四 無間の術

 その夜、耳を引っ張った兄弟子に、僧坊そうぼうにもどったよたが尋ねると、

「無間さんは、大仏建立のおり、天竺てんじくから法要にござった法師の末裔まつえいということじゃ」

 平家に焼かれた大仏が再建さいこんされたのは、三百年ほど前である。

 鑑真和上の渡日の際ではなく、大仏再建の法要では話が違うのではないかと思いながら、

「天竺とは、いずれにありましょうや」

 素朴に問うたよたに、なんだそんなことも知らぬのか、といった口ぶりで、

唐土もろこしのはるか南じゃ」

 兄弟子は答えた。

 それで、よたの中でつながった。

「無間さんは、ほんとうは鑑真和上の外法師の末裔ではありませぬか」

「げほうし?」

 怪訝けげんな表情を、兄弟子は返した。

「鑑真和上の船を、嵐より護る外法をぎょうじた法師にございます」

「さあて、船を護るか否かはわからぬが、無間さんは不可思議ふかしぎな術をお遣いになる」

「不可思議な術?」

 今度はよたが問い返した。

 それを待っていたように口元に笑みを浮かべて兄弟子は、

「木の葉を蛙に変じなさる」

「木の葉を蛙に?」

「そうじゃ。その蛙を猿沢池に放すと、元の木の葉に戻る」

「ご覧になったのですか」

 昂奮こうふんを帯びて返ってきたよたの声に、少しもったいぶって、

「見た」

 と言い切った兄弟子に、よたは身を乗り出して、

「どのようにされたのでしょうか」

 まさに、これをやりたかったのだと言わんばかりに、左手で木の葉をつまむ仕草を見せて、

「えいっ……」

 鋭い声を上げながら、右手の人差し指でそれを兄弟子は指した。

「どのような修行を積めば、そのような摩訶不思議な術が遣えるようになりましょう」

 よたの問いに、

「ようはわからぬが、師僧しそうは、さようなことに気を奪われるな、と我らには厳しく禁じておられる」

 と言ってから、師僧の口吻こうふんをまねて、

「たかが目眩めくらましにうつつを抜かしてはならぬ。修行の妨げとなるばかりじゃ」

 と兄弟子は言ったが、そんなことによたは気づきもしないで、

「目眩し?」

「無間さんも、子供騙こどもだましの術じゃと言うておられた」

「子供騙し……」

 少し気落ちしたようなよたの声に、己はさも大人だと言わんばかりの口ぶりで、

「それを喜んでおるうちは、まだまだ子どもということよ。はっ、はっ、はっ……」

 と、いかにも大仰おおぎょうに兄弟子は笑ってみせた。

「もし、船を護る術をお遣いなら、子供騙しとは言えますまい」

 よたのこの言葉に、一瞬、何かひらめいた表情を見せてすぐ、下卑げびた笑みを浮かべると、咳を一つ払って、

「実はな……」

 そこで、周囲をはばかるように左右にちらりと目をやって、

「無間さんの遣う術は、子どもを騙すばかりではないぞ」

「子どもを騙すばかりではない術とは、いったいどのような術でございましょうか」

 よたのその反応をいかにも待ち望んでいたように、ことさらに秘密めかした小さな声で、

「おなごをたぶらかす術じゃそうな」

 言った兄弟子に、みぞおちの辺りから、身体の中に真っ黒なすすを吹き込まれようによたは覚えた。

「よたとか言うたか?」

 まだ法名を、よたはさずかっていない。

「……」

「その肌の色という、鼻、口、耳の形といい、よたの母こそ、無間さんの術に誑かされたのではあるまいか」

 面白がる兄弟子の言葉が終らぬ前に、よたの胸の内でくすぶっていた黒煙は火の玉に変じ、生まれてこのかた発したことのないほどの咆哮ほうこうを上げながら、兄弟子に体当たりをよたは食らわした。

 

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