三 異形の僧

 興福寺に、異形いぎょうの僧はいた。

 その姿をはじめてよたが見たのは、猿沢池さるさわいけ放生会ほうじょうえを興福寺が行った日であった。

 放生会とは、仏教の戒律かいりつの一つで、殺生せっしょういましめるために鳥や魚を野や池に放す儀式である。

 よたが預けられてそれほど日数ひかずを経ない、暖かい春の昼下がり。境内にある一言観音堂ひとことかんのんどうで法要を済ませた貫主かんしゅや僧侶らがあらかじめ用意された桶に入れた鯉の稚魚などを、南円堂なんえんどうの脇にある石段を下って池に放し終えた、その後片付けを行っていたときに、母の姿をよたは認めた。

 その昔、みかど寵愛ちょうあいを失って猿沢池に身を投げた采女うねめの霊を慰めるために建てられた采女神社の社の陰に隠れるように、母は立っていた。

 桶を手にしたままそちらに駆け寄ろうとして、すぐによたはためらった。母のかたわららにせて背の高い僧が立っていたからだ。

 そればかりではない。

 ついぞよたが見たことがないほどの笑顔を、その僧に母は向けていたのである。二言三言、何か僧がささやくと、二度ほど嬉しそうにうなずいて僧から母は離れた。

 よたにはまったく気づかない。

 無性に走りだしたい衝動によたは囚われた。

 しかし、母に向かって駆け出すと、母を…… いや、その女を、きっと突き飛ばしてしまう……

 とっさに、そんな衝動だと感得かんとくしたよたは、己の足を制した。

 けれども、どこかに駆け出さずにいられない。

 いっそ、石段を駆け上がるか……

 はっきりとそう思ったわけではなかったが、一歩踏み出したよたの視界を、母が笑顔を見せた僧の横顔がふらりとさえぎった。

 思わず足が止まってそれをよたは注視した。

 肌は浅黒く、こけた頬のために一段と鼻梁が高く鋭く見える。右耳の先端が少しとがっている。

 興福寺に来てまもなく、三つ年かさの兄弟子に、

「何やら無間むげんさんに似ておるな」

 と言われて耳を引っ張られたことを、そのとき、よたは思い出した。

「無間さん……」

 思わず口をついて出た声は小さかったから、その僧に聞こえたはずはない、と思いはしたが、瞬時、よたに視線を僧は投げた。

 確かに目が合った。

 だが、何の感興かんきょうを示すこともなく半眼はんがんのまま、南円堂に続く石段を僧はゆっくりと上がっていった。

 光背こうはいを失った観音立像かんのんりゅうぞうのような細長い、その背中を見ているうちに、駆け出したいというよたの思いは、いつの間にかせていた。

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