二十四 十文字槍

 翌日、日が落ちてから興福寺の陣に向けて劣情れつじょうを誘う香をいてしばらく、篝火からりびともされる頃合ころあいに、女たちを久秀は送り込んだ。

 甘やかな香りがほのかに漂い、発情した僧兵どもの声が、嬌声きょうせいおおいかぶさるようにそここに上がる中、槍をたずさえた僧兵が数人、ばらばらと飛び出してきた。

「松永勢が来るぞ!」

 特段とくだん屈強くっきょうな、金剛力士こんごうりきしのごとき僧が呼ばわると、その頬にさっと吹き付けた風の運ぶ甘やかな香りが、その鼻孔をくすぐった。刹那、顔をそむけると、

「兄弟子」

 と、声が聞こえた。思わずそちらへ目を向けたが、その辺りに人影はない。空耳か、と思った矢先に、

「兄弟子」

 と再び呼ばれた。

何奴なにやつ

 低い声を放って周囲に眼を配った素振りを、

胤栄いんえい様、いかがされました」

 かたわららにいて不審に思った若い僧兵が尋ねると、

「この生暖かい風に紛れて漂う妖しげな匂いが、我らの心を狂わせておるやも知れぬ」

 そう言って風上に眼を向けた胤栄は、

「すぐにもどる」

 言い捨てると、陣の背後から風上に向かってただ一人、剣先を十文字にしつらえた得意の長槍を小脇に抱えて春日山かすがやまに通じる急な斜面を登り始めた。登るほどに甘やかな香りは強くなり、まもなく、薄闇に溶け込むように、松の木の根方に座していた人影を胤栄はとらえた。

 それをかすように見つめて、はっとした胤栄が、

「法春…… か」

 呼びかけると、

「やはり、兄弟子でございましたか」

 果心の声に、懐旧かいきゅうの念はない。

「どういうことか」

 いぶかしむ胤栄に、

「久秀殿が手を焼いておりまする」

 その名を聞いて、

「興福寺を裏切るのか」

 槍を胤栄は構えた。

 しかし、胤栄の問いかけには答えず、突きつけられたその槍先に笑みさえ浮かべて、

「なるほど、世上せじょうに伝わるように、己の槍をついに極められましたか」

 素直な感慨を果心は返した。

 柳生で新陰流を学び、剣豪上泉伊勢之守かみいずみいせのかみにも手ほどきを受けてのちに、胤栄自らが考案した十文字槍じゅうもんじやりである。

 ただ突くだけの槍ではない。十文字をからませれば、相手の得物を奪いこともできる。鹿の角によって法春に己の槍を奪われたことが、その着想の元となった槍で、これが、宝蔵院流槍術宗家ほうぞういんりゅうそうじゅつそうけとして、胤栄の名を世に知らしめていた。

 だが、槍先に冷たい光を映して胤栄は、

「法春、答えよ。いつから久秀の手先に成り下がった」

 寸分の隙も見せず槍を構えた。

「法春ではありませぬ」

「なに?」

「名を、果心に改め申した」

「かしん?」

「果つる心にございます」

 言いながら、ふらりと立ち上がった果心の両手には、いつのまにか鹿の角が握られていた。

「面白い。再び我が槍を奪うか」

 思わず笑って胤栄は、

「だが、あのときとは違うぞ」

 続けて言いざま、風を巻き起こして槍を繰り出した。が、鹿の角を両手にだらりと下げた果心の咽喉のどを突くかに見えて、松の木に深くそれは刺さった。

 その手許に、いつのまにやらするりと入り込んで鹿の角を胤栄の咽喉元に果心は突きつけた。

 が、すかさずその腕を胤栄が払いのけると、半眼の果心は姿を消した。

「まだ目眩めくらましにまどわされるようでは、まだまだ修行が足りぬわ」

 やっぱり笑ってゆるりと槍をつかみ直して胤栄は、槍を抜いて瞳を閉じた。

「兄弟子」

 間髪かんはつ置かず、果心の声に槍をいだが、胤栄に手応てごたえはない。

「さすがにございます」

 今度はすぐに声には応じようとはせず胤栄は、かすかにそよぐ風を感じて槍を突き出す。ずぶりと突き刺さった手応えを、胤栄は感じた。

「槍を奪うどころか……」

 突き立った槍の先に果心の声がある。

 眼を開くと、先ほどの松の木の幹に刺さった槍の、十文字の左側のやいばに、半眼のまま果心の首が押さえられている。

「あやうく我が首が奪われるところでありました」

 そう言って、微笑ほほえんだ果心の手に、もはや鹿の角はない。

 あまりにたやすく屈した果心に違和感を胤栄が感じた刹那、陣の方からただならぬ喚声がが沸き上がった。

「図ったか」

 言うなり、果心の首を押し切らんとしたが、またも半眼の果心は消えた。

 すぐに抜きにかかったけれど、岩に突き刺さった伝説の剣のように、胤栄の槍はびくとも動かなかい。

「おのれ法春」

 怒りと焦りのこもった声を胤栄が上げると、

「果心にございます」

 果心の声が聞こえると、松の幹はいともあっさりと槍を放した。

 危うく腰を落としそうになりながらも、もう果心には目をくれることなく、喚声を目指して山道を胤栄は駆け下っていった。

 その胤栄の背中をしばらくは胸のすく思いで果心は見送った。

 しかし、それが見えなくなってしばらくすると、ぬぐい去れない闇がさらに深くなったような感覚を、果心は覚えた。それは、強い光を浴びれば浴びるほど、闇が深く感じられる感覚に似ていた。

 策に落ちた胤栄に、ひと時、果心の心に痛快な気分が満ち渡る。けれども、その気持ちよさが過ぎ去ってしまうと、どうしようもない空虚な漆黒しっこくの闇に、まさしく果てもなく果心の心は落ちていく。

 そんなことをいたずに繰り返すばかりが、真に己という者ではないのか、と果心は思った。

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