僕は大人になりきれない
樋口偽善
僕は大人になりきれない
「お前って純粋だよな」
あの日、僕が幼馴染に言われた言葉だ。
それはこれまで聞いてきた“純粋”とは明らかに違った意味を含んでいた。
例えば、性的なことへの関心が高まる人が急増する小学校高学年から中学生にかけて、性知識が乏しい人に対して言う“純粋”とは全く違う。
あの頃のそれと同じくこちらを小馬鹿にしているのであろうニュアンスは含んでいるのだが、何を馬鹿にしているのかが明らかに違う。
例えるとするならば、高校生になった途端にブラックコーヒーを飲み始めた友人から、「お前まだコーヒー牛乳飲んでんの?子供だなあ」と鼻で笑われた時と同じ気分にさせられる言葉だ。
人間は自分が既に通り過ぎたモノを“幼稚なモノ”や“時代遅れなモノ”とみなし、それを通り過ぎた自分は大人になったのだと錯覚する。
そして自分が通り過ぎたところにまだ留まっている人が周りにいると、その人に対して“子供だ”とか“遅れてる”だとか言って見下すのだ。
その瞬間、本来対等であった筈の関係性は揺らいでしまう。
あの言葉には、そんな意味合いがあった。
純粋というのはさほど悪い言葉ではないと思っていたが、どうやら違ったらしい。
それを思い知ったあの時、僕は20歳だった。
・・・・・・・・・・
中国語の定期試験を終え、バイトの制服を取りに行くために一旦自宅アパートへ戻ることにした。
数日後には成人式だというのに大学の試験があるというのはどうなのだと、自分も含め成人を迎えたほとんどの学生が思っているだろう。
戸田裕也はぼんやりとそんなことを思いながら、見慣れた道を歩く。
実家の最寄り駅まではここからざっと数時間は電車に揺られなければならないため、成人式に参加するには当然その時間をかけて地元に戻る必要がある。
明日には長時間移動が待っていると思うと、今から気が重くなる。
とはいえ、一人暮らしが必須なほど遠くの大学に入学したことは、裕也にとっては大正解と言える選択だった。
一人暮らしを始めたことで生活力が身に付き、アルバイトで多少お金を稼げるようになってから、大人として自立している心地がするのだ。
数ヶ月前に20歳を迎えたことで、その意識はより強まっていた。
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アルバイト先の海鮮居酒屋には10分前までに到着するよう気を付けていた。
働き始めたのが先月からということもあり、まだ少し緊張感がある。
「お、ゆーちんじゃん。おつかれー」
「どうも、お疲れ様です」
彼は裕也とは別の大学に通っていて、1歳年上の先輩である北村俊輔だ。
裕也は正直、彼のことが苦手だった。
理由は幾つかあるが、一言でまとめるならば彼がデリカシーのない人間だからだ。
人のプライベートゾーンに土足で踏み込んで、さらに足跡までつけていくような、そんな男だった。
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「じゃあ、お先に失礼します」
業務を終えた裕也は、従業員控室へ向かう。
ドアをノックすると、中に誰かいるようだ。
返事の声を聞く限りそれが北村さんであることは明らかなので、ドアノブを回す手が重く感じる。
「よっ、おつかれさんゆーちん。21時上がりとか珍しいじゃん」
「はい、明日は早起きして実家に帰ろうと思ってるんです」
「あ、もしかして成人式?うーわ、なっつ。あれもう1年前かよ」
並んで控室を出た2人は、自転車にまたがってそれぞれの家を目指す。
ここから10分程度は帰り道が同じなので、またいろいろ聞かれるのだろうと裕也は覚悟した。
「ゆーちん。成人式や同窓会は2次会以降が本番だから、ちゃんと最後まで残れよ?」
「そういうもんですか?」
「そりゃあゆーちん、あんなのセフレ探す為のイベントみたいなもんだぜ」
また始まった。
この人の中では、全てのイベントが性欲を満たすためのものなのだろうか。
以前一人暮らしをしていると話した時も、「いつでも女呼べるじゃん」と羨ましそうにしていたのだ。
この先輩のせいもあって、裕也はこの手の話題が苦手だった。
「ゆーちんはさ、もう20歳なんだしそろそろ大人の遊び方ってのを覚えたほうがいいと思うんだよね。あれだろ?セックスは好きな人としかしちゃいけないって思ってんだろ?」
「うーん、まあ…」
「童貞のガキじゃないんだからさ、セックスを重く捉えすぎるのはみっともないぞ。変に頭固くせずに余裕もって生きるのが大人としてのあるべき姿だと思うよ、俺は。それにさ、ある程度そういう経験積んどかないとモテないぜ?」
彼は口癖のように“大人”を語る。
しかし裕也から見た彼はどうみても大人には見えないし、下半身に脳がついているようなこの男に余裕があるとは思えなかった。
たしかに彼は女性経験が豊富らしいが、その経験の豊富さが大人の男としての価値に繋がるという彼の考えには疑問を抱かざるを得ない。
性行為を娯楽と捉えるかどうかは個人の自由だし、それを大人の判断基準にするのはあまりにも品がない。
「ゆーちん彼女いるだろ?その子に遠慮なんかしてちゃ勿体無いぞ。どうせ結婚してるわけでもないんだし、無責任に女遊びできるのなんて今のうちなんだから。それにあっちだって、裏でやることやってるかもよ?」
そうかもしれませんね、と適当に返事をした。
北村さんはこちらが殆ど話を聞いていないことなんて全く気にも留めず、下品な自論を展開する。
やはりこの人のことは好きになれない。
人の彼女に在らぬ疑いをかけようとするところも、出逢ってすぐに「ゆーちん」なんてダサいあだ名で呼んでくるところも。
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成人式の会場である市民ホールは、これまで見てきた中でいちばんの賑わいを見せていた。
式は基本的に市ごとに開催される為、ここには市内の20歳が全員集合していることになる。
もちろん欠席者もいるのだろうが、各校の教師や来賓客なども揃っているため、大学で人の多さに慣れていた裕也でさえ中に混ざるのを躊躇してしまうほど人で溢れ返っていた。
「お、もしかして裕也?」
自分の名前が聞こえたので思わず振り返ると、そこには小・中学校を共に過ごした面々がスーツ姿で並んでいた。
みんな高校以降は別々で、中学卒業以来会っていなかった奴も多い。
みんななんとなく垢ぬけた感じがするが、スーツはまだ様になっていないし、ふとした表情に昔の面影が残っている。
式が始まるまでの間、最初に声を掛けてきた稲垣俊と話しながら待つことにした。
俊は家が隣同士の幼馴染で、今は地元の私立大学に通っている。
裕也が受験特化の進学校に進学したのに対し、彼はサッカーのスポーツ推薦で私立高校に進学して全国レベルの部活に入ったため、中学卒業後はあまり会っていなかった。
久しぶりに会った彼は身体がひと回り大きくなっていて、声もかなり低くなっている気がする。
「裕也は今東京住んでるんだよな?芸能人とかと会ったりする?」
「それがさ、意外と会えないんだよなあ。あ、でも昔人気だった芸人なら見かけたわ。えっと、誰だっけな…」
「ふーん。まあでも普通に羨ましいわ。東京ってなんか憧れるじゃん」
俊は昔と変わっていなかった。
彼はミーハーで、誰しもがなんとなく憧れるものに、深い理由も持たず素直に憧れる少年だった。
裕也は彼に東京での生活について色々と話してやった。
この辺りの人間は地元に留まって生涯を終える人が多いので、都会の生活を知らない人間が多いのだ。
俊は目を輝かせて裕也の話を聞いていた。
・・・・・・・・・・
「なあ裕也。やっぱ東京っていい女いっぱいいる?」
振り向くと、今は美容師学校に通っているという平塚和也が身を乗り出していた。
どうやら裕也の話に耳を傾けていたようだ。
彼は昔からモテていて数ヵ月おきに彼女が変わっているような奴だったので、こんなことを聞かれてもさほど驚きはしなかった。
こいつもあの北村さんみたいになっちゃってるんだろうな、となんとなく想像できる。
「綺麗な人は多い気がする。まあでも、単純に人が多いからね」
「合コンとかどんな感じ?ワンチャン未来の女子アナと出会えたりすんじゃねえの?」
「え、うーん…。僕は彼女いるし合コンとかは行かないかな」
「なんだよお前くそ真面目じゃん。一人暮らしならどうせバレねえんだし、男ならちょっとぐらい羽目外せばいいのによ」
「いやまあ、うーん…」
自分が真面目だという自覚はない。
それが当たり前だと考えているからだ。
「え、てか裕也彼女できたの?なあ、顔見せてくれよ。なあなあ、おっぱいでかい?」
「一人暮らしかー。いつでも女呼べるじゃん。俺も実家出てえよ」
「裕也は週何回ぐらいやってんの?てかお前らさ、いつ童貞捨てた?」
いつの間にか周りに座っていた他の奴らも会話に加わり、思い思いのことを口にしている。
中学生の頃、歳の離れた兄がいる友人の家に集まっては成人向け雑誌を食い入るように眺めていたあの頃と、彼らの目は何も変わっていない。
口にする言葉や行動は変わっても、根幹にあるものは同じだ。
彼らは昔は色々と制約があって溜め込むしかなかった欲望を、ある程度自由が利くようになった歳になってから発散しているだけ。
これが大人になるってことなのか?
周りにいる奴らや北村さんに対して、思わず声を張り上げそうになる。
まもなく大人の入学式とも呼べる成人式が始まるというのに、かつて自分の思い描いた“大人”は周りに1人も見当たらなかった。
それともかつて思い描いた“大人の姿”そのものが、そもそも間違っていたのだろうか。
盛り上がる会話の渦の中に、和也たちがこんな言葉を次々と放ったのが聞こえた。
「この間セフレが普通にデートしたいとか言って彼女ヅラしてきやがってさ。お前は彼女の枠じゃねえから図に乗んなよって話だよな」
「この間大阪行ったけど、やっぱ難波の店はアツいわ。裕也、今度東京行ったら歌舞伎町案内してよ」
「え?裕也先月まで童貞だったの?1回生のうちに彼女確保できたならさっさとやっちまわないと意味ねえじゃん。男なら10代のうちにかまさねえとだせえって!」
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。
やっぱりこんな奴ら、大人じゃない。
裕也が黙っていると、俊の声が耳から飛び込んできて全身に響き渡った。
「お前って純粋だよな」
俊は何食わぬ顔でそう言ったが、裕也の記憶にはその後もずっとその言葉がのしかかっていた。
これらのことが受け入れられない純粋な僕は、まだ子供なんだろうか。
・・・・・・・・・・
成人式と中学校の同窓会が終わり、裕也は2次会には参加せずにまっすぐ家へと帰った。
後ろから誰かに呼ばれた気がしたが、構うもんか。
電車に乗った後もスマホが震えていたが、断固として無視を続ける。
帰宅後はすぐにスーツを脱ぎ、風呂に入って身体を休めた。
さほど動いてはいないはずだが、全身に重い疲れがどっと押し寄せる。
思いがけず早めに帰宅したことを心配したのか母親にいろいろと質問をされたが、裕也は適当にはぐらかした。
父親は「おかえり」とだけ言って、テレビでニュースを見ていた。
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風呂から上がると、先程までいたはずの母親がリビングにいなかった。
時計を見るとまだ22時半で、寝るのには早すぎる気がするのだが。
「裕也。ちょっと飲みながら話さないか?」
声の主は父親だった。
実家で酒を飲むのは初めてだし、裕也も父親もお酒はあまり強くない。
“成人した息子と酒を飲む”という多くの父親が憧れるであろうシチュエーションに、彼も実は憧れていたのだろうか。
「…レモンサワーにする」
「おう、父さんもそうしようかな」
黙ってプルタブを開けて、ダイニングテーブルの向かい側にいる父親と乾杯をする。
同窓会で嫌というほど乾杯したが、この乾杯はなんだか特別に感じた。
ほどよい冷たさと僅かなアルコールが、風呂上りにはちょうどいい。
「…今日の成人式、何かあったのか」
質問というよりは、確認というような聞き方だった。
やはり父親には敵わないと痛感した。
しかし今日のことは、胸の内に仕舞っておきたかった。
第一親と話すには、少々気が引ける内容だ。
裕也の返事を待たずして、父親は続けた。
「母さんには先に寝るよう言っておいた。父さんにだけでも構わないから、話してくれないか?」
父親の声を聞いていると、なんだか涙が出そうになってくる。
いくつになっても親と子の関係は変わらないし、少なくとも父親の前でならいつまでも子供でいていいような気がした。
気が付くと裕也は、今日のことやこれまで悩んできた“大人”に関する考え方をぽつりぽつりと話し始めていた。
父親は口にうっすらと微笑みを浮かべながら聞いている。
その笑みは決してこちらを小馬鹿にしたものではなく、愛のある微笑みだった。
裕也が話し終えると、父親はひと口レモンサワーをあおり、ふうっと息を吐いた。
「裕也も20歳になったんだな」
父親の第一声の意味はよく分からなかった。
とりあえずうんと頷いてみると、父親はふふっと笑った。
「20歳になって、様々な面で制約だらけだった10代までとは違ってひとりの“成人”として扱われるようになる。そのタイミングで大人って何なんだろうって悩むのは、自然なことだと思う」
ふいに父親も昔同じことで悩んだのだろうかと思った。
裕也は内面も外見も母親よりは父親似だ。
「でもな、お父さんは“成人”と“大人”はイコールじゃないと思うんだ。20歳になれば誰しもがしっかりした大人になれるわけじゃない。50年近く生きた父さんに言わせれば、大抵の20歳はまだまだ子供さ。そもそも“大人”の明確な定義も存在しない」
「じゃあお父さんは、大人って何だと思ってるの?」
「…少なくとも、さっき裕也が話してくれた同級生たちや先輩は大人ではないと思う。思春期の子供みたいなもんだ。若い頃は恋愛経験の豊富さとか、酒や煙草を嗜むこととか、夜の遊びを覚えることとか、やろうと思えば誰でもできるようなことに手を出して背伸びをしたがるものなのさ。30を過ぎて妻帯者が増えてくる頃には、そんな低次元な話で盛り上がってる人はどんどん減ってくる」
「どうしてみんな背伸びしたがるんだろう」
「裕也にも分かりやすく例えるならば、大学に入学したての学生たちが出身高校の偏差値で競い合ったり、如何に難しい大学を志望していた過去があるかを語り合うようなものだ。人は自然と周りと比較しあう生き物だから、若いうちは自分のことで精いっぱいだし、とにかく持ち得る武器で勝負することに躍起になっているんだ」
こんなにたくさん喋っている父親を見るのは初めてだった。
もしかしたら自分はひどい顔をして帰ってきていたのではないかと、数時間前の感情を思い返した。
たしかに同級生や先輩に対する憤りが表情にまで溢れていたのかもしれない。
しかし父親の話を聞いて、その感情はスーッと引いてきた。
「父さんが考える大人は、少なくともさっき言ったような小競り合いをしない人のことだと思う。人はどこかのタイミングで、自分はどんな人間で、何をすべきなのかを察する瞬間がやってくる。それは学生のうちにやってくるかもしれないし、就職してからかもしれないし、家庭を持ってからかもしれないし、一生ないかもしれない。とにかくその気づきが訪れた瞬間、人は自分の人生でやるべきことにちゃんと尽力して、無意味な小競り合いのことなんて気にならなくなるんだ。その瞬間、その人は大人になるんだと思う」
「…じゃあ僕は、まだ子供ってことかな」
父親はレモンサワーを飲み干し、空き缶を音を立てずに置いた。
そして優しい笑顔でこう言った。
「裕也は今、周りと自分の違いに違和感を感じていて、それでたまらなくなって早めに帰って来たんだと思う。でもその違和感こそが、さっき言った気づきの前兆なんだ。裕也はまだ大人にはなりきれていないけど、一歩大人に近づいたんだよ」
裕也はハッとした。
自分だけが置いて行かれたように感じていたが、もしかしたら自分が追い越してしまっただけなのかもしれない。
いや、置いて行かれたとか追い越したとか考えている時点で、自分はまだ子供なんだ。
でも、心は軽くなっている。
周りなんて気にしなくていい。純粋でいい。
自分がやるべきことを探せばいいんだ。
自分の人生は自分のものなんだから。
裕也はぐいっとレモンサワーを飲み干し、父親の目を見た。
「お父さん、話を聞いてくれてありがとう。実は大学に入って初めて彼女ができたんだ。僕、その子を大切にするよ」
「ああ、それがいい」
裕也は自然と、父親と握手をしていた。
その時自分の人生の道筋が、少しだけ光って見えた気がした。
僕は大人になりきれない 樋口偽善 @Higuchi_GZN
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