四十 かず
西に、日は傾いていた。
だが、まだ
四条河原には、親子連れが浅瀬に足を入れてはしゃいでいたり、女ばかりでおしゃべりに興じていたり、若い男女の木陰で語らう姿も見えていた。
そんな中にあって、
二十七年前。
まだ果心は十五歳だった。
己の技倆に慢心し、加藤段蔵を見くびったがために仕掛けた
果心の、外法師としての苦い原点である。
川岸の、その原点となった辺りで、歩みを果心は止めた。
「いかがした」
ゆるりと落ちついた声で、後ろに続いていた左京大夫が問うた。
長慶が多聞山城を出立するときに、気分がすぐれぬと城に残ったのは、左京大夫自らの芝居であった。
その長慶に楓を送り込んだように、えいと揚羽に果心が顔盗みの術を施すときにも、左京大夫は己から果心に身体を貸し与えた。
そののち、女としても果心に左京大夫はそうしたのである。
長頼の死に久秀が向けた疑惑を不快に覚え、多聞山城から果心が立ち去るときも、己からそれについて城を左京大夫はあとにした。
「わしについてくると、死ぬやもしれませぬ」
そう告げて一度は制してみたが、返事の代わりに黙って果心の前を、左京大夫は歩き始めた。
「好きにするがよい」
という言葉を、果心は飲み込んだが、
「果心は」
伏し目がちに言って、
「面白そうじゃ」
果心の横をすり抜けるときの左京大夫の声は、少し弾んでいたようだった。
とどのつまりは、左京大夫ももよも同じなのかもしれない。
己の今の状況から、生まれた家から、買われた長慶から、そして奪った久秀から、左京大夫はただ逃れたいだけではないのか……
もしそうなら、いずれ果心の
女の
今さら、そんなことで傷つくかもしれぬ己を想うとは……
と、かすかに己を果心は
しかしそんな自嘲を消してすぐ、左京大夫に果心は、
「いや、懐かしゅう思うたまでにございます」
言うと、
「
まるで世間知らずの
果心の知る限り、久秀の前では見たことのない、左京大夫の笑顔だった。
「昔、ここで女を死なせた」
思いもしなかった笑みに、手にした何かを取り落としそうになるのを、慌てて掴み直そうとするように、果心の口からそれがこぼれた。
黒い瞳を大きく開いて、まあ、と形だけ口を開いたが、
「それで、ついてゆくと死ぬかもしれぬと……」
「左京大夫様も」
「かず、でよい」
言葉を遮られて、左京大夫を果心は見た。
「かずじゃ」
そこで、凛と言葉を切って、
「左京大夫など、飾りの名に過ぎぬ」
言い切った左京大夫を、いや、かずを、刹那、惚けたように果心は見つめた。
「果心というのも、誰ぞに押し付けられた、
それにはわずかに苦笑を見せて、
「自ら付けた名にございます」
答えると、
「ほんとうの名は捨てたというのか」
少し驚いたような左京大夫に、
「親のくれた名は、要らぬ者、と申しました」
言って、左京大夫から視線を果心は外した。
「要らぬ者」
左京大夫は言葉尻を上げた。
「余り物の、
果心はまた自嘲した。
「なるほど、それなら捨てとうもなる」
独り頷いて、
「ならば、果心とは」
子どものように問うた左京大夫に、
「果つる心にございます」
「あ」
今度は驚きの声を左京大夫は発した。
「かず様」
呼ばれて、
「暗くなる前に、参りましょう」
再び、果心は歩きだした。
だがすぐに、
「果心」
直接、その背中に呼びかけたのではなかったかもしれない。
けれども振り向いた果心に、
「果心の心は、果ててなどおるまい」
言って、はっと目を見開いて動きを止めた果心をそこに置いて、今度は左京大夫が、いや、かずが歩み始めた。
鑑真和上の船を嵐から護った外法をまだ手にしていなかったことを、果心は思い出した。
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