二十一 信貴山朝護孫子寺

 永禄二年(一五五九)。

 千年ほど前に、守護本尊しゅごほんぞんとして毘沙門天を聖徳太子が御祀りしたと伝わる。

信貴山しぎさん朝護孫子寺ちょうごそんしじに、果心はいた。

 三十五歳になっていた。

 信貴山寺、と別に呼ばれる朝護孫子寺は、高野山と同じく密教をほうじ、また、吉野よしの金峰山寺きんぷせんじと並ぶ、役行者えんのぎょうじゃ霊場れいじょうの一つとされ、修験者しゅげんじゃも出入りしていた。境内には護摩ごまく煙が立ち上がり、法螺貝ほらがいの音が響いていた。

 図らずも吉野で母をよみがえらせてしまった果心は、唐招提寺の門前できびすを返してから、紀州根来ねごろ、熊野、伊勢、伊賀、甲賀と経巡へめぐり、神道修験道、さらには忍びの術を、自家薬籠中じかやくろうちゅうのものとした。

 厳しい修行を課し、外法はもちろん、他の呪法を認めない、つまりは己等おのれらの法術を唯一とする気風は、いずれにも見られた。

 しかし、この朝護孫子寺にそれはない。興福寺や高野山に強いられたような戒めや排斥を、果心が受けることはなかった。

 それは、この信貴山寺に伝わる呪法が、むしろ外法に近いものだったからかもしれなかった。

 たとえば、托鉢たくはつのために命蓮みょうれん法師が修したと言われる飛鉢は、米蔵さえも飛ばす。あるいは、醍醐だいご天皇の病気平癒へいゆに霊力をあらわした護法童子ごほうどうじを遣う術は、式神を遣う陰陽道を思わせる。

 その信貴山寺の法主に呼ばれたのは、八月の朝だった。

 勤めを終え、朝餉あさげを済ませてすぐ、納所なっしょを統べる僧から、それを告げられた。

 幻術外法にいかに寛容とは言え、果心ごとき外法師に法主自ら対座することはない。

 いぶかしく思いながら、法主を果心が訪れると、

「よう来てくれた」

 若々しい声と満面の笑みをもって、五尺に満たない老人は果心を迎えた。

「ここに来て、もう三年ほどになるのかのぉ」

「はい」

「聞けば、さまざまな法術に長じておるそうじゃな」

 それには果心は答えなかった。

 だが、そんなことに気を留める様子も見せず、

「実はな、それを見込んで折り入って頼みがあるのじゃ」

 今度はいつもの柔らかい声音とは違う鋭い口調で言いながら、白く太い眉の下から射るような視線を果心の半眼に法主は向けた。

「なんなりと」

 わずかに果心は頭を下げた。

「ありがたいことじゃ」

 大げさに頷いて果心に法主は手を合わせ、

「この信貴山頂に、長く主人のおらなんだ陣屋じんやがあったが、そこに今度新しく、松永久秀まつながひさひで殿が来られたのは、存じおるな」

 天文十八年(一五四九)に第十三代将軍足利義輝あしかがよしてるを近江に追放し、天文二二年(一五五三)に畿内を平定した三好長慶みよしながよしの、松永久秀は腹心であった。

「それで、当寺より挨拶に参らねばならんのじゃが、誰も行きたがらんのじゃ」

 なぜ誰も行きたがらないのか、聞くまでのない。

「頼みというのは、一つ、松永久秀殿に挨拶に行ってもらいたいということじゃ」

「よろしゅうございます」

 果心は即座に承知した。

「よいのか」

 少し拍子抜けしたように法主は確かめた。

「はい」

「松永久秀殿は、苛烈かれつ御仁ごじんらしい。下手をするとそなたの命が奪われるばかりか、この朝護孫子寺の命運を分ける仕儀になるやもしれぬ」

 この信貴山に松永久秀が来るという話を耳にしたとき、陰陽道による星の動きを果心は見た。

 松永久秀は凶星の持ち主である。

 それに、果心は魅かれた。

 同時に、この松永久秀と己が出会うべき宿命にあることを知った。

 誰も、松永久秀の下に赴かないのは、まさに果心を導く天命であろう。

「御懸念には及びませぬ」

 きっぱり答えた果心に少し安堵したのか、法主は笑顔を見せて、

「では、近づきの品を誰ぞに持たせるゆえ、今日にでも行ってくれるか」

 それからしばらく法主は果心に茶菓さかを勧め、上機嫌で世間話などしていたが、不意に、

「ところで、松永殿の機嫌を損ねぬ妙案はあるのか」

 問うた。

「ございません」

 法主の顔に陰が差してすぐ、

「御仏の御加護ごかごがありましょう」

 言った果心の言葉に、

「ほっほっ……」

 思わず法主が失笑を漏らしたのは、外法幻術をもっぱらとする果心の口から、御仏の加護、などという言葉が出てきたからであった。

 しかし、それに気づいて一度は笑い事ではないと思い直した法主の笑みは、失われなかった。それは、このような大事を外法師に任せるほかないという諦念ていねんを伴った、苦笑であった。

 そこで、

「妙案を思いつきました」

 と申し上げたとして、

「何じゃ」

 と問われたなら、

「手土産の他に、松永殿には珍しきものをお見せして御機嫌を伺うつもりにございます」

 と答え、

「それはいかなるものじゃ」

 そんなふうに法主が所望したならば、唐招提寺の門前で若い僧を驚かせたように、自在に長く伸ばした顔を見せてやろう、と思いはしたが、果心は自制した。

 法主が、果心を侮って笑ったのではないことを、果心は承知しているのだったから。


 

 

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