二十四 十文字槍
翌日、日が落ちてから興福寺の陣に向けて
甘やかな香りが
「松永勢が来るぞ!」
「兄弟子」
と、声が聞こえた。思わずそちらへ目を向けたが、その辺りに人影はない。空耳か、と思った矢先に、
「兄弟子」
と再び呼ばれた。
「
低い声を放って周囲に眼を配った素振りを、
「
「この生暖かい風に紛れて漂う妖しげな匂いが、我らの心を狂わせておるやも知れぬ」
そう言って風上に眼を向けた胤栄は、
「すぐにもどる」
言い捨てると、陣の背後から風上に向かってただ一人、剣先を十文字にしつらえた得意の長槍を小脇に抱えて
それを
「法春…… か」
呼びかけると、
「やはり、兄弟子でございましたか」
果心の声に、
「どういうことか」
「久秀殿が手を焼いておりまする」
その名を聞いて、
「興福寺を裏切るのか」
槍を胤栄は構えた。
しかし、胤栄の問いかけには答えず、突きつけられたその槍先に笑みさえ浮かべて、
「なるほど、
素直な感慨を果心は返した。
柳生で新陰流を学び、剣豪
ただ突くだけの槍ではない。十文字を
だが、槍先に冷たい光を映して胤栄は、
「法春、答えよ。いつから久秀の手先に成り下がった」
寸分の隙も見せず槍を構えた。
「法春ではありませぬ」
「なに?」
「名を、果心に改め申した」
「かしん?」
「果つる心にございます」
言いながら、ふらりと立ち上がった果心の両手には、いつのまにか鹿の角が握られていた。
「面白い。再び我が槍を奪うか」
思わず笑って胤栄は、
「だが、あのときとは違うぞ」
続けて言いざま、風を巻き起こして槍を繰り出した。が、鹿の角を両手にだらりと下げた果心の
その手許に、いつのまにやらするりと入り込んで鹿の角を胤栄の咽喉元に果心は突きつけた。
が、すかさずその腕を胤栄が払いのけると、半眼の果心は姿を消した。
「まだ
やっぱり笑ってゆるりと槍を
「兄弟子」
「さすがにございます」
今度はすぐに声には応じようとはせず胤栄は、かすかにそよぐ風を感じて槍を突き出す。ずぶりと突き刺さった手応えを、胤栄は感じた。
「槍を奪うどころか……」
突き立った槍の先に果心の声がある。
眼を開くと、先ほどの松の木の幹に刺さった槍の、十文字の左側の
「あやうく我が首が奪われるところでありました」
そう言って、
あまりにたやすく屈した果心に違和感を胤栄が感じた刹那、陣の方からただならぬ喚声がが沸き上がった。
「図ったか」
言うなり、果心の首を押し切らんとしたが、またも半眼の果心は消えた。
すぐに抜きにかかったけれど、岩に突き刺さった伝説の剣のように、胤栄の槍はびくとも動かなかい。
「おのれ法春」
怒りと焦りのこもった声を胤栄が上げると、
「果心にございます」
果心の声が聞こえると、松の幹はいともあっさりと槍を放した。
危うく腰を落としそうになりながらも、もう果心には目をくれることなく、喚声を目指して山道を胤栄は駆け下っていった。
その胤栄の背中をしばらくは胸のすく思いで果心は見送った。
しかし、それが見えなくなってしばらくすると、
策に落ちた胤栄に、ひと時、果心の心に痛快な気分が満ち渡る。けれども、その気持ちよさが過ぎ去ってしまうと、どうしようもない空虚な
そんなことを
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