第7章 救いたまえ

 雪は吹雪に変わり、なお勢いを増して降り続けた。

 吹雪は、人を狂わせる。白一色の視野の中では、自分の姿すら飲み込まれてしまうような錯覚に陥る。そして激しい風の音は、他の何をも覆い隠してしまうのだった。

 家に閉じこもった人たちも、激しい吹雪の音と、その中で、生まれて初めて聴くような、びしっ、びしっ、と梁にひびの入る音とで、神経を病みつつあった。

 これが雪国なら、雪害対策で特に屋根の荷重に耐えられるように家を造るだろう。南の国なら、台風対策で、木造の家がなくなっていくように。

 しかし、ここは東京だった。地価の高さで家は安いほうがいい、ということにもなる。そもそも、五メートルの――いや、もうそれを超えて降り積もる雪など、誰も想像はしない。その分、屋根や耐力壁は、簡便にできていた。

 マンションですら、やわな造りで間に合わせている家があるぐらいで、新築の鉄筋マンションが、冬になると外との寒暖差で窓に水滴がびっしり付く結露が起きるほどだ。

 例を挙げれば、枚挙に暇がない。とにかく、街と、その街の人びとは、雪によって、死を迎えていた。


 季里は、雪の中を歩いていた。

 もう、どこへ行こう、としているのか、分からなくなってきた。ただ、更紗のことは、ふしぎと忘れなかった。

 ふっととぎれた雪の中に、季里は教会の十字架を見た。『ねむ』からしばらく歩いた所にあるのを思い出した。

 とがった教会の屋根は、雪をすべり落ちさせ、重みでつぶれてはいない。

 季里は、教会の中へ入っていった。祭壇の向こうに、キリストの像がある。

 季里は、祭壇の前に膝まずいて、ミサ曲の一節を口にした。


 Kyrie eleison   主よ あわれみたまえ

 Christe eleison キリストよ あわれみたまえ


(これは、あなたが望んだことなのですか?)

 季里は尋ねた。なぜ、こんなことを放っておくのですか? それとも、このほうがいいというのですか? 人間は、滅びなければならないのですか……。訊きたいことは、山ほどあった。

(私は、あなたを信じてはいません。私の母はあなたを信じていたから、『キリエ』――主よ――から私の名前を採りました。だけどあなたは、母を救けてはくれなかった。父も、姉も……。

 だから私は、私の目で見たもの、耳で聞いたものしか信じません。けれど、あなたは、あなたを信じる人を救けなければいけないのではないですか? みんな、こごえて、死んでいこうというのに、まだ、あなたは来てくれないのですか?)

 いくら問いかけても、祭壇のキリスト像は答えず、激しい風の音だけが耳に届いた。

 季里は立ち上がった。

(私は、行きます。あのとき、更紗が言ったお芝居のせりふのように、私たちはみんな、まちがっているのかもしれません。でも、私は、行かなければならないんです。だって私は、更紗のしたことだと、知っているから……)

 そこで、季里は、ふと思いついて、また尋ねた。

(あなたが、すべての人にやさしく、すべての人を許せるのは、何も知らないからなのではありませんか?

 人間は、知恵を持ったときから不幸になった――聖書に、そう書いてあるでしょう。そうだとしたら、その不幸な人間を救うあなたは、知恵を持たず、何も知らない人なのかもしれませんね。

 だったら、そこでそうしていてください。あなたがそこにいるかぎり、最後の望みはあるのだから……)

 季里は教会を出て、更紗を捜しに行った。


「……あたし、家へ帰るよ」

 司書室で、突然、美砂が言い出した。

「無理だ。雪がおさまるのを待ったほうがいい」

 陣内が止める。

「そんなの、いつになるか分からないじゃない!」

「落ちつけよ。自然には勝てない」

「そんなこと、言ってられないんだよ」

 美砂は、いらいらしているようだった。

「あんな家だけどさ、あたしがいなきゃしょうがないんだ。おふくろはとうの昔に死んだし、おやじは仕事ばっかりで、今だって帰ってるかどうか――だからこそ、あたしがいなきゃいけないんだ」

「どうしたんだ、急に」

 陣内は眉をひそめた。

「お前さん、おやじさんとは折り合いが悪いんじゃなかったのか」

「あんな奴でも、親は親だよ」

 美砂は立ち上がった。

 陣内と森本先生は、顔を見合わせた。美砂が家に帰りたい理由が、どうしても分からないのだった。

「とにかく、行ってきます」

 美砂は軽く会釈をすると、司書室を出て行った。

 あとに残された陣内たちは、もう冷めつつあるコーヒーを、黙って飲んでいた。

 森本先生が、ぽつり、と訊いた。

「追わないのか?」

「すぐに戻ってきますよ。あいつは、バカじゃない」

「だが、お前さんは、バカになってもいいんじゃないか? そういうもんだろう」

 森本先生はほほえんだ。

「陣内。お前さんは正しいよ。人間は、自然には勝てない。だからこそ、お前さんは行くべきなんだ」

 陣内は、ひととき、考えていた。

 やがて、カップをテーブルに置いた。

「先生――無事に戻ってきたら、今の言葉に感謝しますよ」

 それだけ言うと、出て行った。

「それまで、この建物が保つか、だな」

 森本先生はつぶやいた。

「たしかに変だな。いつもここには、ひとりでいるが、淋しい、と思ったことはない。だが今は、誰かに逢いたくてしかたがない。……雪のせいかな」


 陣内は、みんなで掘った雪道を歩いて行った。

 吹雪の中で、かろうじて片腕だけが見えた。時計に見覚えがある。

 陣内は、手で雪をかいて、ようやく美砂を引っぱり上げた。

「美砂! おい、美砂!」

 うっすらと目を開けた美砂は、何か安心したように微笑んだ。

「ああ……陣内か……」

「陣内か、じゃないだろう。しっかりしろ! 帰るんだろう?」

「帰る……家へ……」

「お前、どうしたんだ?」

「忘れちゃったよ。――あたしの家、どこだったっけ」

「いいから、とにかく起きるんだ」

「いやだよ。眠いんだから……」

 美砂は、陣内の膝に頭を乗せて、微笑んだまま答えた。

「あったかいね……」

「バカ野郎。雪の中だ。死ぬぞ!」

「あんたのことだよ。暖かい。もう少し、このままでいたい……」

「眠ったら、死ぬんだぜ」

「死ぬ? いいや、それでも。あんたがいてくれれば……」

 美砂は、ぼんやりと陣内の顔を見た。

「おかしいね。他のことは思いだせないけど、あんたのことだけは別だよ。陣内、知ってた? あたし、たぶん前から好きだったんだ」

「ああ……俺もだ」

 すると美砂は、とても無邪気な、幸せそうな顔になって、目を閉じた。

「……よかった……あんたと一緒で……」

 陣内の膝の上で、美砂は笑って、目を閉じた。

 腕組みをして、陣内はそのまま、美砂を膝に載せて座っていた。

 その姿を、すぐに雪が白く覆っていく――。


(この章終わり)

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