願いと拒絶のあいだ

 久方ぶりに目に入った現実の景色は、美女の顔だった。少なくともキッラーは、これ以上の美女を拝んだことはない。村にいた年頃の娘たち――どうしても顔より性格に気を取られるが――よりも、はるかに整った顔立ちだった。

「……ここは、天国でしょうか?」

「残念だが、現し世だな」

 すわ御使いのお迎えか。そんな思いから放った問いは、にべもなく返された。キッラーは周囲を見回し、確認する。そこには確かに現世の姿。木々に囲まれた、広場のような場所にいるらしい。

「戦の場からはそれなりに離れた。喧騒は喧騒を産むだけだからな。木を隠すならば森の中。まあどうにでもなるだろう」

「はあ」

 キッラーは改めて周囲を見回した。やはり空気の流れに、別の流れが混じっていた。

「うむ。それが、マナの流れだ」

 キッラーの思いを読んだかのように、美女は語る。キッラーはどうにも不思議な気分だった。初対面ではあるが、初対面ではないのだから。釈然としない顔を続ける彼は、ついに美女に待ったをかけた。

「あの。『おれ』として、そして現実では初対面なので、せめて一度、名乗らさせてください。おれは、キッラーといいます」

「おおっと」

 美女はこれはいけないとばかりに手を叩いた。そして居住まいを正して立ち上がり、白銀のローブをはためかせた。

「ワオ・ビン・エーノ。君には刺激が強いかもしれないが……見ての通り、ウィザードだ」


 ***


「結局、おれはなにも……」

 うなだれるキッラーを横目に、エーノは即席の粥をすすった。キッラーが影に呑まれた経緯。全魔鏖殺の暴虐。二人の戦。一通りのいきさつを語り合った二人は、一旦腹ごしらえを行っていた。陽は中天高いが、森の中は薄暗い。急ごしらえの火が、ほどよく辺りを照らしていた。

「卑下するでない」

 粥をもう一度だけすすり、口を湿らせてから、エーノは答えた。炎に照らされる青年の顔を、彼女はまっすぐに見つめた。来歴を聞いたぶんには、小さな村で牛を飼っていたという。真っ直ぐな目線と、日に焼けた浅黒い顔。長らく見てきた限りでは、いかにもという顔だった。しかしその顔が先刻は狂気に染まり、牙さえも生えかねないほどに醜悪な凶相を見せていた。げに恐るべきは影なる悪鬼だったのだ。エーノは今一度だけ粥をすすり、口を開いた。

「私の攻撃によるものとはいえ、君が目覚め、あの悪鬼に対抗する意志を持ち得た。その事実が、今につながっている。誇ってもいい」

 エーノの言葉は、まったくの事実だった。エーノの攻撃がキッラーを照らしたのは事実。だが、キッラーがそれを掴んで立たねば。結局は影がすべてを拒絶していたことだろう。だからこそ、エーノはキッラーを讃えているのだ。だというのに。

「誇ってもいいのかもしれません」

 純朴な青年は、あくまで物憂げな顔を見せていた。それは、どこか後ろめたそうな表情だった。長年寄り添った相手に、重大な隠し事をしている。そんな錯覚を得るような表情だった。

「でも」

 青年は一拍置いた。それからもう一度だけ下を向き、猛然と粥をすすった。ここまで、一度も手を付けてなかったのにだ。かきこみ、飲み下し。少しだけ上を向いたあと、青年は決然と打ち明けた。

「おれには、復讐を望む相手がいます。ウィザードです」

「そうか。つまり村を滅ぼし、君を死の淵へと追いやった連中。彼らへの憎しみは」

「消え難い事実です。俺の中には、確かに憎悪があります。そこに影……俺の奥底ににあったマナが食い付いてきたのでしょう。俺が、力を欲したから。繋がってしまった」

「なるほど」

 エーノに、共感はなかった。彼女には、キッラーの心を砕く必要があるとさえ感じられた。彼の望むものが、わかってしまったから。

「力が、欲しいか」

 決定的な問いを、彼女は発した。心には悲しみがあったが、おくびにも出さなかった。果たして、キッラーの首は縦に振られた。エーノは小さく、ため息を吐いた。

「ハッキリと言おう。私は君に、力を与えることはできない」

「なぜ」

「暴威を振るい得る力を与えることは、私の信条に反するからだ」

 エーノは宣言の後、さらに言葉を続けた。白派と黒派のあらまし。自身の来歴。キッラーのやろうとすることに、協力できるわけがないという意思の表明。それは彼女にとって、罪滅ぼしにも、言い訳にも似た行為だった。だがそうしなければ、彼女は自分が許せなかった。ウィザードの暴威に晒された男が、ウィザードを討つ望みを抱く。それはまったく正しい情動だからだ。冷めてしまった粥を一息に飲み干すと。エーノは努めて冷たく、キッラーに宣告した。

「黒派――正教に巣食うウィザードは私が討つ。君は復讐から離れ、心安らかに暮らせ」

「……」

 キッラーは、無言だった。エーノはあえて、彼の感情を無視した。共感すれば最後、暴威を、凶星を産む片棒を担いでしまいかねない。

「この森には結界を掛ける。しばらくは追手をかわせるだろう。粥もそのままにしておこう。穏やかなマナとともに、腹を決めるのだ」

 エーノは立つと、サラリと文言を唱えた。それだけで一つ、森の空気が変わったような気配が生まれた。

「っ」

 キッラーが立ち上がる。エーノに真っ直ぐ、目を合わせた。若干見下される形になったエーノだったが、傲慢さは感じられなかった。直後、キッラーが頭を下げた。無言のままの、九十度の礼。王侯などに行われる最敬礼に、偶然ながらも一致していた。

「お願いします。力を」

「もしもマナとの接触で『目』が開いたのなら」

 エーノは、せめてもの取っ掛かりを差し出すことにした。初歩の初歩程度ならば、どうにでもなる。ほだされてしまった自分への言い訳を、心のなかで並べ立てつつ。

「マナを捉え、モノにしてみなさい。できなければ、諦めよ」

 エーノはそれだけ言うと、地面を蹴って即座に消えた。これ以上は、不可能だった。


「…………!」

 彼女が消えた先に向け、キッラーはいつまでも頭を下げていた。

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