九 槍と角
秋空に、鹿が角を闘わせる、乾いた音が響いた。
「法春」
三条の通りから短い石段を上がってすぐ、三重塔の横で、手槍を小脇に抱えた兄弟子に、法春は呼び止められた。
がっかりして、法春は足を止めた。
「無間さんはどうしておられような」
「さて」
兄弟子を見ずに法春は答えた。
無間ように速く、そして誰にも覚られぬように息づかいを殺して歩む。それを、法春も修している。しかし、こうもたやすく兄弟子に呼び止められては、まだまだ無間の足下にも及ばない。
おそらくは、鹿の角をぶつける音に気を奪われたからであろう。
「なあ、法春」
のんびりした声で再び呼びながら、法春に向かって兄弟子は手槍を構えた。
「無間さんの遣うた不可思議な術の中に、槍の術はなかったか」
「ございませぬ」
かなり色のあせた、
何度もそこに出入りしているのに、それだけのものがどこに置いてあったのか不思議に思いながらも、それを一年余、読み込み、それに記された目眩しの術のいくつかを、法春は試みていた。
だが、槍はおろか、武器武具の
「やはり子供騙しか」
つぶやいた兄弟子の声音に、無間を
「兄弟子」
と法春は呼びかけた。
その様子に、
「どうした」
返した兄弟子の手にある槍を指した法春の、
「その手槍を奪ってみせましょう」
急に変じたその声の強さに少しとまどったように、槍の穂先を兄弟子は下げた。
それには構わず、近くで角を闘わせる鹿に目を向けると、そちらに法春は歩み寄った。
「おい、危ないぞ」
だが、争う二頭の鹿の
「さあ、突いてこられよ」
だらりと下げた左右の手に角を持って法春が誘う。
否も応もなく、ただ吸い込まれるように、兄弟子は、
「やあっ」
と、手にした槍を突き出した。
それを、左の角で受け止めて引き寄せた法春を、右に左に兄弟子は振り払おうとする。瞬時、その懐に入り込んだ法春の右手の角が己の
そこで初めて、己の手に槍のないことに気づいた兄弟子が法春を見上げると、呼び止められたその場に立ったままの法春が、両手に捧げるようにして手槍を差し出していた。
鹿の勝負も、どうやらついたようだった。
しばらく、狐につままれたような顔をしていたが、
「そうか、鹿の角か」
何か閃いたように口にすると立ち上がり、うやうやしく頭を下げて法春から槍を兄弟子は受け取った。
「いい稽古をつけてもらった」
そう言いながら、槍の穂先を兄弟子はじっと見ていた。
その兄弟子に、
「
と法春は、法名で呼びかけた。
「何だ」
槍から法春に視線を移した兄弟子に、
「やはり、僧兵になられるのか」
と問うた。
僧兵は、権威より仏法を守護する、というよりもむしろ、興福寺のため、ひいては大和一帯のためにある、と言ったほうがいいかもしれない。あるいは、興福寺がその勢力を広げんがため、誇示せんがため、と見る者も少なくない。
「うん……」
と、また槍に視線をもどしてしばらく思いを巡らせるような表情を見せてから胤栄は、
「そのつもりだが……」
法春に言って、
「ただ、槍がな……」
言葉を止めた。
「槍が……」
続きを待てないように促した法春に、
「面白い」
そう返しながら穂先を見つめて胤栄は笑った。
法春には、それが面白くなかった。
子供騙し、と侮られる術を遣って兄弟子を負かしたにもかかわらず、そうやって槍を持つ胤栄を見ていると、これまでに経験したことのないほど法春の気分は悪くなった。いや、それ以上の感情、憎いという思いさえ、法春の血の中に噴き上がっていた。
ただ同時に、槍を胤栄が極めようとするなら、鑑真和上を救った法師の血を引く己は、外法を極めるほかない、とも法春は思うのであった。
「法春」
改めて胤栄が呼びかけたときには、法春の姿も、負けた鹿の姿も失せていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます