三十七 長慶逝く

 翌、永禄七年(一五六四)。

 例年のごとく新年の祝いに、弟、長頼と、嫡男ちゃくなん久通ひさみちを伴って、飯盛山城いいもりやまじょうを久秀が訪れたときには、衰えた姿を長慶は隠そうとしなかった。義興を亡くし、生きる望みもすっかり失ったようであった。

 左京大夫に支えられて現れた長慶に、久秀が祝辞を述べると、

「大儀であった」

 そう告げて、左京大夫に向かって、

「楓」

 と、確かに長慶は呼んだ。

 左京大夫の顔で楓も、

「はい」

 当たり前のように応じた。

 刹那、深く平伏した久秀に、長慶は一瞥いちべつもくれない。

 さすがに冷や汗を禁じ得ないままに帰り支度を始めた久秀に、

「長慶様のお側におられましたは、左京大夫様かと存じますが……」

 何も知らぬ長頼が疑念を口にした。

「そうじゃ」

 何食わぬ顔で応じたが、

「長慶様は、楓、とお呼びになられたように聞こえましたが……」

 と、重ねた長頼には、久秀は答えなかった。

 だが、多聞山城に立ち寄り左京大夫の姿を目にすると、

「兄上」

 と声音を改めて、

「もしやと思うておりましたが……」

 長頼が言うのへ、

「何じゃ」

 一度は久秀はとぼけてみせた。

「お側におられた左京大夫様を、長慶様は、楓、とお呼びになり、ここに左京大夫様がおられる」

「それがどうした」

 語調を強めて久秀は返したが、

「例の外法師をお遣いになられたか」

 さらに厳しくなった長頼の声音に、久秀は応えなかった。

「あれは危のうござうると申し上げましたに」

 そう長頼に咎められると、あらぬほうに視線を投げて、

「果心には、何度も命を助けられての」

 再びとぼけた声を久秀は返した。

「さればと言うて、得体えたいの知れぬ外法師なれば、信じることなどできますまい」

 重ねて長頼が言えば、

「なればこそよ。誰もが怪しみさげすむゆえにわしと通ずることができるのよ」

 開き直って久秀は返した。それには、

「何をおおせになる」

 憤慨ふんがいしてみせたが、

「知略武勇にひいでた弟を持った兄の気持ちなど、わかるまい」

 吐き捨てるように久秀に言われて、長頼は絶句した。

「口さのない者は、久秀は弟に引き立てられたのじゃと、陰口かげぐちを叩いておったそうじゃ」

「兄上」

 たまらず長頼が呼びかけたのとほとんど同じく、

「果心」

 いつものように、壁に向かって久秀は呼びかけた。

 長頼がそちらを見ると、いつのまにか半眼の果心が座している。

「長慶は、左京大夫を楓と知っておったぞ」

「かつて馴染んだ体なれば、いずれは知れましょう」

「なれば、それをこのわしに、なにゆえ長慶は問い詰めなんだのであろう」

「さて、男と女のことには、うとうございますゆえ……」

 久秀の企みなどとは別の、まったく超越したところに、長慶と楓は生きているのかもしれない。

 あるいは、義興を失って、単に長慶がほうけてきただけなのかもしれない。

 それを確かめるすべも機会も久秀が持たぬままに、その年の七月、長慶はこの世を去った。

 最後は、傍らに楓だけを置いていたという。

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