三十 無月
年が明けて永禄五年(一五六二)。
この年、いくさに久秀は明け暮れた。
昨年、地蔵山で戦った六角
それで一息ついたのか、一度、
それを機に、
果つる心の行き着くところに、松永弾正久秀なら連れていってくれるやもしれぬ。
そんなことを、果心は期待したわけではない。
果つる心を抱えし者は、それが
だから、生きて望みを持つことなどなく、久秀に期するところもない。
ただ、それでも生きてわずかに心が満たされる刹那がある。
誰ぞの心を踏みにじって感じ得る、残酷な
たとえ天下を握って治め得たとしても、久秀の心に充足が訪れることはあるまい。それをまだ久秀は知らぬだけだと、果心は
むしろそれを教えてやって、天下を破らしむ。
ここにきて、ようやく己の居所を見出したと感じ、多聞山城に身を、果心は置くことにしたのである。
しかし、東大寺大仏殿がすぐそこにあり、興福寺も
将軍、朝廷をどれほど見下しはしても、神仏を
そうしたことも計算に入れながら、そこが
その多聞山城
興福寺からは、果心に似た僧が訪れた。
異相である。
「
挑発するように、そう久秀は言った。
「さて、
「ふん、知らんのか」
久秀に屈服させられた
むしろ、朝護孫子寺のように、誰も祝いになど行きたがらなかったのやもしれぬ。それで白羽の矢を立てられたのが、果心と同じ類いの法師である。
「その方、名は」
改めて久秀に問われて、
「
いつものように半眼のまま壁際に座して気配を殺していた果心だったが、脳裏にその名が甦った。
吉野は
そこで若い僧に見誤られ、背後から果心が呼びかけられた名である。
同時に、果心に無月の気が発せられた。
「むげつ…… とは」
久秀が問うと、
「月のない
「面白い」
と、目を細めて、
「外法は遣うのか」
続けて、遠慮のない久秀が問うた。
「少々」
ではあるまい。
「その外法、今、見せよ」
「殿」
制しようとした近侍の声が合図ででもあるかのように、そこで時が止まった。
おそらくは、かまわん、とでも近侍に言おうとしたであろう口を開けたまま、久秀の動きは止まっていた。
すべての音が消える。
果心は息を止める。
ゆっくりと、無月だけが動いた。
立ち上がって懐から細く長い針を二本、無月が取り出したところで、素早く床に円を描いてそこから折り鶴を取り出すと、それをふわりと果心は投げた。
瞬時、それに気を取られたのか、すぐに針を一本、果心に向けて無月が投げた。
果心の眉間にそれが刺さる。
ゆっくり鶴は飛んでいる。
ゆるりと鶴は飛んでいる。
刺した針に手応えがない、と無月は
ゆるりと鶴は飛んでいる。
無月の
同時に振り向いた久秀の顔の前を、ゆっくり鶴が飛んでいる。
「ちっ」
舌打ちしをしてそいつを無月が叩き落とすと、久秀が振り向いて、
「その程度か」
だが、久秀の声ではない。
「あ」
と無月が飛び
鶴ではない。
それへ陥る寸前、直立不動で十字を切ると、宙に無月の身体は浮いた。その無月の首筋を、蟻地獄の中から砂を割って現れた
「
迦楼羅の声は、さっきの久秀と同じであった。
「ああ、やっぱり果心さんには
「わしを知っておるのか」
果心の声に、
「ええ。我らの間では、よく知られております」
無月は愉しそうでさえあった。
「我ら?」
「誰ぞを
同じ道楽を楽しむ仲間と話すように答えてなお、
「段蔵さんとは、四条でやりおうたと聞いていますよ」
親しげに笑って、
「改めて言うなら、我らは無間さんの腹違いの兄弟でありましょう」
瞳だけは
「なれど、これまででございましょう」
と、無月は続けて、
「しくじって捕らえられれば、
さらに明るい笑顔を無月は見せた。
「刺客」
と、果心の言葉とともに、蟻地獄も迦楼羅も消え失せた。
とたんに、
「かまわん、無月……」
と言った先に、確かにいたはずの無月の姿がないことに、久秀は驚きを隠せなかった。
「久秀殿」
背後から果心の声が聞こえて振り向くと、無月が
「これは……」
「すでに、お目にかけておりました」
「なに」
狐につままれたような顔つきの久秀に、
「こやつ、刺客にございますれば」
無月の後ろで静かに言って果心も平伏した。
すぐさま無月の
「ただちに興福寺に兵を差し向けましょう」
駆け寄った家臣の一人が声を上げたが、そやつに細い視線を投げて、
「興福寺を名乗ってわしの命を
吐き捨てるように言って、無月の
なるほど、無間さんの血を引く者には、こういう生き方があったのかと、ろくに洗いもせずに使い古した
人の心を踏みにじって果つる心が
あるいは、誰かに喜んでもらえれば
冥土の道で迷っていれば、やはり無間地獄に落ちたのと変わりはあるまい。だとすると、死んで果つる心より解かれたと思う無月の
己の名を、きっとみずから無間さんもつけたに違いない。
そんなことを思いはしたが、無月の亡骸を、もう果心は見なかった。
それが、己の不覚であったことに、果心は気づかなかった。
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