ってみようかな。と思うが、特に良さそうな台詞が浮かばない。
せめてもの嫌がらせに、シャワーがある辺りの壁を、こんこんと叩いてみて、結局なんの意味があったのかわからないけれど、諦めて自室に帰る。
「ぼくはいったい、なにをやってんだろう……」
自問してみるが、わからなかった。
その後、本棚から出してきた辞書の文章とにらめっこしているうちに、隅の方のコラムを読むのに夢中になってしまって、(いつもこんなだから課題が進まない)
辞書を片手に寝転んでだらだらしていたら、ふいに、ドアが開いた。まつりがあがってきたのだ。
────────────🍁───
「……もう。夏々都は欲求が不満なんですか? うるさいよー。なんで壁たたいたの?」
ばっちり音は届いたらしい。シャツの上にバスローブ、という……ぼくには、よくわからない着こなしで、ベッドに寝転んでいるぼくを呆れたように眺めて、聞いてくる。怒るかと思ったのに、そうでもなかったようだ。
「それとも、なにか緊急な用事? びっくりして、いつもより10分早く上がってきたんだけどさ」
「……いや、特に用はないんだ」
答えると、疑わしそうな目を向けられた。信用が無い。
「ふーん、だったら、前者かな?」
こういう場合、どう答えれば正解だろう。違うと言っても、無意味かよとキレられそうだな……。
考えているうちに、まつりはベッドの上にあつかましく座り込み、ぼくを膝にのせて、丸く抱っこしはじめた。ウサギかなにかみたいだ。ぼくはもしかして本当にこいつにとって、ペット扱いなんだろうか……
足とか腹とか折り曲げられた部分が微妙にきつい。
「……あのー、まつりさん?」
「ずっと夏々都をかまって遊べないので、暇でした」
拗ねたような口調だった。
「……そうなんだ」
「髪、拭いてください」
こいつは今まで自分で髪を拭いたことがないらしい。メイドさんに乾かしてもらっていたのかもしれない。
まつりがうつむいたとき、濡れている髪から、滴がぼくの首まで流れてきた。冷たい。
「わかったから、この姿勢を強要すんのやめて……つらい」
訴えるが、まつりはぽかんとしていた。目も、丸くしている。
「夏々都は本当に、触れてもあんまり嫌がらなくなったね」
驚いているらしい。まだ信じられない、という風に。
嫌がらなくなったというより、まだかろうじて我慢できるようになってきただけなのだが。ぼくは言わない。
それも、まだ、お前みたいなやつにだけなのだと言うと、調子に乗りそうなので、タオル取って来いと言ってとりあえず追い払った。
「ふー、疲れた……」
これで、少しの間、休める。ベッドに仰向けになり、しばらく、ごろごろと転がる。
──と、ふと、机の上でチカチカと何かの光が緑に点滅するのが見えた。
「ん?」
なんだろう。
ベッドから立ち上がる。こんな風に光るものは、ぼくの机には、携帯電話くらいしかない。
案の定、携帯電話には、さっきから緑色に光る封筒のマークが表示されていた。メールが来ているときのアイコンだ。
……知らないアドレスだったけれど、一応、確認してみることにした。ぼくは選択受信を使っているため、一度メールセンターに繋ぐ。
めったに来ないメールの受信ボックスに、最新タイトルであるらしい『梅原 寿ちゃんです…』が表示された。ことぶきちゃん……なんというか、おめでたいような名前だなあと思った。「……って、え? 何でぼくのアドレスを……」
数秒考えて、そういえば、昔、なんかのノリで、半ば押し付けられるようにして、クラスで、一斉交換会みたいなのがあったような気がするのを思い出した。
そのときに入手したのだろうか? それとも、まつりに聞くことも出来ただろうし、方法ならいくらかありそうだから、今、考えても仕方ないかもしれない。
──交換会(?)があったわりに、実は今、ぼくの電話帳というかアドレス帳は現在空になっている。たぶん、不具合だと思う。ぼくの携帯電話は、なにかとよく壊れる。
とにかく、なるほど、だから、名前の欄がアドレスだったのかと納得して、とりあえず携帯の側にメールを受信。本文を読むと、どうやら簡潔なお礼が述べられているようだった。
『コンバンワ! 今日はありがっとうございましたッ!(*^^*)』
という感じで、普段、こんな雰囲気のノリで敬語を用いるタイプなのかもしれない。そう思うと、やや興味深い。
こういうのは返信した方がいいのか、しなくていいのか、ぼくには、いまいち判断が付かなかった。というか、メールを打つのさえ、結構難しい。
数秒考えて、そもそもぼくはそこまでフレンドリーじゃないなあ、と思った。フレンドが、どこからどこまでを指すかも、正直よくわからない。
「ま、いっか。学校で会うだろ」
電源を切って、机に置き直し、もう一度ベッドに寝転んだら「ぎにゃんっ!」と猫科のなんかがびっくりしたみたいな悲鳴があがった。
まつりが既に戻って来ていて、寝転んでいたらしい。机はベッドに背を向ける形に置かれていることや、ドアが開きっぱなしだったこと、ぼくも画面を見たままだったことなどが重なり、入ってきたのに気付かなかった。
「……ごめん」
まつりの背中の上に無意識で座りかけていたようで、わりとダメージを食らったらしいまつりが軽く咳き込み、潤んだ目でぼくをキッと睨み付ける。
「……ごめんなさい」
もう一度謝ると、まつりはなぜか首を傾げて、きょとんとし、それから、ひょいっと体を起こすと、ぼくに無言でバスタオルを押し付けてきた。
──よくわからないが、まつりはとりあえず、不愉快な感情をさっさと切り替えることを選んだらしい。
「はいはい……」
ぼくは、タオルを受け取り、まつりのそばに腰を下ろした。よく見ると、まつりの手にはドライヤーも握られていたので、それを借りて適当に風を当てつつ、タオルで水気を吸い取る。
まつりはしばらく、大人しくベッドに座って目を細めていた。
「うー、もういい?」
しかし途中から、大人しく座るのに飽きてきたらしい。足をばたばたさせて、ベッドから離れようとする。
まだちゃんと乾いてない。自分から拭けと言っておいてこれなのだから、まったく、ぼくのご主人様は手がかかる。
「だめ。まだ生乾きだ。中途半端に止めるなよ……」
風邪を引かないようにしっかり乾かしておこうとしているというのに、ちょっとくらいいいじゃん、とまつりは不満そうだ。
「髪拭いたら褒めてくれる?」
不満そうに唇をムッと曲げてから、まつりは思い付いたように、期待の目でぼくを見つめる。
……褒めて欲しいらしい。
「んー、っていうか、そろそろ自分で拭けるようになれよな……」
「まつりは、周囲や本を見て学習したことを、自分の体で再現するけれど、髪を拭いてる本は、まだ見たことない」
なんだか、えらく説明的な答えが帰ってきた。
風呂上がりの髪の拭きかたを記した本って、どんな感じの本だろうと思うが、探せばある気はする。
本でなくとも、周りの人の風呂上がりをいちいち見る機会もなかったから、なんか尚更、見て学習するまつりは、それが出来ないまま、今に至るまで拗れているんだろうか。
まあ、いざとなれば自然乾燥してたのだろうし。自分で拭けなくてもそこまで困ってはいなかったのだと思う。
ただ、この家で、髪やら足を濡らしたままぺたぺた歩くのはぼくが、以前やめろと言った。
そしたら、散々抵抗され、暴れ回られたっけ。懐かしい。
ぼくは怪我で入院してしまい、まつりは横で嬉しそうにリンゴを剥いてた。
「……学習って、まさか、あれも、これも、学習して……だから、意識はともかく体では覚えてて……つまり、無意識に昔の体験を繰り返して……」
やたらとあんな感じになってるのは、もしかすると、半分くらい、ぼくのせいなのか?
余計なことを、ぼくが教えてしまった?
……そうだ、考えてみると、あいつ別に、特にはぼくに強い感情があるわけでもないのだろうし、だからこそ、だったらなんで、再会した途端、やたらとスキンシップが過剰なんだろうと不思議だったが、本人が言う『ぼくが嫌がるのが面白い』以外にも、昔の行動に今も、縛られている部分があるのではないか?
いや、でも、それだったら──
待てよ。
何も感じないことが記憶に残るのだとして。
それでぼくにだけ、特定のなにかを感じていなくって、だから、ぼくのことだけ、周囲よりも無意識に刻まれていたら──
つまり、その行為があっても関係がまったく、一片も変わらないというのであれば、同じ行為に違いなくても、変わらないまま引き継がれている?
それでも、その前提で行くのなら、一度は──あの日くらいは、少なくともあいつの側の心境に、なんらかの変化が起こっていたことになる。だから、リセットされた。
だから。つまり。
「なーなーと!」
髪を拭く手が、思わず止まっていたらしい。キラキラした目で、まつりはぼくを呼んだ。
それは、今では、小学生のときみたいな、愛嬌のある顔だった。
若返ったというか、変わらないというか、ちょっと前とは違い、ぼくをきちんと捉え、映している、純粋な瞳。
懐かしい、あの声に重なるように、まつりはぼくを「ななと」と、はっきり発音した。
それだけ、だった。
たったそれだけ。
「まつり」
そう呼んで、それからなんと表したらいいか、よくわからないけれど、ぼくは、ふと、苦しくなった。胸が締め付けられたみたいに、痛くなった。
涙を流して自分から泣いたことなんて、ぼくは、一度もない。けれど。
なんとなく、こういうときに、ぼくは泣きそうになる。
──と、回想に浸りそうになったぼくは、さっきまで使っていたバスタオルをキレ気味に投げつけられる。
「うぐ……」
フルーティフローラルっぽい柔らかな香り(たぶんシャンプーのだ)が、嫌でも鼻に入って来てむせる。
「今日の夏々都、おかしいよ。 どうしたの」
まつりは、ズバズバと決め付けるような口調で、ぼくにはっきり聞いてきた。
ぼくはいろいろと頭を巡る単語を、どれも口には出来なくて、目を逸らす。
いや、目を逸らしたって、微妙に湿気を含んだバスタオルを頭からかぶっているので、そもそも表情には気付かれなかったのだ……と、安心した数秒後に、やはり放りなげられる。
……困った。
「どうもしないって」
仕方なく、まつりの方を向かずに、ぼくは答える。
「いや、そんなことないよ。だって、人の言うことを聞いてるなんて、昔はなかった」
まつりは不思議そうだった。
「いや、少しはあったでしょ……」
「無視するって、選択肢があった。話を聞くふりして、人気ない場所で断ってさっさと帰ってたよ、昔の夏々都は。それか『神経衰弱』とか、『コイン投げ』みたいな明らかに自分に有利な賭けをして、断ってた」
「……え、お前にとっては、そういうやつなの? ぼくって」
まあ、やりやすい手口ではあるけれど。なんとなく気が引けるから、普段は、ぼくはその辺の人にそんなことは滅多にしない。
しかし、確かに、どうしても面倒だなあ、と思ったときに、有効な口実を作ることが、ぼくに出来ないことも、なかったのだ。
──なのに、きちんと受けたのは、本当に助けてと言われたからか、と改めて聞かれると、ぼく自身も、よくわからなくなった。
無意識に困った顔になっていたのだろう。
まつりが、黙ってしまったぼくを気にしたのか「まあ今はいい」と急に、話題を切り上げ、それから、ぼくの左頬を、ぺろっと舐めて、のそのそと、勝手にぼくのベッドの布団に潜り始める。 さっきのはおやすみの挨拶らしい。
ぼくとしては、もうちょっと、一般的に人間が──他人としての『人間』同士が使うような挨拶を覚えて欲しいところだが、贅沢だろうか。その後、まつりが眠っている間に宿題、と、バスタオルを片付けていたら、1時間経っていた。そうなると、さすがに静かな時間帯で、シャワーは早起きしてから浴びることにしようと決めて、ぼくは寝る場所を考える。
あんまりあいつとは、眠りたくない。まつりが嫌だとかじゃなくて……寝ているまつりの悪癖が、嫌なのだ。
この癖は、椅子や壁際などでの、うたた寝の時には出ないのだが、布団などに入って本格的に眠ってしまうと現れる。……だから最初は気付かなかったが──。
まつりは、寝ぼけながら、その辺のものをかじるのだ。赤ちゃんみたいに、むにゃむにゃと何かを口に入れたりする。
大抵は枕なんかをかじって寝ているが、隣で寝るとぼくをかじるし、舐めたり噛んだりする。
加減がないので結構痛いし、首やうでの皮膚が、ところどころ、軽く内出血して変な跡がついたりして、散々だった(経験談)。
思い出してなんとなくイライラしてきたぼくだが、その耳に、唸るような声が届いた。
見ると、ベッドで寝ているまつりが、手をばたんばたん揺らして、苦しそうにもがいている。
助けを求めるように伸ばされた手をそっと握ってやると、強く力が入った。
苦しそうだ。
あいつは、長い時間休む、ということが、どうにも怖いらしい。
長い、といっても数時間だが、その数時間でさえなにもしない、というのが果てしなく怖いのだ。
意識が戻ったとき、誰も居なかったら。知らない世界だったら。
──それは、まつりには、きっと、計り知れないほどの絶望で、想像を絶するような、恐怖なのだろう。
目を閉じたまま、ぼくの気配の方に、ふらふらと寄ってくると、ぱた、と、ベッドのそばで覗き込んでいたぼくの肩に寄りかかる。そして、安心したように、すがるように、そのまま再び寝始めた。
「にゃらとー……」
──と、誰だそいつ、と思うキャラクターを一度呟くと、それからはわずかな呼吸が続く。数秒ごとに、むにゃむにゃと口を動かす。
「しょうがないな……」
しばらくそのまま固まっていると、まつりはぎゅう、と無意識なのか、ぼくを捕獲する。動けない。
「ちょっと、苦しいって……」
慌てて声をかけるが、まつりは寝ていた。
仕方なく、そのままゆっくり横になって眠ろうかと思っていたら、べし、とこちらに、なぜか蹴り飛ばされた、質量の軽い布団がかかる。
「うわっ」と短い悲鳴をあげていると、まつりはようやく──起きたらしい。
顔に布団をかぶった、そのぼくが、目覚めたばかりのまつりの視界に映る。
ただでさえ、ちょうど夢見の悪い、寝不足状態のまつりに、ぼくはどう映ったのだろう。
「………う……あ……」
小さく、そんな声が聞こえ──瞬間、泣き出した。夜中に、わあああんと響き渡ったそれは、ほとんど絶叫だった。どうも、かなり驚かせてしまったらしい。
まつりは、布団から顔を出したぼくに気付くと、機嫌を悪くしたのか、むっとした表情を向けてから、布団に潜り込んで寝てしまった。
まつりの《知っている人》が《顔》を《隠して》まつりの目の前に現れると、たまにパニックを起こすことがある。
着ぐるみは怖がらないが、胴体だけ《知っている人》で、顔が《仮面》なんかだと、大泣きする。
例えば。
『夏々都のはずだけど、夏々都なのかわからない』
という感じ。
それは、まつりが普段から抱える恐怖で、不安だから、だろうか。
軽い冗談のつもりでも、まつりにしては、あまりに笑えないものになってしまうし、ドラマにあるような「だーれだ?」なんて、やり取りは、陰湿な嫌がらせになってしまい、お茶目なんて生易しい表現では済まされない。
……これは、意図したんじゃなくて、事故みたいなものだったけれど。
どうしたものかと思っていたら、少しして落ち着いたまつりが、布団から腕だけ伸ばしてきた。「ななと、ななと?」
すぐ、困ったように、呼び掛けてくる。
「……驚かせちゃったな」
手を握って、小さく揺らしてみる。まつりは抵抗しなかった。
「んー。……その、考えたら、まつりが寝ぼけてただけだから、わざとじゃないし……だから、気にしないで」
蹴飛ばしたのかなんなのか、あの布団は自分が要因だと叫んですぐに、気付いたらしい。
「手と足を間違えたの。夏々都も入って欲しかったのに、足の方をめくってしまったから……」
なんで間違えたのだろうかと気になるが、たぶん間違えたのだから間違えたのだ。理由なんてないだろう。
「そうか」
「寝よー」
──そうして。ぐいぐい、と腕を引かれるまま、抵抗出来ないまま、ぼくは布団の方に近付く。まつりはいつもより眠そうに──だけど、優しく、ぼくを連れ込んだ。
気が進まないのはあるけれど、いざまつりに言われるとまあ、いいかと思ってしまう。怖いところだった。
布団の中はあたたかくて、そのままうとうとしていると、眠そうなまつりが、ぼんやり呟く。
「最近、バタバタしてたし、夏々都が帰宅した数時間くらいしか、夏々都と関わらなかったな……」
「なんだよ、いきなり」
目を開けて思わず言うと、まつりは、ぼくを撫でようとした。
布団をかぶってかわす。
まつりは残念そうだった。
「──あう。だからさ、寂しかったんだと、思って。そこまで気が回らなくて、ごめんね」
「……ああ、ぼくは、寂しかったのか?」
気付かなかった。
──そう、言われてみれば、確かに思い当たる点もいくらかあるような気がする。
「夏々都は帰宅するよりも早く、まつりに会いたいって、思ったんじゃないかな。夏々都は別に、クラスメイトに興味ないもの──でも、次から安請け合いはだめですよ、信用を失いかねません」
「わかった」
そうか、ぼくは、寂しかったのか。思っていたらまつりはふと、なにか気付いたようにぼくを見つめた。
「──で、ここからは、いちゃらぶもーどなの?」
「──……ん、今日、は、無理。寝ろ。おやすみ……」
──例えどんな間柄だろうと、二人でいると、一人で居たときよりも、寂しいこともあるのだと、最近わかったことをぼんやり思いながら、眠った。
朝に、ぼくがまた後悔するかどうかは、別の話。
翌日。授業中に、ぼんやり先生の声を聞きながら、眠くて堪らなかった。
昨日、いろいろあって、眠るのがいつもより遅くなったからだ。体もだるい……やっと終わった1限の時点で、すでに、倒れそうだ。
「夏々都くんどうしたの?」
しばらく机にうつぶせていたら、声をかけられる。眠くて起きられない。
暗闇が、心地いい。
「……ねー、夏々都くん」
あー、うるさいなあ。まつり、平日はいっつもぼくより熟睡してるじゃん。たまの休日くらい、ぼくにも、12時間くらい寝かせてくれよ。
──と思ってから、今は平日で、しかも授業中だからまつりはいないな、と思う。じゃあ誰だ? と思ったが、興味がない。
……だめだ、いい加減あいつに洗脳され過ぎている。このままじゃ、まともな社会人になるには危険な趣味思考が生まれそうだ。
いや、すでに、危ないのか。……ああ、眠い。
「あ、首のとこ、どうしたの? なんか怪我? 絆創膏が三枚くらい貼ってあるけど……」
突然闇から降ってきた、声に、飛び起きる。
梅原さんが、びっくりした顔で、いきなり飛び起きた同級生を見ていた。
ぼくを気にしているのは彼女くらいで、周りはそれぞれ騒いで、こちらに注目していなかったのが、まだ幸いかもしれない。
「あ……えっと、おはよ」
「うん。おはよ」
「……えっと、なに?」
「首──」
うーん。傷とかそういうのって、本人が触れない限りはスルーしとくのが暗黙的な礼儀じゃないのかな? とか、曖昧なことを思ってみるが、まあいい。
寝不足も重なって、いつもより細かいことを考えるほどには、頭は冴えてない。今はどうでも良いか。
「その。ペットに、引っ掛かれたんだよ」
ぼくが適当に言うと彼女は、目を輝かせる。……しまった。食いつかれた。
「結構爪が鋭いんだね。痛そうだよー」
「……あー……まあ、痛いっちゃ痛いね」
「結構激しい性格なのかな。あ。うちにも、リスがいるんだけどね、ぐうたらなんだ。夏々都くんのペットさんはなに?」
「……猫、かな。そうそう、激しくてさ。手に負えないときもあるよ」
猫のことなんてよく知りもしないのに、すごく適当に会話に混ぜた後(特に人嫌いではないが、まともな会話ってのが、よくわからないので、普段から会話自体は適当なのだが)保健室で寝ていたい気持ちに駆られながらも、ぼくは立ち上がる。顔洗ってこよう。
去り際に、せっかくなので一言、聞いておいた。
「──そういえばさ、昨日の夜、それと、今朝は、大丈夫だった?」
彼女は、青ざめた。
□
3限目が終わった辺りでやってきたクラスメイトの、在杉(ありすぎ)を、教室に入ってきたところで呼び止めると、彼は、えっなんで? という顔をしていた。
彼との接点は──特にはないが、一度、階段から落ちた際に、保健室に行くのを助けてもらっていた。
「……あの。なにか、用?」
焼けた肌の、穏やかなスポーツ少年、といった感じの彼は、短めの髪の後ろを、軽く掻きながら、気まずそうだ。
「あのさ」
ぼくもどう切り出すか考えてしまう。数秒迷ってから話し出そうとしたら、あー! と、彼からの思い出したような声が上がった。
「そういえばお前、まえに、階段から落ちたじゃん。あれ、なにがあったんだ? 途中まで普通に歩いてたのにさ、突然、階段を転げてったから、あんときびびったわ!」
「……うん。あのときは、どうも。なんか、急にふと壁際を歩かなくてもいけるかなって思っちゃったんだよ」
家などだとまつりがさりげなくそばを歩いてくれたりするせいで、つい、錯覚しがちだが、今でも、もっと小さかった頃よりは大分マシなものの、ときどき壁にぶつかるし、わりと真剣に、気を抜くと10回に1回くらい、歩く道を見失うことがある。
「壁際?」
彼は不思議そうにしていたが、説明してもたぶん伝わらないだろう。あわてて話題を戻す。
「……あー。えーっと、とにかく、ちょっと話したいことがあるんだけど、今日、の放課後とか、空いてない?」
「それ、すぐ終わる?」
「うん。たぶん……」
「たぶん?」
「お、終わる」
「わかった、じゃ、また放課後」
なんとか交渉に成功したようだ。気付かれないくらいに小さく息を吐く。
在杉はじゃ、と言って廊下に出ていった。トイレかどこかに行ったのだろう。
実は今朝、まつりから話があったのだが、まつりの情報網(うちのクラスの女子が、悪魔にあっさり誘導され、メールで話してくれたらしい)によると、『梅原さんが在杉と付き合っていたが、彼女の方がなにか事情ができたから、別れたがっている』という噂がある、らしい。
「これが関係するんじゃない?」 と、まつりは言い、その後は、事件にもぼくにも興味なさそうに、ぬいぐるみやクッションの中に埋もれて幸せそうにもそもそと動き回っていた。楽しいのだろうか。
出かけるとき、お前は結末を見届けないのかと聞いてみると『ちょっと用事ー』というので、来ないのかもしれない。
改めて教室に戻ってきたら、今度は梅原さんに見つかった。
人間関係に、深く関係したくないのに、関係の間に挟まれるこの感じ、やっぱりどうも苦手だ。もし二人の間柄での話なら、正直、帰りたい。
しかし、無視も出来ずに一応返事をする。
「……なに?」
「……ねぇ、夏々都くん。在杉くんと、な、何か話した?」
焦ったような彼女が、聞いてくるが、ぼくは「別に」とだけ答えて席に戻る。えーっと、次の授業はなんだっけ。
確か、本日の必須科目は終わりで、あとは選択だったような……考えていると、今度は少し前に、席が隣だったが今は随分離れた、お調子者の男子生徒が来て「お前、在杉と会うのか? 偶然聞こえたけど、話があるって──」と、不安そうに聞いてくる。
ああもう。ぼくは昨日、ほとんど眠れなかったんだ。とりあえず寝かせてくれ。そう思って、無視してうつ伏せた。
彼女はともかく、こいつがなんで不安がるんだろう。まあいいや。ああ、眠い……
それから放課後まで、特に、これといった出来事はなかった。今日のお昼は教室でのお弁当だったのだが、昨日の言葉を受けて、なんとなく……気まずい気がした。
食べたけれど。
中身は、タコさんウインナーが4つ(目が描いてある)。だし玉子焼き、おにぎり、キャベツサラダ、リンゴ、ハートの形の器に入ったグラタンといった感じだった。
これが、恋人みたいな感じのお弁当というものなのか……と思う。ちなみに親みたいなお弁当って、どんな感じなんだろう? ちょっと気になる。
どこか遠くで「ほらやっぱり、あのお弁当は、夏々都くんの技術じゃないよ!」とか、誰かが言ってるのが聞こえた。
……そうだろうけれど、はっきり言われてしまうと微妙な気分だ。
ぼくにはきっと『隠れて恋人(料理上手)がいる、しかも同棲済み』という噂が回ってるんだろうなあ、と思うと、さらに複雑だった。まつりが知ったら、不機嫌になるのだろうか。
下手に否定してもややこしそうだから、ノーコメントでいよう。黙秘権だ。
まあ、それはともかく。
放課後が訪れると、ぼくは在杉と一緒に、ひとまずグラウンドを歩いた。ちょうど今日、サッカー部は遠征で居ないから、ひとけも特には無い。
「……なんだ、話って?」
そう言って聞いてくる在杉に、まずなんと切り出そうか、そもそも情報元を出すべきなのか、などと、ぼくは、ぐるぐる考える。
梅原さんの名前を出す方がいいのか、悪いのか。
そもそも恋愛ってわからない。なぜ好きだからといって付き合うのか、いまいちぼくにはピンとこないし。
たしか、ぼくの母さんは、あんまり好きになれない人と、だけど好きになるために結婚したんだというし、そういう付き合いもきっと存在するんだろう。
そんな人たちを見てきたからこそ、ぼくはうまく、好き=付き合う、と、単純には考えることが出来なかった。
単純に好き嫌いだけが関わってそうなるばかりでは無い問題だという気もする。
(好きだから、ではなく、ただその先に何か、そばにいたい気持ちになるものがあるから──?)
「……なあ」
「おう」
「女子高生を追いかけてなかった?」
考えても仕方ないので、無難に、ストレートに切り出した。
「……女子高生? なんでそんなことを、おれがするんだよ」
在杉は、驚いたような、笑っているような顔をした。
「……そりゃあこの前、見たからさ」
「あっ、そうだ、お前、そういえば、梅原と昨日放課後に、何を話してたんだよ!」
在杉はこのタイミングで聞きたかったことを思い出したのか、思わずといったようにそう聞いた。
「昨日? ああ、彼女が請け負ってる係の手伝いを頼まれたから助けて、別れて帰ったよ」
「嘘だ」
「あー、そうだっけ。お前、詳しいな。ぼくのことなのに、ぼくより覚えてるや──じゃあ、何をしてたんだろう?」
「──そ、それは……知らねえよ」
「……知らないのに、どうして、嘘って知ってるんだよ? っていうか、そもそも何の用事だったかを、知らないから、聞いたんだよな……あれ? えーと、だから……きみは『何の用事だったか』って聞くべきで、『何を話していたか』って聞いたら、ほとんど自滅というか……」
「だっ──だ、だだから!」
「別に、善悪にもきみの青春にも興味ないけど。でも、付いて来てたのは、見えたんだよ。ほら」
ぼくは、慣れない手つきで、まつりがこっそり撮影していたらしい、デジカメから印刷した写真(機械を渡されると、壊れる可能性があるので印刷だ)を見せる。
「あ──!」
それは、紛れもなく、遠くの物陰から梅原さんを付けている、男子生徒の写真だった。
「──きみが話してくれたら捨てる。約束するよ」
ぼくは、言う。
在杉は、まいったなと笑って言った。
「お前って、ときどきSが入ってるよな?」
「まさか。ちょっと寝不足で、機嫌が良くないだけだ」
……そうして彼が語った真相はこうだ。
手帳は自分のもので、中には日付と、一、二行のポエムを書いて付けていた。なんのポエムかというと、『彼女』の可愛らしさだとかを抽象化して描いたものだという。恥ずかしいので、クラスの誰にも言っていない。
それは彼女が部屋に遊びに来たときにも、部屋の机に置いていたが──しかし、書いたと言っても、もし見られてもパッとはわからないようにと、あるペンで書いた。
それが、一見透明なインクだがブラックライトを当てると、塗料が反応して文字が見えるという、最近は100均等でも買える、あのペンだった。
《中身》は、あったのだ。暗闇では見えないだけで、手帳は、白紙ではなく、光を当てれば、見えてしまう。
彼はある日、手帳をどこかの道で無くし、遅くまで探した。焦ったという。中身の秘密がバレていないとしても、日々大切にしていた手帳だ。
しかし結局見つからずにがっかりして、歩いていた帰り道。
途中にある交番で、彼女が、ライトを当てて、手帳を読んでいるのを目撃してしまう。
ずっと探していた疲労や焦りから冷静でなかった彼は、ライトが、学校で配られた、関係のないものと見分けることが出来なかった。 ただでさえ、辺りは薄暗い。彼女の手に持たれた、細かなライトの違いが見えなかったという。
彼はそんなわけで、注意深く見て、考えるよりも先に焦った。
もしかしたら、部屋に来たときには、いつも自分が、ポケットに入れている、ライトの存在も知られていたんじゃないかとか、トイレでこっそり光を当てて見返して、にやついていたのを、知っていたんじゃないか、とか考えると、いてもたってもいられなかった。
──実際、彼女の目にはありふれた黒い手帳、という印象しかなく、彼がそんなことをしているのも、知らなかったのだが。
まつりは、昨日既にライトについて予測していた。
だが手帳の現物も、ライトも持って無いし、確かめられないから、無責任には言わなかったらしいと、ようやく思い当たった。
この確証がなかったのだ。
それに、あいつは謎を解くとか解かないとかに、そもそも興味はない。他人の悩み事自体にも、詳しく興味があるわけではないから、わかったらわかっただし、わからなかったらわからなかったで、満足する。
まあだから、本当は、他人なんてどっちでもいいのかもしれない。あれは、ぼくに気まぐれで付き合ってくれて、ついでにパフェを食べたかった程度のものだろう。何か期待したところで、まつりは、本来そういうやつだ。
──って、まつりについて考えている場合でもなく、話を聞き終えたぼくは「そうか」と頷いた。そして、ちょうど、そのときに、梅原さんが走ってこちらにやってくる。
「そうだったんだ。あれは在杉のだったんだね」
彼女は、そう言って、グラウンドの隅っこ、一階の空き教室のベランダ前辺りにいるぼくらに割り込んできた。
「こぶちゃん!」
在杉が、飛び上がるような声をあげる。
「ややこしくしちゃってごめんなさい……」
「いや、おれこそ、その、なかなか言い出せなくて。ライトも無くしちまったし、どっちも持ってるんじゃないかって」
「え。持ってないよ、ライト」
二人が穏やかに話し始めて、場は解決しそうな空気になってきた。さて、もうそろそろ帰るか。
そう思った矢先──
「じゃあ、いつも帰るとき私のことを付けていたの、あなただったんだ?」
そう彼女が聞き、空気が変わる。在杉は、驚いた顔で、否定した。
「え? いやいや。おれは、手帳をなくしただけで。あと、ちょっと家の前で待ってたりはしたけど。でも、帰りはすぐ帰って宿題とかやってるし……あのときだけだよ。普段は、後を付けたりはしていない」
どういうことだ。
男子生徒、としかまつりは言わなかった。あ、あと、「これが関係あるんじゃない?」と言ったんだっけ。でも、彼女を《帰りに》付けていたのは、彼ではない?
「──ま、いっか」
「良くないよ!」
梅原さんが叫んだ。どうやら、心の声が表に出てしまっていたらしい。
「だったら、誰なのかな……私、怖いし」
「ふうん……」
ふと、まつりの言葉を思い出す。今朝、勝手にぼくの携帯をいじりながら言った台詞だ。
『──彼女、夏々都にこんな明るいメールを打ってる場合なのかな。いや、まあどんな場面でもやけに明るい人ってのは、存在するけれど。ありがとうございました、って過去だよね、まるで』
──考えてみれば、ぼくやまつりは、ただ、彼女から話を聞いたというだけなのだ。
『いつも』の確証はない。
本当は、彼女を疑いたくはないのだけれど『別れたがっている』の噂もあるし、どうも、気になる。
もしかして、と口を開こうとした、そのときだった。
「あの道は──特には他の住宅や店があるわけではないし電柱なんかも見当たらない。学生は大体時間通りに登校するから、その時間に学校の辺りに待ち伏せておくのがいい。――けれど、あの通学路で、潜んでいても目立たない場所は、並木の影か、家の塀くらいしかない。学校から家まで、顔も気付かれずに付いて来られるのは、忍者か知り合いくらい」
突然声がして、ぼくは振り向く。佳ノ宮まつりが、カーディガンの袖をだらんとたらしながら、校庭と市道を分ける、金網フェンス部分に、無表情でもたれていた。
病院に行っていたのか、片手にビニール袋。ちらりと見える中身は、青い字で『内服薬』と書かれた紙袋だった。4袋くらいで、なかなかのボリュームがある。
「……まつり、体調、悪いのか?」
昨日は元気いっぱいだったように見えたのに。心配になって聞くとまつりは、にこっと笑った。
……なんの答えにもなっていない。
「夏々都は心配しなくていいよ」
小さい子に言うように、そう、そっけなく言われてしまう。
むむ……なんだか、悔しい。唇を尖らせると、まつりはけらけらと笑った。
「そう拗ねるなよー。夏々都は、ただ授業を受けて、将来を考えていればいい。その間まつりは、ちゃんとまつりのことを考えてるから、大丈夫だって、本当に」
「……お前、いっつもそうやってさあ、心配させる気無いんなら、ずっと完璧に隠してろよ! ちらつかせといて、勝手なんだよ」
「おや。急に怒っちゃって。まつりは別にこれを見せびらかしてるんじゃないし、最初は遠くから見てるつもりだった。けどなんか、飽きちゃったからさ」
「なんだよ、それっ」
「もう、夏々都は心配性だな。夕飯、好きなものを作ってあげるから、機嫌を直してよ」
「ぼくが、食べ物で釣れると思ってんのか」
「ふうん、何なら釣れる? いいよ。あげられるものなら考えてみるよ」
「そ……それは」
フェンスを挟んでにらみあっていると、突然、梅原さんが、こほん、と咳をした。喉が痛くなったのだろうか。在杉は、なにか恥ずかしい光景でも見たように、視線を泳がせる。なんなんだよ。
戸惑う在杉は、すぐにこっそりぼくに言った。
「マジで居たんだ」
「……マジでって?」
まさか。
「高校卒業したら結婚予定、同棲中のラブラブな恋人。なんか悔しいけど、すごい美人じゃん」
興奮気味に喋られる。
っていうか、なんか、予想より、とんでもない噂になっていた。
大切には変わりないが、別に恋人ではないのだけれど。
「いや、幼なじみだよ。昔から、よく一緒に居ただけ」
「うわ、いいなあ。あんな美人にお弁当も夕飯も作ってもらうとか、新婚さんかよ……やっぱ、夜も?」
話を聞けよ。
「……もう、お前に教えることは何もない。これからは自分のために自分を磨きなさい」
「厳しい修行を潜り抜けたときのセリフみたいに言うなよ。なー、週1? 週5?」
「……さあ」
うーん。同級生の、こういうノリに、やっぱりなんとなく付いていけないのは、ぼくが疎いからだろうか。
適当な相づちを打っていると、まつりが不機嫌そうに、フェンスの破れた穴の部分から、ぼくを袋で狙ってきた。
咄嗟にさっと避けると、チッ、と舌打ちされる。
何か言おうとしたが、それより先に、まつりが口を開いた。
「……じゃ、男子生徒。まつりに見覚えはある?」
……男子生徒の名前はどうでもいいらしい。在杉に向かって、まつりは投げやりに、問うた。ので。在杉は戸惑って、慌てた。
いきなり話かけられたからなのか、美人、と思っているからなのか。もしかしたら、どちらもかもしれない。
「昨日、夏々都と梅原さんと公園に居たんだけど、見ていたよね?」
「……あ、あ、うん。」
視線をさ迷わせながら彼は必死に頷いた。
「ファミレスにも居たけど、見てたよね?」
「……ああ、ハイ」
それを答えさせると次に、ぼうっと立ったまま黙っていた梅原さんの方を見て、まつりは言った。
「夜、こっちの町に帰ってきみと別れてから、遠目にきみや周辺をしばらく見張ってみたんだけど」
「はい……」
「やけに楽しそうだったね。いや、良いんだ。どんなときも、楽しいと思うのは悪いことじゃない。――ただ、登校時刻はともかく、下校時刻ほどに曖昧な物は、ないと思う」
「なにを、言ってるんですか。まっすぐおうちに帰る人だったら、時間通りのパターンが出来ますよ」
「きみは違うよね? ファミレスとか、放課後によく行ってる」
「な、なんで、そんなことが……」
「財布を持ち歩いてて、それは1000円くらいは入っている。中身にはちらっとレシートが見えて──さらに、ここにいる女子高生の一部の方とは、まつりはたまに、お話しているんだけど、テスト週間で早く帰れる放課後には、ファミレスでデザートを食べに行くんだって?」
「……」
梅原さんが黙った。
テスト週間は、確かに、ちょっと前に終わったばかりだ。
そして、少しして、まつりはまた呟く。
「んー、きみはどうしても、夏々都と帰りたかったんじゃないかなって。まつりと暮らしてるかとか、お弁当のこととか、知りたかったでしょ。夏々都がまつりと居るのをどこかで見てしまってたり、女子の中でも噂がもともとあったりしたのがきっかけかな──」
「な、っなななな! ストーカーさんの話をしてるんです。シリアスな話ですよ」
梅原さんが、なぜかうろたえていた。まつりは、表情ひとつ変えなかった。
「『私の危機なのに、かけつけて来ないし、頼りにならないなんて嫌。別れよう。それより、夏々都の方が頼りになった』みたいな話に持って行きたかった?」
「……さっきから……さっきから、何を言ってるんです」
梅原さんが、目を泳がせる。まつりは、意地悪そうにふふ、と笑って、フェンス越しにぼくを引き寄せる。
「何?」
「来て」
何か、秘密の相談をされるのだろうなと、フェンスの破れている部分から、向こう側のまつりへ顔を近付けた瞬間、はっきりと口付けられた。ぼくの口腔内へとまつりの舌が入り込んでくる。唾液が一筋、顎を伝った。
「……!」
そのまましばらく、ペロペロと口の中を舐め回されていた。
無駄に巧みな技術と慣れない刺激に、頭が、ついぼーっとしてしまう。
って……そうじゃない。しっかりしろ。
「何、してんだ……」
引き剥がすと、まつりはちらっと、梅原さんの方を見た。そして、特に何も言わずに、ぼくを見て、笑った。
「夏々都は、もうちょっと動揺してよ。何で、なんだかんだで受け入れちゃうのかなー。やっぱりマゾの素質があるんじゃない?」
「……その素質、要らねぇ」
「これはただの、幼なじみ的挨拶だよ?」
ぼくが呟く間に、まつりは今度は梅原さんを見て、そう言う。
しかし彼女は信じておらず、ガクガクと口を動かして、固まっていた。
まつりはきょとんとしたまま、彼女の様子を気にかける。
「あれ、どうしたのー? ずっと知りたがってたから、教えてあげたんだよ。あのね、まつりに何をされても、夏々都は何も思わない。だから、大丈夫。こんなの、無意味なんだよね。ほら今だって、こんなことをされて別に照れたりしてないでしょ? 幼なじみとしては、夏々都が心配だし、もしかしたら本当に、恋人でも出来たら、さすがに照れたりするのかもしれないし……そういうのを、少しは味わって欲しいって、思ってもいるんだ。きみみたいな子とか、どうかなって」
「……あなたは……あなたは、どうして! 私の前で、そんな、わかって、いるくせに」
「んー。何で、そんな怒ってるのかなあ? 夏々都が何も感じないのだから、何もカウントされてないんだよ。だから、まつりは関係ないじゃない」
「そういう問題じゃ……」
「──今、きみが取り乱したときに、まつりが思っていた通りに、ストーカーを作り上げての自演だったって、証明されたようなものだよ。付き合っている人と違う人に話しかけているだけで、気になって仕方なくて、つい後を付けちゃったりする──在杉とかいうのが、そういう気になったら追わずにいられないタイプの人だと、知っていたきみは、その心理を利用して、ストーカーを作り上げた」
「そ……そんなの、後からいくらでも言えます」
「うん、そうだね。ねぇ、在杉、一度放課後に付いてったとき、ストーカー、見た?」
「いえ……俺以外、同じ方向に付けてくる怪しい人とか見てません」
「──まつりも、感じた視線はひとつだったと思うよ。ストーカーが、知り合いが一緒に帰るのを察知してその日だけやめた、なんて可能性もあるけど、何時に帰るかも不安定なんだから、いちいち察知するのは大変だろうね。数ヶ月前から観察されてたならともかく。つい最近の話っていうし」
「こぶちゃん、やっぱり──」
在杉が悲しそうに彼女を見る。梅原さんは、目を伏せたまま、固まる。
その間に「ま、あとは若いお二人でー」と適当な台詞を残し、まつりはさっさとフェンスを離れて、帰路につき始めた。
「待てよ!」
ぼくも、慌ててまつりを追いかける。
あれから二人が、どうなったのかは知らない。
別れたのか、復縁したのか。
ただ、ぼくは、やはり付き合うって意味が、よく、わからなかった。
結局、互いに気を使って、互いに余計に疲れているだけじゃないか、とぼくは、二人を見ていると、思った。
ただ、幻滅せずに好きな部分だけを見ていたいのなら、ぼくは、片思いでいい気がする。
好きな人と付き合った、ということがきっかけで、好きな人を嫌いになるなんて、なんだか、寂しいじゃないか。
どうして人は、わざわざ繋がりたいのだろう。
過去にたくさんの傷を隠して、現在にたくさん傷を作って、目の前の傷を、埋め合おうとするのだろう。
身近に四六時中居ないと、そこまで不安なんだろうか?
ぼくには、わからなかった。
やっと追い付いたまつりと帰宅する際、校庭の途中で人影に会った。名前を忘れたが、昔席が隣で、教科書を貸してやったクラスのお調子者のやつだった。
悲しそうに、こちらを見ていた。もしかして、梅原さんが好きだったのだろうか。何か言おうかと思ったが、かける言葉がなかった。
はっきりと、恋愛をした、と言える経験が、ぼくには無いから。
「いやあ、夏々都はモテるね」
家に帰るなり、まつりはクスクスと笑った。他人の気持ちを弄ぶ、悪魔の笑顔だ。
「……本当に、梅原さんが、ぼくを──」
「ちょっとからかい過ぎたのかな?」
「ちょっとどころじゃねぇだろ……」
手を洗うぼくの横で、まつりはリビングのソファーを占拠中。相変わらず、気儘だった。
「あんなやり方。トラウマになったら、どうするんだよ」
手を拭いてリビングに向かいながら言うと、引き寄せられて、膝の上に乗せられる。ペット扱いだった。
「夏々都は優しいね。でもあの子はたくましいよ。だって泣くどころか、こっちを睨み付けていたもの。カウントされてないって言ってるのに。だから、大丈夫」
「なんだそりゃ……」
流れでそのまま、するっとシャツの下に手を入れられそうになって、慌てて、はたき落とす。いきなり、真剣なトーンで名前を呼ばれる。そして、まつりは語った。
「隠してても仕方ないから、きちんと言うね。もともと、まつりは体内にあらゆる成分が、足りていないのです。それこそ血液、糖分、あと、ホルモン的なものも──だから、これからは、少し固定していかなきゃ、死んじゃうかも」
「なんだよ、それ……死ぬって、どういう」
「これから、まつりは、病院に通うことが増えると思う。実は、体調が、どんどん安定しなくなってきた。
んー、と。そうだね。
成分が不安定だから、常に栄養不足とか、自律神経とかがね、なんかこう、影響されちゃってるみたいです。気分が落ち着かないのもそうだけど、身体の痛み、激しい吐き気、めまい、呼吸困難、心臓発作、血圧の急な低下上昇、は、これまでもあったの。休んだら、なんとかなってたり、ならなくて病院まで行ったり……大人になるにつれその回数が、増えてきたよ。
あらゆることが安定しない身体って、突然死を招きかねないんだ。血液のにおいに反応しちゃうのも、きっと、鉄分かなにかが足りてないからだね。あらゆる数値を安定させるために、今よりも、あらゆる能力が陥る身体になって、いくかもね」
「そんなこと──」
「……もし、さ。まつりが、どうなっても。夏々都は、そばにいてくれる?」
「当たり前だろ……」
「ふふっ──ねぇ、ななと。まつりが生まれ変わるなら、男の子と女の子、どっちが好き?」
「……わからない」
「まつりが、まつりであるなら、どっちでも好き?」
「……知らねぇよ。そんなの、決められない」
「あー、でも、女の子だと、今の日本で誰かと結婚出来ても、相手をおよめさんに出来ないね……イチャイチャするにも、立場を逆転するようになるのはやだなあ。夏々都はされる方が好きでしょ、まつりに」
「……ばか。なんでぼくが出てくるんだ……」
「あ、照れたー。本気にした?」
「……知らない。真面目な話じゃないなら、部屋に戻って寝る」
「発作とか、起きたらさ。人工呼吸してね」
「……変態的な意味が含まれてるならしない。本当に必要な状況ならな」
「今度──入院しようと、思ってるんだ。検診結果次第だけど」
「すれば、良いだろ……!」
「あ、今度は怒った。よしよし。うふふふ、夏々都は寂しいときに怒る癖があるよね。寂しいときは、寂しいって言っていいんだよ」
「……寂しいよ」
「え──」
「寂しいよ、まつり。でも、だから──お前に、もっと生きて欲しい。今苦しむなら、少しでも苦しまないようになってほしい。ぼくは今後お前がどうなっても、別に、何も今と変わらないから、だから」
それを、聞きながら、まつりは、ぼくをぎゅっと抱きしめた。最初はやや、怯えたように震えていた手は、次第に、力強くぼくを包んだ。
「ななと、ななと、ななと、ななと……忘れたく、ないなあ」
「会いに行くよ、学校がなかったらな」
んー、と唇を寄せてきたので、手のひらで阻止して、代わりに頭を撫でて、ぼくは自分の部屋に向かう。
言っていた通り、まつりは、まつりのことを考えているんだ。なんだか、ぼくも、ぼくの将来を、考えないと、と、急に焦ってしまう。
「よし、集中、集中──」
どこか、先が見えないことが漠然と、不安になって、その感情を掻き消すように、慌てて机に、難しい試験問題を目一杯広げるのだった。
END.
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