三十六 義興急死

 長慶の元に左京大夫が返されてしばらくは疑念を抱いてはいたが、どうやら左京大夫に返事はなかったように義興には見えた。

 役目を、無月が果たしたためかとも義興は思ったが、久秀の首をその無月が持参することはなかった。ばかりか、以後、ぷっつりといたち道切みちきり、何の音沙汰おとさたもないのは、しくじって久秀の手にかかったのやもしれぬ、と義興は考えた。

 その義興が、急死した。

 初めて義興の夜伽よとぎをした女が、朝、悲鳴をあげて、駆けつけた宿直とのいの侍に、

「胸をかきむしるようにして……」

 と、両眼を見開いたまま苦悶くもんの表情をこちらに向けた義興から目を背けて訴えた。

 義興の身体に傷はなく、毒を盛られた痕跡こんせきもない。

 女も厳重に調べられたが、怪しむところは特になかった。

 三好一族の間では、

「久秀がはかったのではないか……」

 との憶測も流れ、長慶の従兄弟である三好長逸ながやすなどは、久秀に面と向って詰問しようとしたほどだったが、平伏しながらわざと下から視線をめるようにくれながら、

「確かなあかしもなく疑いをかけられたのでは,面目が立ち申さぬ。それなりの御覚悟があって、かく仰せになるか」

 小声で言いながら、薄い笑みを久秀は浮かべた。

 結句、

「心の臓の発作……」

 という薬師の見立てで決着がついたが、いずれにせよ、三好の家督かとくを継ぐべき嫡男ちゃくなんを、そしてまた、天下を掌中しょうちゅうに収めんとする長慶にとって右腕とも言える義興の突然の死の衝撃は大きかった。

 葬儀を営む長慶の銷沈しょうちんは隠しようもなく、重臣に支えられてかろうじてその任を長慶は全うできたほどであった。

 それを見ながら、いよいよ己に大きな転機が巡ってきた実感を得て、内心、久秀はほくそ笑んだ。

 ただ、目立たぬようにその長慶を支える左京大夫、つまりは楓の献身ぶりを目にして、暗色の染みのような何かが身中に滲んで広がるような感触を、久秀は覚えた。

 多聞山城に帰って、

「義興は、誠に心の発作で死んだのか」

 さっそく果心に久秀は問うた。

「誰ぞの刺客にありましょう」

 果心が答えると、

「六角か、筒井か」

 これは半分自問のように久秀が口にしたのへ、

「さて、いずれにせよ、手を下したのは、夜伽の女にございましょう」

 答えた果心に、

「ほほお、夜伽の女が、いかにして薬師の見立てを欺いたのじゃ」

 久秀はいかにも興味深げに問うた。

「おなごを抱いて男が精を謝する刹那に、そやつの、どこぞの秘孔ひこういて心の臓の働きを止める術にけたおなほがおる、と聞き及びます」

「秘孔?」

「人体のつぼにございます」

「それは面白い。そのつぼがどこにあるのか、教えてくれぬか」

「男に教えるおなごはおりませぬ」

「なるほど、おなごほど、底の知れぬ者はないの」

 珍しく、そんな感歎を漏らして、

「ときに果心」

 改めて果心に久秀は呼びかけた。

 半眼を果心が向けると、

「楓に……」

 そこで言葉を切って、

「左京大夫の……」

 言い換えて、

「顔盗みとは別の、何か、術をかけたのか」

 久秀は尋ねた。

「別の術とは?」

 果心が問い返すと、

「義興の葬儀に参っておったが、どうも以前の楓ではないように見えてな」

 長慶を支える楓にいだいた疑念を、久秀は口にした。

「以前とは違う?」

「ずいぶん優しゅうなった。いや、少なくとも、あれほどわしを気遣いはせなんだ」

「それならば、我が術に範疇にはございませぬ。心まで開かせることはできませぬゆえ」

 果心の言葉に、

「なれば、左京大夫になって楓は、長慶に心を開いた、ということか」

 忌々いまいましげに、久秀は吐いた。

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