六 采女神社

 季節は秋を迎えた。

 その日の昼下がり。

 いつものようによたが声をかける前に、一瞥いちべつもくれることなく、平生へいぜいの、ゆっくりとした動きのように見せながら、明らかに通常とは異なる速さで、猿沢池を左に、東から南へと無間は回り始めた。

 遅れまいと小走りについていたよたが、やがて全力で走りだそうとした刹那せつな、不意に足を止めて、池のほとりに立つ柳の木から葉を一枚、左手の親指と人差し指で無間は引きぬいた。

 歩をゆるめて近寄りながらそれをよたが見ていると、薄い柳の葉の裏に右手の人差し指の爪先を無間は当てた。はっと息を飲んだよたがまたたいた間に無間の気息きそくが聞こえたような気がして凝視ぎょうしすると、左手の親指と人差し指で、一匹の青蛙あおがえるを無間はつまんでいた。

「あ」

 声をよたが上げたのが合図のように、一度、それを両手に包み込むようにしてから、そのたなごころを開いて池にそれを無間は落とした。

 もう一度よたが見たときには、そこに蛙の姿はなく、ゆらりゆらり、と水面に柳の葉は、舞い降りた。

 さらに確かめようと池のおもてに視線をよたがわせたときには、もう無間は歩き始めていた。

 端から端まで見渡せる小さな池だから見失うことはなかったが、それでももうよたのいるところから半周先を無間は歩いていた。慌てて追いかけたが、南円堂の脇の石段を下りた右手に建つ采女神社の辺りで、結局無間をよたは見失った。

 そこまで駆けて、草をむ鹿に初めてよたは気がついた。いや、草を食んでいた鹿のほうが、先によたの存在に気づいたように思えた。

 鹿ばかりではない。近在の百姓や物売り、物見遊山ものみゆさんに訪れたであろう人々が、確かにそこにいた。そのうちのいく人かも、たった今、気がついたようによたを見た。

 それらの視線を意識したとき、母の声が聞こえたようによたは思った。

 采女神社に足をよたは入れた。

 猿沢池の西、人通りの絶えない三条に沿ってその社は建ってはいるが、小さな境内に足を踏み入れる者はほとんどいない。

 その陰に、無間の高い背中をよたは見つけた。

「無間さん」

 声をかけると、無間の細い身体のその向こうから、母の顔がのぞいた。そのとき、間違いなく目が合ったとよたは思った。

 けれども、瞳を見開き、驚きとも恥じらいともとれる表情を見せてすぐ、

「無間様」

 と、無間の顔を母は見上げたようだった。

 だが、よたの名を呼ぶことはない。

 それでも、わずかに無間の意識がよたに向いたのか、母の視線がよたに戻った刹那、

「法春、です」

 母から目を離さずに、短くよたは告げた。告げてこうべを下げたよたは、そのまま母の姿を見ずに、采女神社から足早に立ち去った。

 そうしなければ、我が子より無間を母が選んだことを、もっと言うなら、母が自分を捨てたことを、よたは認めるしかない…… そうなるかもしれない。

 実際、よたの背に呼びかける母の声が聞こえることは、やはりなかった。

 誰が父親か、ということは、もはや問題ではない。けれども、南円堂の脇の石段を足早に駆け上がろうとしたよたの目の前に、もう無間の背中があった。

 それができないことだとわかっていながら、無間の背中を踏みつけてやりたい衝動しょうどうにかられてどうにも抑え切れず、路傍ろぼう小菊こぎくをよたは踏みにじっていた。

 今、己が踏みにじっているのは、ほんとうは己自身かもしれぬ、という思いを、言葉にすることもできぬままに……

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