二十 唐招提寺

 翌日。

 西の空の赤みがいっそう深まった時分になって、唐招提寺の門前に果心は立った。

 山門は、まだ開いていた。

 外法師である己の始まりがここより他にないことを、母によって心に深く果心は刻まれていた。もよと興福寺を捨てたときに、最初にここに来ておくべきだったかもしれない。そうすれば、果てし己の心をいかにすればよいか、わかったかもしれぬ……

 しかし、それゆえにこそ、今までここを訪れなかった。それは、ここを最後の拠り所と果心が思っていたかったからである。最後の拠り所を失う覚悟がなければ、訪れることはできない。

 だから、果心は、門前に立ったまま、中に入らなかった。

 旅の僧と名乗れば、一夜の宿は貸してくれる。いつのもように、しばらく修行をしたいと願えば断わられることもない。そうすれば、鑑真和上を危難から救った外法師の生きようを知ることができるやもしれぬ。

 けれども、その外法師を和上は憎んだともいう。

 渡日の際に救われたとはいえ、その外法をいとうた鑑真和上の教えを伝える唐招提寺が、果心の外法外術を厭わぬ道理はない。いや、興福寺がそうであったように、いかに幻術外法を修しても、誰にも受け容れられぬのではないか。

 幻術を始める契機けいきとなって憧れを抱いた唐招提寺にまで拒まれては、闇中あんちゅう深く途方に暮れるばかりである。

 門より中に、果心は入れなかった。

 ただ、それを果心は認めたくなかった。ために、その口実を、山門の脇にしゃがんでいた男に、果心は求めた。

 頭は剃ってはいるが法衣をまとってはいないその男は、果心に気づくと立ち上がって、何やら話しかけるように見えたが、

「仏は、ただの方便に過ぎぬぞ」

 と、吐き捨てるような口ぶりでありながら、むしろ果心に聞かせるごとくひとりごちた。

「信じたからとて、誰も救われぬ」

 酒に酔っているのではない。

「おれはな、仏の教えのいかさまをいているのじゃ」

 それには応じず、山門の前に果心はたたずむ。

 他に人影はない。

「仏はただの方便じゃ。誰も救いはせぬぞ」

 こういう男を、京でも果心は見かけた。

 人通りの多い繁華な場所で、物売りに混じって己の思うところを、彼らはただ話していた。それは、己の不遇であったり誰ぞの非道であったり、あるいは何かの蘊蓄を語る者もあった。

 道行く人は、誰もそれに耳を傾けることなく通り過ぎていったが、知らぬ振りを装いながら、、それを果心はよく聞いていた。

 そして、人通りが絶えれば、彼らはいずこかへ帰っていく。

 果心が姿を消せば、仏のいかさまを訴えるこの男も、いずれかへ立ち去るであろう。

 しばし、それを己に対する言い訳と果心はしていたが、しばらくして寺の中から剃髪青い若い僧が姿を現し、

「閉門の時刻にございますれば……」

 門扉に手をかけながら、厳粛げんしゅくおもてを果心に見せた。

 それで、仏のいかさまを唱えるのを止めた男は向こうの薄闇に歩き始めた。

 瞬時、視線をそれへ向けた果心に気づいた若い僧は、立ち去る男の背中をことさらに見送りながら、

「なんぞ、申しておりましたか」

 さっきとは打って変わった声音で問うた。

 わずかに首を果心が振ると、

「あの男は、少し気が触れておりましてな」

 卑屈な笑いを口元に見せながら、

「何か、御用がございますれば……」

 と、取ってつけたように言った。

 再度、かすかにこうべを果心が振ると、もう何事もなかったかのように門を僧は閉じようとする。

 刹那、足下の小石を果心は蹴った。それが閉じかけた門扉に当たって僧の手が止まり、小さな不審を宿した目が果心に向けられる。

 そのとき、半眼だった果心の瞳が大きく見開かれた。

 引き込まれるように僧が果心の顔を注視する。と、果心の頭は暗い空に長く伸び、同時に眼、耳、鼻、口、顎が地面にこれも長く伸び始める。

「え……」

 と、間抜けな高い音声を発した僧に向かって、今度は首を伸ばして、その鼻の頭をぺろりと一つ、果心がめる。

 飛び上がって、

「ば、ばけ物!」

 絶叫を残して僧は寺内に逃げ帰った。

 こんなことを三日も仕掛ければ、間違いなくあの僧には、気が触れた輩という刻印が押されるであろう。

 そうしてやってもよいが、それで己の果つる心がいかようになるものでもないことは、もうわかっている。

 おそらく、明日も明後日も、この唐招提寺を囲う土塀の外で、あの男は仏をののしるであろう。

 唐招提寺に背を向けて、闇の中を果心は歩み始めた。

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