三十 無月

 年が明けて永禄五年(一五六二)。

 この年、いくさに久秀は明け暮れた。

 昨年、地蔵山で戦った六角義賢よしかたとは京で再び長慶ながよしは対陣し、それに従う義興よしおきの副将として久秀は参戦。三月には久米田くめだ雑賀さいが根来ねごろを率いた河内かわち畠山高政はたけやまたかまさと一戦を交え、五月にも河内の教興寺きょうこうじで畠山高政と戦った。さらに九月には室町幕府むろまちばくふ幕臣ばくしんとして勢力のあった伊勢貞孝いせさだたかを久秀は討った。

 それで一息ついたのか、一度、信貴山城しぎさんじょうに帰ったが、ようやく完成した多聞山城たもんやまじょう居城きょじょうと久秀は決めた。

 それを機に、朝護孫子寺ちょうごそんしじを果心は出た。

 果つる心の行き着くところに、松永弾正久秀なら連れていってくれるやもしれぬ。

 そんなことを、果心は期待したわけではない。

 果つる心を抱えし者は、それがえることも晴れることも死ぬまであるまいと、とっくに果心は思い定めている。否、死後でさえ、極楽はもちろん、地獄にさえも辿り着くことなく、ただ、冥土めいどの道を当てもなく果てし心は彷徨さまようばかりに相違ない。

 だから、生きて望みを持つことなどなく、久秀に期するところもない。

 ただ、それでも生きてわずかに心が満たされる刹那がある。

 誰ぞの心を踏みにじって感じ得る、残酷な愉悦ゆえつ……

 たとえ天下を握って治め得たとしても、久秀の心に充足が訪れることはあるまい。それをまだ久秀は知らぬだけだと、果心は看破かんぱしていた。

 むしろそれを教えてやって、天下を破らしむ。

 ここにきて、ようやく己の居所を見出したと感じ、多聞山城に身を、果心は置くことにしたのである。

 多聞天たもんてんほうじて久秀が築いた多聞山城は、元は眉間寺みけんじという寺があったことから、かつては眉間寺山みけんじやまと呼ばれ、そこには墓石も数多く並んでいた。

 しかし、東大寺大仏殿がすぐそこにあり、興福寺も眺望ちょうぼうできる。この多聞山城も、信貴山城と同じく、大きな寺院のすぐ近くに城を築く久秀の想による。

 将軍、朝廷をどれほど見下しはしても、神仏を信奉しんぽうする武将は多い。逆に、寺院を焼いて仏敵ぶってきの汚名をかんせられたい武将は少ない。ゆえに、敵の襲撃を受けたとしても、朝護孫子寺や東大寺が、敵襲の障壁しょうへきとなる。

 そうしたことも計算に入れながら、そこが聖武しょうむ天皇の御陵ごりょうの一部であっても墓地であっても、戦略上合理的であるか否かという点にのみ久秀はこだわって城を築いた。それは、多聞天を奉じることと、久秀の中では矛盾しない。

 その多聞山城竣功しゅんこうの祝いには、東大寺はもちろんのこと、興福寺の僧も久秀は招いた。

 興福寺からは、果心に似た僧が訪れた。

 異相である。

宝蔵院ほうぞういんなる槍を創始した胤栄いんえいとか申す坊主が、興福寺にはおると耳にしておるが、そやつは来ぬのか」

 挑発するように、そう久秀は言った。

「さて、愚僧ぐそうは存じませぬ」

「ふん、知らんのか」

 久秀に屈服させられたうらみが、興福寺にはある。この機に乗じてそれを晴らそうと、唯一、久秀の手を焼かせた胤栄を興福寺が送り込むやもしれぬと、久秀は考えていた。それで、果心を久秀は同席させたのであるが、杞憂きゆうであったようだ。

 むしろ、朝護孫子寺のように、誰も祝いになど行きたがらなかったのやもしれぬ。それで白羽の矢を立てられたのが、果心と同じ類いの法師である。

「その方、名は」

 改めて久秀に問われて、

無月むげつにございます」

 いつものように半眼のまま壁際に座して気配を殺していた果心だったが、脳裏にその名が甦った。

 吉野は金峰山寺きんぷせんじ蔵王堂ざおうどう

 そこで若い僧に見誤られ、背後から果心が呼びかけられた名である。

 同時に、果心に無月の気が発せられた。

「むげつ…… とは」

 久秀が問うと、

「月のない闇夜あんやに住まいいたす」

「面白い」

 と、目を細めて、

「外法は遣うのか」

 続けて、遠慮のない久秀が問うた。

「少々」

 ではあるまい。

「その外法、今、見せよ」

「殿」

 制しようとした近侍の声が合図ででもあるかのように、そこで時が止まった。

 おそらくは、かまわん、とでも近侍に言おうとしたであろう口を開けたまま、久秀の動きは止まっていた。

 すべての音が消える。

 果心は息を止める。

 ゆっくりと、無月だけが動いた。

 立ち上がって懐から細く長い針を二本、無月が取り出したところで、素早く床に円を描いてそこから折り鶴を取り出すと、それをふわりと果心は投げた。

 瞬時、それに気を取られたのか、すぐに針を一本、果心に向けて無月が投げた。

 果心の眉間にそれが刺さる。

 ゆっくり鶴は飛んでいる。

 間髪かんはつ置かず、目の前で口を開けている久秀の背後に周り、そのぼんくぼに針を無月が突き入れる。

 ゆるりと鶴は飛んでいる。

 刺した針に手応えがない、と無月はいぶかる。

 ゆるりと鶴は飛んでいる。

 無月の双眼そうがんに緊張が走る。

 同時に振り向いた久秀の顔の前を、ゆっくり鶴が飛んでいる。

「ちっ」

 舌打ちしをしてそいつを無月が叩き落とすと、久秀が振り向いて、

「その程度か」

 だが、久秀の声ではない。

「あ」

 と無月が飛び退しさった目の前を、叩き落としたはずの鶴がゆるりと飛んでいる。

 鶴ではない。

 ってもってもまとわり飛ぶはえのように、無月が感じたとたん、足下あしもとの床板がさらさらと円錐形えんすいけいに崩れて蟻地獄ありじごくが口を開いた。

 それへ陥る寸前、直立不動で十字を切ると、宙に無月の身体は浮いた。その無月の首筋を、蟻地獄の中から砂を割って現れた迦楼羅かるらの右手がつかんだ。

無間むげんさんの血を引く者か」

 迦楼羅の声は、さっきの久秀と同じであった。

「ああ、やっぱり果心さんにはかないませなんだな」

 存外ぞんがい明るい声を無月は返した。

「わしを知っておるのか」

 果心の声に、

「ええ。我らの間では、よく知られております」

 無月は愉しそうでさえあった。

「我ら?」

「誰ぞをあやめることを生業なりわいとする者どもですよ」

 同じ道楽を楽しむ仲間と話すように答えてなお、

「段蔵さんとは、四条でやりおうたと聞いていますよ」

 親しげに笑って、

「改めて言うなら、我らは無間さんの腹違いの兄弟でありましょう」

 瞳だけはさびしげに、

「なれど、これまででございましょう」

 と、無月は続けて、

「しくじって捕らえられれば、刺客しかくに生きるすべはありませぬゆえ」

 さらに明るい笑顔を無月は見せた。

「刺客」

 と、果心の言葉とともに、蟻地獄も迦楼羅も消え失せた。

 とたんに、

「かまわん、無月……」

 と言った先に、確かにいたはずの無月の姿がないことに、久秀は驚きを隠せなかった。

「久秀殿」

 背後から果心の声が聞こえて振り向くと、無月が平伏ひれふしている。

「これは……」

「すでに、お目にかけておりました」

「なに」

 狐につままれたような顔つきの久秀に、

「こやつ、刺客にございますれば」

 無月の後ろで静かに言って果心も平伏した。

 すぐさま無月の襟首えりくびをつかんで久秀は引き上げたが、すでに己の針をしんぞうに深々と無月は刺し入れていた。

「ただちに興福寺に兵を差し向けましょう」

 駆け寄った家臣の一人が声を上げたが、そやつに細い視線を投げて、

「興福寺を名乗ってわしの命をねろうた者が、興福寺の坊主であるはずはなかろう」

 吐き捨てるように言って、無月の亡骸なきがらを久秀は見下ろした。

 なるほど、無間さんの血を引く者には、こういう生き方があったのかと、ろくに洗いもせずに使い古した雑巾ぞうきんのような無月のむくろを見ながら、果心は感心もした。

 人の心を踏みにじって果つる心がつる。しかし、それがまた果つる心を深くする。

 あるいは、誰かに喜んでもらえればうれしくはあるが、その人物が永劫えいごう、己のために喜んではくれぬ。さすれば今度はそのじんの不幸を願ってしまう。それがまた、己の心を苦しめる。ぐるぐる回って間断かんだんのない地獄、無間地獄の中で生きているようなものだ。と言って、死んでそれから解き放たれるかはどうかはわからない。

 冥土の道で迷っていれば、やはり無間地獄に落ちたのと変わりはあるまい。だとすると、死んで果つる心より解かれたと思う無月の安堵あんども、ほんのひとときのこと。

 己の名を、きっとみずから無間さんもつけたに違いない。

 そんなことを思いはしたが、無月の亡骸を、もう果心は見なかった。

 それが、己の不覚であったことに、果心は気づかなかった。

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