五 法春

 確かに、無間によたは似ていた。

 もし、興福寺の無間にたぶらかされた母がよたを産み落としたのだとしたら、母やよたに父の怒りが向けられたとしてもおかしくはない。どこまで承知しているのかはわからぬが、よたと血のつながらぬ兄が父に加担するのも当然と言えよう。

 翌日、よたは剃髪ていはつし、法名を授けられた。

 法春ほうしゅん

 誰にもかえりみられないよたではない。

 新しく生まれ変わった己である。

 それを母に知らせたい、とよたが思ったことに偽りはなかった。なかったが、母に会って己の出自しゅつじを確かめたい、という本心を隠すための口実でも、それはあったかもしれない。

 けれども、よたを母が訪ねてくることはない。

「我が子といえども仏門に入れば仏弟子となる。修行の妨げとなるゆえ、以後はたやすく会えぬもとの心得たし」

 師僧のその言葉を、母は固く守っているのだと信じたい一方で、そんな母ではないことを、よたは知っている。

 それでも母に会いたいという思いから、無間によたは近づいた。我が子に会いに来ることはなくとも、無間に母は会いにくる。そう感じていたからだ。

 ただ、無限には、

「鑑真和上をお救い申したと伝わる法を、嵐の中にあっても船を護るという術を、学びとうございます」

 と言い、己自身にも、そんな口実を信じ込ませようとした。実の父であろう無間と触れ合うことを望んだからでは、決してない。

 だが、

「どこでそんなごとを聞いてきたか知らぬが、わしがつかうのは、ただの目眩めくらまし、子供騙こどもだましよ」

 と冷たく答えて、

「では、その子供騙しの術をご教授ください」

 という言葉には、無間は答えなかった。

 それでもすきを見つけては、無間のかたわらによたは足を運んだ。教わることができぬなら、その法術を盗むまでである。

 しかし、それを無間が見せる機会は訪れなかった。ばかりか、傍らによたがいようがいまいが意に介することなく、気ままに無間はふるまっていた。

 興福寺において無間は客僧きゃくそうなのかとも思っていたが、それにしては誰も気を使わない。特に何もなければ無間を誰も意識しない。誰も意識しないと言うよりは、あるいは意識できない、と表したほうが正しいかもしれない。なにしろ、傍らによたがついているときには、そのよたにさえ誰も気づかぬが、よたの傍らに無間がいなければ、

「法春、何をしておる」

 と、師僧や兄弟子たちからとがめられるのである。

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