三十八 二人左京大夫

 己の心が満たされるのは、他者を屈服させたときか、さもなくば、誰ぞの心を踏みにじったときか、そう久秀は思っていた。

 ただ、それで心が満たされるのは、いつも一瞬でしかない。だから、女を何人も久秀は囲った。

 長慶から下された楓も、その楓を使って長慶から奪った左京大夫も、久秀にはそうした己を満たす遊具の一つに過ぎない。にも関かかわらず、長慶の元に返した楓を見て、改めて楓を欲しいと久秀は思った。

 それは、刹那、己の心を満たしたいという感情とは異なるもののようであったが、明確な言葉をそれに久秀は与えることができなかった。

 長慶の葬儀を終えて、すぐに髪を楓は下ろした。時期を見計らって見舞いと称し楓との面会を久秀は試みたが、楓は拒んだ。

 果心に術をかけられたにもかかわらず、心を開かぬ左京大夫にも、以来、苛立いらだちを久秀はつのらせるようになった。権力と金を使って他者を屈服させれば、兵も女も久秀の意にそむきはしないが、心までは開かない。

 宙に浮いた己が空回りしているようなれた感覚を、久秀は覚えるようになっていた。

 よわい五十四になる久秀に、そんなことを長慶の死は突きつけたのである。

 しかし一方で、久秀の荒ぶる心を、長慶の死は解き放った。

 誰に遠慮することなく、天下を我がものとする機会を、久秀は得たのである。

 長慶が亡くなって明くる永禄八年(一五六五)五月。

 二条城において足利あしかが将軍義輝を、自害に久秀は追いやった。

 ために、将軍後継を巡って、三好長逸ながやすを筆頭とする、三好正康まさやす、岩成友通ともみちら、いわゆる三好三人衆と長く対立する状況に久秀は陥った

 八月。

 丹波たんば黒井城を襲っていた弟、長頼を久秀は失った。

 合戦のさなか、馬上でふいに虚空こくうに目を凝らし、

「誰じゃ」

 数回呼ばわると馬首を巡らし、突如かびとを脱いで頭を抱えて痛みを訴えたその首に、矢を受け落馬。そこを数人の雑兵ぞうひょうに囲まれて討たれた。

 丹波に急行するべく支度を整えながら、

「まさか、誰が虚空より呼ぶものか」

 吐き捨てるように口にした言葉にみずからはっとし、

「どこぞの外法師の仕業しわざか」

 言って果心を呼ぶと、

「そのような術に心当たりはあるか」

 と問うた。

 槍遣いとなって久秀を難渋なんじゅうさせた兄弟子をおびき出すさいに試した術である。

 しかし、そんなことはおくびにも出さず、

唐土もろこしあたりに、虚空から人を呼ぶ術が伝わっておると、物の本に記されてあったように存じます」

 果心が答えると、

「知っておるなら、果心にも遣えような」

 それで、小野篁おののたかむら嵯峨さが天皇の逸話いつわを果心は想起した。

 嵯峨天皇を難じる落書きを読み解いた小野篁を、書いた張本人だから読めたのであろうと、篁を嵯峨天皇が糾弾する。七百五十年ほど昔の話である。

「お疑いか」

 半眼を下から果心は投げた。

 首を左右に振って小骨を鳴らし、その果心に細い視線を久秀が返すと、

御所望ごしょもうとあらば、久秀殿がいくさ場に出向かれたおりに、御覧に入れましょう」

 とたんに高い声で笑って、

ごとじゃ。果心の術がどのようなものか、すでにこの身が味おうておる」

 言うと、

不肖ふしょうの弟とはいえ、この久秀の右腕だった長頼に外法を用いて亡き者にするとは、丹波の輩が雇い入れた幻術遣いの仕業しわざに違いあるまい…… いや、長逸めらか、あるいは筒井が仕組んだのやもしれぬな」

 大和で対峙する筒井の名まで挙げて繕う言葉、言いようが、果心のかんさわった。

 だが、それに気づきもせず、

「どうじゃ、きゃつらに戦場でその術を仕掛けてみぬか」

 思いついたような久秀のそれには応じず、

「久秀殿」

 言って久秀の顔をしばし果心が凝視すると、

「な、何じゃ」

 発した久秀の心の隙間に、

「一段と、凶相きょうそうになられた」

 わざと汚物をなすりつけるように果心は言った。

 これに怒りをみなぎらせる久秀を、さらにいたぶるように、

「虎の威を失い、片足をもがれた狐を、もはや誰も恐れはいたしませぬ」

 言って、

「わしを、狐と申すか」

 激高した久秀に、なすりつけた汚物を改めて確かめるような視線を投げて、

「天下を握ろうとする、そのお覚悟のほどを尋ねたまでにございます」

 もちろん、なすりつけた己の手が、汚物にまみれたままであることも、果心は承知している。

「何を今さら」

 言い捨てて鼻を一つ鳴らすと、丹波に久秀は急いだ。

 五日後、長頼をとむらって多聞山城に帰った久秀を出迎えたのは、二人の左京大夫だった。

 顔盗み。

 即刻、果心を久秀は呼ばわったが、姿を見せない。城中、探させたが、所在はわからぬ。

「果心め、何を考えておるのか」

 怪しみながらも、その夜、二人揃えて寝所を久秀は共にした。

 五十半ばを迎えても一夜に女二人とまぐわうほどの精力を、久秀は保持していた。

 特に今宵は、どちらが本物の左京大夫か見分ける楽しみも加わっている。

「さて……」

 一人目は、

揚羽あげはじゃな」

 長慶から下された側女そばめ看破かんぱし、

「さてはこっちが本物の左京大夫であったか」

 と痴戯ちぎに及んで、

「あ」

 と驚嘆の声を久秀は上げた。

「わかりになりましたか。殿」

 そう言って、怪鳥けちょうのように甲高かんだかく笑ったその声は、紛れもなく、術にかかる前のえいのものだった。 

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