四十四 閨房の女

 三条の公家の屋敷の結界けっかいは、すでに解かれていた。

 迎えに訪れた果心に、立ち上がって笑顔を見せたとたん、その場に流酔はくずおれ気を失った。

 とっさに支えた果心の腕の中から、しかしその身体はすぐに浮揚した。流酔の遣う式神たちが、持ち上げている。

 外に出ると、激しい雨を、二筋ふたすじまたたいて雷光が映した。だが、瞬時に立ち上がった青い炎が揺らめくと、その炎に断ち割られるように、激しい雨は、流酔の行く手を侵さなかった。

 同じように、流酔の屋敷にもよも運び入れられたことを、果心は思い出した。

 留守を守っていたかずは、落ちついて床を延べた。

 横たえられた流酔の静かな寝息を確かめた果心に、

「果心殿もご無事で、安堵あんどしました」

 甘やかな香りとともに、かずがしだれかかった。

 その肩を背中から包むように右手で抱いて、

「かず様」

 果心が呼ぶと、熱い視線をかずは返した。

 つややかな髪と濡れた唇。そして、甘美な香り……

 「閨房けいぼうの術でございましょうか」

 刹那、はっとしたかずに、

「義興様のお命を奪い奉ったのも、お手前か」

 言葉をかぶせた果心に、

「何を仰せじゃ」

 女はとぼけた。

「遠耳とやらは、三条の屋敷の裏口辺りで、雨に打たれておるぞ」

 息を飲むばかりの女に、

「かず様は、果心殿とは言わぬ」

 言った果心の言葉で、

「あ」

 声をあげて果心の腕から女は逃げようとする。

 すかさず、左手の傷から、果心は女に血を吹きつけた。

 思わず両手で顔を覆った女の顔は、赤く染まって、かずとは似もせぬ夜叉やしゃのごとき面相であった。

 けれども次の瞬間、女は妖艶ようえんに微笑むなり、着物を残して果心の手から逃れると、雨闇に姿を消した。

 その後を、果心は追わなかった。

 果心の胸を、愛しい女を再び失ったやもしれぬ、という思いが貫いていたが、別間で気を失っていたかずに、怪我はなかった。

 死人の顔を用いて顔盗みを施しては、見破られる危険が高くなる。遠耳が果心に敗れれば、流酔とともにいつ帰ってくるかわからない。生かしたまま顔を盗むだけで、女は精一杯だったのだろう。

 果心に見出されたときには、

「流酔殿は……」

 気丈きじょうに問うたが、

「式神がついております」

 それを聞いて、その胸に顔をかずはうずめた。

 そのとき、胸に込み上がってきたものに、果心は戸惑った。

 もよの顔が浮かんだ。

 かずを、果心は抱きしめた。

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