四十三 遠耳

 闇夜あんや

 月を隠して雲は黒い。

 いかに先を急いでいたとは言え、声をかけられるまでそこに人の気配を感じ取れない果心ではない。

 それが、

「お急ぎか」

 三条の、その屋敷の裏口の前で声を果心はかけられた。

「驚かせましたかな」

 のんびりした声音を発して、気配を断とうとした果心に、

「果心さんでございますね」

 その者が言うと、わずかに雲が動いた。

「おんじ、と申します」

 雲が切れて光を月が投げると、

「遠き耳、にございます」

 言って微笑んだ茶筅髷ちゃせんまげの小男の両眼に、黒い瞳はなかった。

「さて、世に松永久秀の悪名を知らしめた幻術師の、お手並みを拝見したいと存じますが、いかがでございましょう」

「なるほど、御身おんみ、眼が見えぬとあれば、小賢こざかしい術など益体やくたいもありますまい」

「いやいや、我が唯一の術すら、果心さんに破れたとなれば、もはや、あきのうてはいけませぬ」

 遠耳おんじの言葉が終わらぬ前に、再び月を黒い雲が隠した。

 同時に、果心も遠耳も己の気配を断つ。

 相互の距離は、果心に声を遠耳がかけたときと変わらぬはずだった。

 空いっぱい覆った雲を、一瞬、稲光が照らした。

 雷音はない。

 もう一度、雲が光って、

「果心様、おうらみ申し上げます」

 頭上から、女の声が聞こえた。

 それに気を奪われたと見せかけた刹那、遠耳の突き出した細いやいばを、左のたなごころで受けて、すかさず右の手のひらで掴んだ遠耳の顔へ、己の左手の痛みを念として果心は送った。

 遠い雷鳴。

 続けざまに二度、痙攣けいれんしてくずおれる遠耳の身体に合わせて腰を落とした果心は、左の掌に刺された刃を抜くと、そこに転がった、よく見ると、ずいぶん老いた小男を見下ろしながら、それを捨てた。

 直後に、雲を裂いて明滅、雷鳴が響くとともに、大粒の雨が降りかかった。

 そのまま、足早に立ち去った果心だったが、背後から、

「果心様、お憾み申し上げます」

 と、誰かに呼びかけられているような感覚が拭い去れなかった。

 ただ、それは決して不快をともなうものではなく、

「世に松永久秀の悪名を知らしめた幻術師」

 という遠耳の声とともに、果心には心地よいものだった。

 もちろん、果つる心を長く埋めるものにそれがならぬことも、果心は承知していた。

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