第6章 ことばの通り 【1】
公園を出た季里は、自然と、逝川高校の図書館へと向かっていた。
ここも、同じ高校の敷地なのに、雪に覆われていた。ざっと、三階の窓の下までが、雪に埋もれている。
入り口を探そうと建物の周りを回っていると、ガラスを叩く音がして、窓の中から司書の森本先生が手招きをして、窓を開けてくれた。
「ありがとうございます。先生」
「水淵……だよな」
森本先生は、なぜなのか、妙に自信のなさそうなようすだった。
「先生? どうかしたんですか」
「いや、なんだか頭がぼんやりとして。ストーブに当たっていたせいかな。――まあ、入れよ」
「ありがとうございます」
季里は、三階の窓から、図書館へと入った。
司書室では、陣内と美砂とが、何か話していた。
美砂が言う。
「それじゃ、季里はどうなるのさ」
「家にいる限りは大丈夫……と言いたいところだが、あいにく俺にも分からない」
思わず季里は、声をかけた。
「私を呼んだ?」
びっくりしたように、美砂と陣内はこちらを向いた。
「俺の専売特許をとるなよ」
陣内が、苦笑いする。
「ごめんなさい。そんなつもりはなかったんだけれど……」
「季里の家はどうなってるか、話し合っていたのさ」
美砂は微笑んだ。
「紘史兄さんが、コーヒーを煎れている――と思うよ」
答えると、陣内が眉をひそめた。
「客は来るのか」
「だれも、来られないみたいだけれど」
「それはやめさせたほうがいいと思わない?」
美砂も浮かない表情だ。
「ひょっとして、火事の心配?」
「そうだよ。この状況で火事になったら、消防車は来られないし、逃げるのも無理っぽいよ。燃料切れも心配だし」
「紘史兄さんに限って、そんなことない、と思うけれど」
言いながら、季里も気になった。
やがて、森本先生が戻ってきた。
「そろそろ雪かきに集中しないと、ほんとうに出られなくなるな。……おい、美砂。何をしているんだ」
「コーヒーですよ。インスタントのぐらいはあるんでしょう?」
「ああ。そこの棚の上から二番目だ」
「美砂。コーヒーなら、私が淹れるよ」
季里が言うと、美砂は首を振った。
「正直に言うとね、何かしてないと、おかしくなりそうなんだ」
「雪かきでもしたらどうだ」
陣内が立ち上がった。
「当番制にしよう」
森本先生が言い出した。
「まずは美砂と俺とで行く。寒くなってきたら、陣内と季里に交代する。それでどうだ」
「かまいません」
「了解」
季里と陣内は、口々に言った。
「じゃあ、行きましょうか」
美砂はインスタントコーヒーの瓶を置いて、
「で、先生。スコップか何か、あるんですか」
「雪国用の雪かきがある。俺の知識では、硬い底のほうの積雪は別として、充分使えるはずだ。普通のスコップもあるよ」
「なんでそんなもの、図書館にあるんですか」
「いざというときのためだ。――見ろ、いま役に立つじゃないか」
「いや、それ、なんの自慢です」
美砂は首を振って、
「じゃあ、先生を借りていくよ」
誰にともなく言うと、森本先生と一緒に司書室を出て行った。
「やはり、コーヒーを飲むべきだな、俺たちは」
残された陣内がつぶやいた。
「うん。私、淹れるから」
季里はコーヒーカップを見つけて、コーヒーを淹れた。
「はい、陣内くん」
「サンキュー」
ふたりは石油ストーブにあたりながら、コーヒーを飲んだ。
ふと季里は、思いついたことがあったので、陣内に訊いてみた。
「ねえ、陣内くん。記憶が何もない人って、いると思う?」
「さてな。そいつは俺の専門外だ」
「私、そういう人に会ったんだよ。それなのにその人、ことばがしゃべれるの。おかしいと思わない? 生まれてから今までのこと、何も覚えていないのに」
「ふうむ」
陣内は考えていたが、
「いや、そいつは論理的に説明がつく。つまりだ、ワープロと同じなわけだ。ワープロは、何も入力されていなければ、記憶はない。だが、記憶がなくても、単語を変換することはできる。たぶんその人っていうのは、記憶装置がぶっこわれたワープロなんだろうな。機能はあるが、記憶がないんだ」
「そうか……でも、どうしてなんだろう」
「会ったのかい? そんな人間に」
「うん」
「そいつは病気だ」
陣内は、断言した。
「でも、そうは思えない」
季里は立ち上がった。
「私、もう行かなくちゃ」
「それは無茶ってもんだ」
森本先生が、戻ってきていた。
「どこへ行くのかは知らないが、雪は思ったより疲れる。……いや、雪国生まれのお前さんに言うのは、釈迦に説法だが、こんな状態で外を歩いていたら、真剣に、死ぬよ」
「分かっています」
季里は答えた。
「でも、行かないわけにはいかないんです。私でないと、だめなんです」
「好きにさせてやりなよ、森本先生」
同じく戻ってきた美砂が、口をはさんだ。
「どうせ、一日や二日で、消える雪じゃないんだ。……ケンカはいつも、先制攻撃が基本だよ」
「お前さんと一緒にされてもな」
森本先生はため息をついた。
「だが、正論だ」
陣内が真顔で言った。
「ここで座っている間にも、状況は悪化する一方だ。どこへ行くのかは知らないが、悔いを残して滅ぶより、行きたい所へ行くのがいい。俺はそう思うね」
「うん。ありがとう」
頭を下げて、季里はマフラーを巻いた。
「美砂がくれたマフラー、とっても温かいよ。――行ってきます」
「行ってらっしゃい」
美砂はほほえんだ。
「でも季里、あんたが帰るのは、ここじゃないよ。あんたの『家』だ」
「うん。ありがとう」
季里もほほえみ返して、司書室を出た。
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