三十三 飛鉢

 早朝、数十名の供回ともまわりを連れて、馬上、信貴山城を久秀が出たのを確かめて、粗末なみのかさで近在の百姓を装った無月は、山を駆け下りた。

 薄く雪の積もった田では、き火の傍らにしゃがんでこれも同様の蓑と笠で百姓に姿を変えた井野三平が、炎を見つめながら無月を待っていた。

 その背後から、

「三平」

 息も切らさず駆け寄った無月が声をかけると、無言で井野三平は立ち上がった。

 そうしてしばらく、近づく久秀一行との距離を計って、

「行け」

 無月に命じられて笠を取って小走りに近寄ると、

「井野三平のございます」

 と、一行の前に膝を井野三平はついた。

 一団の先頭にあった者が、

「殿」

 振り返るまでもなく、馬を進めて井野三平を馬上より久秀は見下ろした。

「これに、義興様の」

 そこで言葉を切って、立ち上がった井野三平が差し出した小さな木箱は、義興を欺く小道具として久秀が与えたものだったが、

「首は」

 それに手を出すことなく久秀が問うた刹那、焚き火の前にいた無月が背負っていた短い弓にすばやく矢をつがえて、その矢先を瞬時焚き火に入れた火矢ひやを放った。

 井野三平の背中に突き立った火矢は、たっぷりと油を吸わされた蓑を、井野三平ごと火だるまに変えた。

 供回りはもちろん、とっさに久秀も馬を引こうとしたが、声も立てずに井野三平は久秀の足に取りつこうとした。だが、その手が久秀の足に触れる前に、炎に包まれた井野三平の体は、白い田の上に飛ばされた。

 いつのまにか、久秀の傍らに、果心が立っている。

 供回りの何人かが飛ばされた火炎に駆け寄ろうとするが、それがゆらりと立ち上がるのを見て足を止めた。

 その間隙かんげきをついて火矢を無月が放つ。

 すかさず、火だるまを果心は飛ばして、二の矢を妨げる。

飛鉢ひはつか」

 思わず無月の声が上がる。

 元は、寺にって托鉢たくはつを行うために僧がはちを飛ばす術である。信貴山寺に伝わる信貴山縁起えんぎでは、米蔵が飛ばされている。

 火だるまを、とっさにその飛鉢の術で果心は飛ばしたのである。

 それでも立ち上がる紅蓮ぐれんの井野三平を、今度は無月に向けて、再度、果心が飛ばすと、絶叫を残して無月も炎に包まれ、そのまま三平ととももに焚き火の中に崩れ落ちた。

 しかし、一つになって一段激しく上がった炎を見つめて、

「こたびもおおせたか」

 果心の言葉通り、火が消えてから確かめると、焼けただれた井野三平らしきむくろが一つ、転がっているだけだった。

 苦々にがにがしい顔で馬上からそれにしばらく目をくれて、

「義興め」

 馬首を、久秀は返した。

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