十 迦楼羅
おなごを誑かす術を法春が試みたのは、それから四年を経てからだった。すでに、体がおなごを欲する年齢になっていた。
だが、女人に恋心を抱く、という念が発する前に、女という生き物の側面を見せられていた法春には、女が情を伴った人である、という感覚が培われなかった。というよりは、そもそも法春に人としての感情が備わっていない、というほうが正しいかもしれない。あるいは、母もろとも、父と兄に蔑ろにされたことが、もっと言うなら、その母にさえ裏切られた、という思いが、埋められぬ空虚を法春に
だから、父とともに寺領の小作を続ける兄の新妻にも、法春は術をかけた。
かけられた女は、誰であれ、間違いなく妖艶になる。ばかりか、法春に逢いにくるのだから、女の変化に家の者が気づかぬはずはない。
兄の、土臭い新妻も例外ではなかった。
それに気づいた兄が興福寺を訪れた日は、
別に、兄が訪れることを察していた訳ではなかった。だが、その日、東金堂の裏に法春はいた。
ちょうど、落ちていた小枝を拾ってそこにしゃがみ、かつて無間がそうしたように、円を描いているところだった。
「よた」
その背中に、法春がとうに忘れた名を、兄は呼びかけた。
法春は、円に気を集めている。
「よた」
声に怒りを、兄は
法春は答えず、なおも円を見つめている。
「もよに何をした」
蟻が集まり始めていた。
「おい。わしの嫁に何をした」
その辺りを這い回る蟻を、ただ法春は見つめている。
「おい」
背後から法春の襟首を掴もうと、兄が腰を
「心地よさそうにしておるぞ」
「え……」
兄は手を止めた。
いっせいに、蝉が鳴き止む。
「わしに股がって」
「よた!」
法春の襟を掴んで乱暴に引き上げた兄のその手は、気がつけばただ
その兄の鼻の先に、手にした小枝を突きつけた法春は、かすかに笑ってその先端を、今度は地面に描いた円の中心に当てる。
「さて、母と弟を
そう言いながら小枝を地面に差し込んでいく法春の左手も地中に沈み込む。それが肩までどっぷり入り込んだところで、法春は何かを探るように円の中に視線を落とす。落として瞬間、兄に視線を刺して、一気に左手を抜き放つ。
法春の左腕に導かれるように表れた巨大な仏像を見上げながら、
「
天を突き刺すような声とともに、その腕が導いた、
その、仏法を守護する八部衆の一人、迦楼羅は、腰を抜かした兄の襟髪を表情も変えず大仰な動きで掴み上げる。法春が左手とともに小枝の先を円の
あのとき、無間に仏師の命を奪うtもりはなかった、と法春は思っている。
ただ、この術にかかるものによっては、どこかで間違って命を落とすことがある。
もちろん、このとき、兄を
兄の妻を奪っても、兄の命を奪っても、ひとときの気晴らし、言ってしまえば、
「ざまあみやがれ」
という一言で片付けられるだけのものが胸中を通り過ぎて、その後はもっと
けれども、そんな己の心もなくしてしまいたい、と法春は望んでもいる。
蝉は、再び鳴き始めていた。
気を失って地に伏す兄を、いや、かりそめに兄と呼んだ小作人を、しばらく法春は見下ろしていた。
以後、法春の前に兄は姿を見せることはなかったが、数日を経ずして、法春を求めにもよが訪れた。
そのおり、もよにかけた術を解こうか、と法春は思った。
兄に嫁がねば、外法師ごときにその身を
結句、誰の術も解かぬままに無間は去ってしまったから、残された女は死ぬまで己の体を持て余し、自ら苛まれる。法春の母も、そのようである。それが、不仕合わせであるかどうかを、法春は知らない。だが、元来あるべき己を失ったままであることに違いはあるまい。
「否」
法春は、己を
己がその元来の己であるなら、このように兄の妻を狂わしていようか……
そもそも、今の己が元来の己であるなどと、いったいに誰にわかろうか……
そのとき、もよの視線を法春は感じた。
再びもよの口を吸い、雑念を法春は拭った。
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