第8話 お願いがあるの
丈が結婚する。だが、相手は、婚約者の杏里ではない、耳がおかしくなったのかと、北斗は思った。
「だって、杏里と婚約」
丈は、わからんヤツだな、と言いたげに、
「だから、解消したよ、悪いけど。本物の相手と出会ってしまったんだから。しょうがない」
しょうがない、それで済むのか。
杏里が、本物の相手ではなかったと?
十年近くつきあってきた、丈一筋の杏里を見捨てるなんて。許せない。
北斗は怒りにふるえた。
「いやあ、人妻だったら、奪ってでも、と思ったけどさ。独身だったよ、ラッキー」
と、丈は浮かれている。
「十コ年上なんだ。早く俺の子が欲しいっていうからさ、いい女だぜ」
丈は、自慢げに言い、来春からロサンゼルス勤務になる、彼女と一緒に渡米する、と付け加えた。
「あ。これからは、ほかの男とやっていいからな」
じゃあな、と、去っていった。
目の前が暗くなり、ベットの上に倒れこむ。
丈が、杏里との婚約を解消した。
別の女と結婚する。
とても信じられない。
去年の秋、ふたりは婚約し、そろそろ一年。来年にはゴールインだろうと、勝手に思い込んでいた。
杏里の花嫁姿を見たら、俺は死ぬ。
俺の命日は、杏里が結婚する日だ。
あの決意は、どうなってしまうんだ。
気が付くと、朝になっていた。
頭痛がひどい。
北斗は、全裸のままだった。いつの間にか布団だけはかけていたらしい。
溶けたジェルと精液が混じり合い、内腿を伝い流れて、不快だった。
昨夜、丈が自分にしたこと。
杏里へのひどい仕打ち。
それらがごちゃ混ぜになり、やりきれない。
丈と自分の汗、ジェルと精液。それらが染みたシーツを北斗は乱暴に剥ぎ取り、ごみ袋に放り込んだ。
一週間後。
北斗は、久しぶりに、由衣と会った。杏里を姉のように慕う由衣も、もちろん激怒していた。
「マジ信じらんない。どんなに浮気しても、最後は、先輩と結婚すると思ってた」
なのに丈は、と、北斗の顔を見るなり、まくしたてた。
北斗が、杏里の様子を尋ねると、
「そりゃ落ち込んでるよ。元気なふりはしてるけど」
誇り高い杏里を思い、北斗の胸は痛む。
「しばらく、そっとしておいてあげよう」
「うん」
っぱり思った通りだった、青木丈。先輩は十六、ううん、十五から。あいつに一途だったんだよね」
悔しそうに、由衣が言う、北斗は、
「俺は、彼女と別れたって、杏里に伝えといて、いつでもいいから」
もともと彼女など、いない。丈のことで後ろめたくて、杏里と会う気になれなかった。会わないための、見栄まじりのウソだった。
もう、あんなウソをつく必要はなくなった。
杏里のために、俺は、なにもできない。
妹の由衣の方が、よほど頼りになるはずだ。
なさけない。
何の役にも立たない、自分。
丈からは解放されたが、うつろな日々だった。
ほかの男と、やっていいぜ。
お払い箱の自分が、どうなろうと知ったことではない。男が欲しくなったら、自分で漁りにいけ。
そう言わんばかりだった、丈は。
正直、妙な気分になったことはある。
しかし、北斗は耐えた。
自分が、丈と関係したのは。
杏里と間接キスしたい、どいう愚かな望みゆえ、だった。愚かではあったが、杏里恋しさの故。こんな体にされたからといって、他の男に慰めを求めるわけにはいかない。
十一月の末。
丈から、結婚披露宴への招待状が届いた。
「なに考えてんだ!」
思わず、声を荒げた。
来年三月初旬の日程と、新婦の名、美幸、を確認しただけで、北斗は招待状を粉々に破り捨てた。
怒りが収まらず、由衣に電話する。
さすがに由衣には届いていなかったが、由衣も呆れていた。
「あいつ、お兄ちゃんが杏里先輩を好きなこと、知ってて、わざとだよ」
そうかもしれない。その前に、由衣の知らない、丈との関係がある。
「まさか、杏里には、送ってないよな」
「招待状を、それはないと思うけど」
しかし、丈の挙式が決まった、そのことが耳に入らないはずはない。
杏里の悲しみを思うと、北斗もつらかった。
年が明け、またたく間に桜の季節になった。
丈は結婚し、夫婦そろってロスに旅立っただろう。
有る夜、思いがけない電話があった。
「北斗、杏里です」
時計は、十時を回っている。こんな時間に、杏里から電話があるなんて。
「夜分遅く、ごめんなさい。あの、あのね」
元気のない声だ。
「うん?」
「あの、北斗に、お願いが、あるの」
お願い、なんだろう。杏里の役に立てる
なら、なんでもするけど。
今夜の件はただ事ではない、そんな気がした。
「今から、行こうか」
杏里は、北斗の言葉に、ほっと息をつき、
「そうしてくれると、助かる」
杏里は、普通のマンションに越していた。就職したての頃は、女性専用マンションに住んでいたが、男性客にうるさいので、丈の意向もあって越した、と聞いている。
はじめて訪れる、杏里の部屋。
一人暮らしの女性を訪ねるのが、そもそも北斗は、はじめてなのだ。
夜遅くに、いいのだろうか、と思いつつ、電話ではできない相談があるらしい、という予感があった。
杏里と顔を合わせるのは、一年半ぶりくらいか。心労のためだろう、すっかりやつれて、少しやせたようだ。
「どうぞ」
居室に通され、ソファに腰を下ろした。
「わざわざ、来てくれて、ありがとう」
杏里は、北斗の顔を見ずに言った。
「ほかに、相談できる人が、いなくて」
「うん」
そんな言葉を、杏里から聞けるだけでうれしい北斗だった。
「お願いって、なに」
杏里は、なかなか口を開かない。
思い切ったように立ち上がり、一枚の書類を、テ-ブルに置いた。
「これに、サインしてほしいの」
杏里の声は、ふるえていた。
「中絶同意書」だった。
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