第9話 もうひとつの道
「丈の、子、なの」
苦しそうに、杏里は言った。
北斗は、何と答えてよいかわからない。
婚約を解消し、結婚してしまった男の子供を、杏里が宿している。
「式のひと月前。どうしても会いたいって呼び出されて。バカだよね、会ったらどうなるか、わかってたのに」
ぼそぼそと、杏里が話を続ける。
「もちろん、着けてたんだけど。途中で、外れちゃった、みたいで」
ほとんど、涙声になっていた。
「同意書が要らない場合も、あるの」
相手が誰かわからないとか、所在不明だとか。
そんな理由で同意書を提出できない、と思われたくはないだろう。
「シングルマザーに.なる勇気、なんて、ない」
「うん」
北斗は、ようやく、それだけ口にした。
サインするのは、かまわない。
指一本ふれたことのない杏里だけど、かりそめの恋人、そうした行為の相手、になれるだけでも光栄だ。産婦人科に、付き添ってもいい。
だが、サインしようとペンを持っても、目は、どうしても杏里の腹部にいってしまう。
あの中に、丈の子が。新しい命が。
自分がサインし、手術が執行され、小さな命は、闇から闇へと葬られる。
それで、いいのだろうか、本当に。
他に、道はないのか?
シングルマザーになる勇気は、ない。
あんな男の子供は絶対に産まない、という言い方を、杏里はしなかった。
少しは、産みたい気持ちがあるのではないのか、
もし、安心して産める環境があったとしたら?
サインしかけて、ふと、北斗は、あることを考えついた。
まさか、そんなこと。
だが、杏里のためには、それが一番いいような気がする。
言いだせるのか。でも、どうせ、一度は死ぬと決めた身。
断られたら、それでいい。
死ぬ気になれば、なんでもできる、というじゃないか。
「杏里、俺。他の書類にサインしたら、だめかな」
北斗は顔を上げ、杏里を見た。
「ほかの書類」
「たとえば、婚姻届」
杏里は、押し黙った。北斗が何を言っているのか理解できない、または北斗の真意を図りかねている、そんなところか。
「俺が、その子の父親になるって、ダメかな。そうすれば、杏里は、安心して産めるよね」
「何いってるの」
当然の反応だろう。だが、北斗は続けた。
「俺はただ、杏里の役に立ちたいんだ。おこがましいかもしれないけど」
杏里のために、何かする。そんな資格さえ、自分にはない、と思いながらも、言わずにいられない。
「俺、杏里が好きだ」
まっすぐに杏里を見て、言った。
「高校の入学式で、はじめて会った時から、好きだった。丈がいたのに、ダメだってわかってたのに、どうしても、そばにいたくて」
杏里は、黙って聞いていた。
「でも、だんだん会うのがつらくなってきて。彼女ができた、なんて嘘ついた。一度も、女の子とつきあったことなんか、ないよ。見栄はって、バカだよな」
会うのがつらい。それは、丈と、口に出せない関係になってしまったから。そのことも大きいのだが。
「君には、いっさい触らないよ、約束する。ただ形式的に結婚してくれれば、それでいい。
赤ちゃんが生まれたら、できるだけ子育ても、サポートする」
本心から、そう言った。
杏里と結婚するのは、彼女の心と体が欲しいからではない。そんな大それたことは考えていない。
「杏里に好きな人ができたら、俺は身を引く。すぐ、離婚して、その男性に杏里を渡すから。その時まで杏里を見守っていたい、だけなんだ」
「そんな。そんな結婚って」
突然のことで、杏里も混乱しているのだろう。
「少し、考えさせて」
「うん」
我ながら、よく言った。これでもう、思い残すことはない。
思いのすべてを、杏里に伝えることができた。
それだけで、北斗は満足していた。
翌日、杏里から返事があった。
「あなたと、結婚します」
電話の向こうで、杏里は、はっきりと、そう言った。
「やったね、お兄ちゃん」
兄と杏里の結婚を、由衣は、我がことのように歓び、祝福してくれた。
何故、急にそうなったのか。疑問はあったはずだが、気付かぬふりをしてくれた。由衣としては、自分が、杏里の義理の妹になれることが、うれしくてたまらないのだ。
母も、
「おまえが結婚なんてね、それも、あんな美人と、こんな早く。一生、お嫁さん来ないんんじゃないかと心配してたんだよ」
「俺もだよ」
北斗は、苦笑した。
まだ二十五歳。
三十を過ぎ、四十になっても。いや多分、一生、結婚はできないと思っていた。杏里が結婚したら、そこで死ぬつもりだったのだ
女神とも、天使とも思い、あこがれ続けた杏里を、妻に迎える。彼女の承諾を得てもなお、この現実が信じられなかった。
悩みの種は。杏里の両親に、どう許しをもらうか、だった。どんな言葉で、結婚の承諾をもらいに行くべきか。
結局、シンプルに、
「順序が逆になり、申し訳ありません」
と、頭を下げた。
意外にも、芹川夫妻は、北斗に好意的だった。愛娘が婚約者に裏切られ、失意の底にいたのを気に病んでいたから、地味な北斗は、むしろ堅実そうだと歓迎された。
芹川氏は、
「いまどき珍しい、純朴な青年」
と、北斗を評していたと、杏里から聞いたし、
夫人も、
「五十台でグランマになれるなんて嬉しいわ」
還暦を迎える前に、おばあちゃんになれることを、喜んでいた。
式は挙げず、入籍だけして、北斗と杏里は、正式な夫婦になった。
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