三十五 顔盗み
翌日、見分を終えた長慶が出立する段になって、
「気分がすぐれぬ」
と左京大夫が訴えた。己や長慶にではなく、左京大夫の
食事中は、左京大夫の隣にえいが座して言葉を交わしており、少なくとも、長慶や義興が不審を感じることはなかった。
また、不調を口にした左京大夫の介抱を買って出たのも、えいである。
「しばらくお休みになれば、左京大夫様の御気分もよくなるかと存じます。ここは、えいにお任せください」
そう告げて、左京大夫を支えるようにえいは奥に下がった。
しかし、再び姿を現したえいが、
「お熱が出てまいったようにございます。本日は、父上も兄上も先に御出立なさいませ。左京大夫様は、明日にでもえいが確かにお送りいたします」
と、落ちついた様子で言った。
それを、決められた台詞を誰ぞに指図されたとおりに口にしただけではないか、と瞬時、義興は感じた。また、えいはすでに久秀の
だが、現在、不調を訴える左京大夫を、無理に
さらに、
「ならば、えい、頼んだぞ」
と、長慶が言えば仕方ない。
義興にできることは知れている。
密かに残す無月に、
「久秀から、左京大夫様をお護りせよ」
そう命じて立ち去るときに、
「久秀の首も、忘れるな」
義興は念を押した。
その夜、左京大夫の寝所の天井裏に、無月は潜んだ。
寝所には、気配を殺した果心とえいの他にもう一人、若い女が
壁際のえいは動かない。
「無月」
天井に向いた果心の声に、眠りに落ちた女の体が、左京大夫の横に崩れる。
「面白いものを見せてやろう」
果心の声に誘われるように、無月は寝所に降りる。
左京大夫の横に、すっかり眠りこけた女の身体を並べて果心は、燭台の灯をいつのまに手にしたのか、一本の百目蠟燭に移して、二人を照らす。
「似ておろう」
その
「
果心はつぶやいた。
「かつては長慶の
言いながら、傍らに置いた小さな樽から
「この際、長慶に返してやろうと思うてな」
言うと、今度は、どうやってそこに隠し持っていたのか、と思わせるほどの、一尺四方の板の上で、何やら念じながら、これもどこから取り出したのか、
「顔盗み」
察して思わず無月が口にする。
別に、顔移し、とも言う。
元来、伊賀、甲賀に伝わる変装術であるが、ここでは、左京大夫の顔や身体の形を楓に移し、これを左京大夫として長慶を欺こうというのである。
最初に、左京大夫の顔に、次に、首、胸、腕、腹、腰、足、さらには爪先から秘所に至るまでこの粘土状の土を塗りつけ、型が取れたところで楓の顔と身体にこれを押し付けるだけの、言ってしまえば単純な術にも聞こえるが、長く、その容姿容貌を保つためには、術者にそれなりの
「つまりは、左京大夫様を、長慶様より奪おうというのか」
「久秀殿の
何でもないように返した果心に、
「なれど」
忍びの技として己の顔に施すなら、崩れてくれば自ら補うこともできようが、さて、術にかけられて己を左京大夫と長く思い込ませることができたとしても、
「それで、いつまで長慶を欺くことができるのか……」
独り言のように言った無月に、
「左京大夫と楓は、元より、容姿、顔つきが似ておる。
と
「長慶の好みに
言って、思い違いをしていたことに気づいたように、
「それとも、我が術に
薄く
「いや……」
と首を振って、
「なれど……」
再び、疑念を口にする言葉を発しながら、しばらく逡巡したような顔を見せてから、
「どうして、人の女を奪い取る手助けまでするのか」
無月は口にした。
「わしはな、久秀殿に飼われておるわけでも、雇われておるわけでもない。だた」
そこでわずかに言葉を切って、
「面白い」
と、手を休めることなく応じる果心の答は、
「弾正からいくらもらっているのか」
という前夜の無月の問いにも答えるようであったが、
「面白い?」
そう返して、
「そんな生き方があるのか」
と、問いかけるでもない言葉を無月が続けた刹那、久秀が入ってきた。
不覚にもそれに気づくのが遅れた無月が、それでも壁際に気配を消そうとしたが、とっさにその
「無月、待っておったぞ」
濁った眼を久秀は光らせた。
その眼を見据えて久秀に、術を施し脱出を図ろうとする無月だったが、
「最後まで見てゆかぬのか」
相も変わらぬ調子で土をこねる果心の言葉で、
「無月」
その手を離すと、
「いくら出せば、義興を売るか」
久秀は問うた。
「売る?」
語尾を上げて笑い返した無月に、
「では、改めて金で買おう」
髭を撫でて尊大に久秀が口にした刹那、やるせない気持ちを、なぜか無月は覚えた。今までも、金で買われていたはずなのに……
しかし、強いて笑顔は崩さず、
「先に
言うなり懐から得意の長針を取り出して、久秀の心の臓を無月は刺した。
確かに未月は手応えを感じた。はずなのに、たちまち
とたんに、果心の幻術にたやすくかかった己を覚り、
「ああ……」
明け方、果心が術を施し終えるのを待っていたかのように、壁際に控えていたえいは、果心に股がった。
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