二十九 刺客

 その時代、朝廷や将軍から下される官位や栄誉が威光いこうを発揮することはない。力の強い者に庇護ひごさせるために、朝廷も将軍も官位権威の安売りを行っていたようなものであった。

 逆の言い方をすれば、その強者を倒して朝廷に迫れば、官位を得ることは難しくない。天子、将軍さえも意のままに操れる。もっと言えば、幕府を倒して己が天下の頂点に立つこともできる。だから、官位を得たからと言ってそれで天下を治めることができるわけではない。むしろ、それが戦国の世を混迷こんめいおとしいれていた。

 ましてや、その官位権威によって主従関係にひずみが生じたとなれば、忠節といった徳目とくもくないがしろにされる。むろん、取って代わろうとする家来を主が放置しておくはずはない。

 その年の七月から十一月にかけて、京都は将軍地蔵山しょうぐんじぞうやまに陣を構えた近江おうみ六角義賢ろっかくよしかたを、長慶ながよしの命によって義興よしおき挟撃きょうげきする形で七千の軍勢を率いた久秀は攻めていた。だが、戦況利非りあらず、軍を退しりぞく際に、久秀を襲った者があった。

 樹上より久秀の走らせる馬に飛び乗り、背後から羽交はがめにその首をき切ろうとした曲者くせものに、とっさに馬を竿立さおだちにいななかせてみずか手綱たずなを放してそやつを背中に置いたまま、地に久秀は落ちた。

 まさかに捨て身で落馬するとは思わなかった曲者は背中を強く打ちつけたが、それが久秀には緩衝かんしょうとなって、そのまま後ろ手にそやつのわきの下から小太刀こだちを手も見せずに久秀は突き入れた。

 たっぷりとやいばを入れて素早く我が身を起こして久秀は、声も立てずに悶絶もんぜつする、菅笠すげがさかぶった百姓態ひゃくしょうていの男の胸ぐらを掴んでみたが、それでもそいつは手にした刀を一つ久秀にくれて、むなしくくうを突いたそれがこうそうせぬと知るや、返す刀で自らの咽喉を突いた。

「殿」

 駆け寄った何人かの近侍きんじに、

「わしも命を狙われるほどに出世したということじゃ」

 と久秀が笑ってみせると、

「こやつ、何者にありましょう」

 死んだ曲者の面体めんていを改めようとする者には、

「捨て置け」

 何事もなかったかのように、馬に乗って一鞭ひとむち打つて先を久秀は急いだ。

 そのときは、それが六角の刺客しかくかとも思うたが、その年も押し詰まったある日、信貴山城で身体がしびれ始めたときには、一服いっぷくられたやもしれぬと察して、

「果心を呼べ」

 命じたときには、久秀の呂律ろれつも怪しくなっていた。

「殿」

 声をかけた近侍の前で、ずるずると姿勢を崩しながら、座していた久秀は倒れ込んだ。

「すぐに薬師くすしを」

 駆け出そうとする近侍に強い口調で、

「果心…… じゃ」

「なれど、外法師ごときに……」

 口にしかけた近侍は、久秀ににらみつけられて、

「ただいま」

 と、急いだ。

 薬師を久秀は信用しなかった。

 ましてやこうして薬を盛られたと察知したなら、日頃、己の脈を取る薬師をまず疑うべきである。

 使いの者から久秀の容態ようだいを聞いて、道々草やら土やらをめては首から下げた頭陀袋ずだぶくろに入れて果心が現れたときには、久秀の意識は朦朧もうろうとしていた。

 急を聞いてく薬師も駆けつけていたが、その手をまったく久秀は触れさせなかった。脈も取れず苦い表情で果心の動きを薬師は見ているしかなかった。

 呼吸も荒い久秀の顔を、いつものようにするりとやってきた果心は見つめて、次に久秀の全身に視線を巡らせた。久秀の腕にも足にも肩や背中にも、膏薬こうやくられている。切り傷打撲だぼく薬草やくそうった膏薬を、薬師が貼っていたのである。

「湯を沸かして、新しいさらしを用意せよ」

 近侍に命じて、久秀の右、二の腕に貼られていた膏薬をぎ取ってその臭いを果心はいだ。

 薬師の表情がけわしくなって、果心の手にした膏薬を取り上げようとしたとき、その薬師の右手に果心が触れたとたん、言葉を薬師は失った。

 薬師の手首から先が消えている。

「あ」

 と、驚いた薬師のその手は、少し離れたところでいつのまにかこれを見ていたえいの足下でうごめいている。

「ひっ」

 えいの上げた声に気づいて己の右手を這いつくばって取り上げた薬師が、それをおのが手首につけてみると何事もなく右手は動く。

 それには頓着とんちゃくすることなく、久秀の身体の上から両手を開いて果心がでるようにゆっくり回すと、するする膏薬は剥がれていった。

 そこへ湯が持ち込まれ、果真の前に晒が差し出された。

 その湯に何本も晒を入れたかと見る間にうなぎのように泳いだ中の一本を手にして、久秀の身体の膏薬の貼ってあったところを、きれいに果心がぬぐっていく。

 すっかり拭い終えると、今度は頭陀袋に右手を入れて何やらって、その中から土と草をね合わせた粘土状ねんどじょうのものを、今度は丁寧ていねいに久秀の全身に果心はりつけていく。

「薬師」

 果心に呼ばれて我に返り、久秀の身体からすべての膏薬が剥がされているのを見た薬師が、

ただちに貼り直せ」

 と、少し強張こわばった声で命じたが、果心に、

「さて薬師、これが薬か毒か、三日ほど、御身おんみで試されるか」

 言われて薬師はじりっと下がり、

「これにて……」

 言って立ち去ろうとするところを、近侍が、

「待たれよ」

 行く手を薬師がさえぎられたところで、

「そやつの首を即刻ねよ」

 突然えいが命じると、

「あ……」

 と驚いた表情でえいを見た薬師が、何か口に出そうとするのを妨げるように、

「早うせい。このような者を生かしておいては、殿の御機嫌をそこねるだけじゃ。殿がお目覚めになる前に、連れていけ」

「は」

 と、えいの傍ら近くに控えていた二人の武士が、困惑こんわくを隠せない近侍を押しのけて薬師の腕を左右両側から掴んだ。

「ま、待て。待ってくれ」

 懇願こんがんするその口をふさいで二人の武士は薬師を引きずっていった。

 翌日、夕刻になってっすっかり久秀の毒は抜けた。

 薬師の処断を近侍に聞いて久秀は、鼻で一つ笑っただけで人払ひとばらいを命じた。

「なれど」

 久秀の身を近侍は案じたが、

「果心がおる」

 辺りを近侍が見回すと、いつものように半眼で壁際に果心は座していた。 

 久秀に一礼して近侍が去ると、

「幻術外法に、解毒げどくの法もあるのか」

 問うた久秀に、

「朝護孫子寺には、護法童子ごほうどうじがおりまするゆえ」

 果心が答えると、

「なるほど、仏道はわしのような者も救うてくれるということか」

 自嘲して、

「果心」

 声を改めると、

「わしは天下を獲るぞ」

 久秀は言った。

「天下を獲って何となさいます」

「誰もがわしを恐れて頭を下げる」

「それで、久秀殿の心は晴れましょうや」

 久秀は答えなかった。

「天下は獲るものに非ず」

「何を考えておる」

 苛立いらだちの少しにじんだ声を果心に久秀は投げた。

「壊すほうが、面白うございます」

 久秀の頭の芯を、薄く笑った果心の声が刺し貫いた。

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