二十六 久秀の恐れるもの
すっかり久秀は眠りこけていたのかもしれない。
「殿」
それを、遠くで聞いたように感じた。
「殿」
再び呼びかけられて、やっと久秀の意識が
だが、それでもまだ目を開けることが久秀にはできなかった。
「殿」
三度目に呼びかけられて、これほど眠り込んでしまった己の
「何事か』
脳裏をよぎった、
「お目覚めにございますか」
声まで微笑んでいたあのころの……
とっさに妻の名を、久秀は思い出せなかった。
長慶の母が
従順に久秀に仕えてくれていた妻だった。
確か、三好家に連なる
考えてみれば、あの妻と暮らしていたころが、久秀のもっとも幸せなときだったかもしれない。
ただ、久秀は若かった。その心の内にへばりついて離れない、己にもどうしようもない非の、否、不の、負の塊を、ことあるごとに久秀はぶつけていた。
それでも妻は、微笑んでいた。
病を得て、息を引き取るときにも、その微笑を絶やさなかったらしい。妻の
「殿」
優しい笑みを、その妻は浮かべていた。
「なんじゃ」
あのころと同じく、
妻は微笑んだまま、
「苦しゅうございます」
その瞳からは、哀しみだけが
「わ。わしが、何をしたと言うのじゃ」
薄っぺらな
「お恨み申します」
流れ落ちる口元から、それがこぼれた。
「ああ……」
思わず声を上げて横たわったまま後ずさる久秀に、なおも、
「お恨み申し上げます」
すでに崩れ落ちた
「ゆ、許せ。許せ。許してくれ」
三度、重ねたところで、
「わあ、わあ、わああ……」
とたんに明かりが灯った。
先ほどと変わらずそこに座して半眼のまま三尺先の黒い床板を、ただ果心は見つめていた。
ようやく、息を乱している己に、汗をかいている己に、久秀は気がついた。
「か、果心」
久秀に、半眼を果心は移した。
「
果心は問うた。
「あ……」
と声をもらして、
「いや」
やっと久秀は己を制したようだった。
そのとき、
「父上」
階下から
「なんでもない」
それでも上がってきた久通に、
「少し呑み過ぎた。まどろんで悪い夢を見てしまったようじゃ」
半眼で久通を見ながら、
「なればよろしゅうございますが……」
一礼して階段を久通は降りていった。
次に、果心のいたはずのそれへ視線を久秀はもどしたが、すでに姿を果心は消していた。
朝護孫子寺に帰る道すがら、さて、己の恐れるものは何かと自問して、高野山で野盗を退散せしめたおりに
あれから一度も思い出すことのなかった、顔を隠した女の両手を……
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