第5章 更紗 【2】
……それからの記憶は、ぼんやりとしている。
気がつくと季里は、学校のそばの小さな公園にいた。ここも、不思議と雪は積もっていなかった。
ベンチには、見覚えのある中年男が座っていた。うつむくでもなく、どこかをにらむでもなく、ただ、少しくもった表情で、ただ座っているのだった。
「こんにちは」
季里が声をかけると、ゆっくりとこちらを向いた。
「ああ、いつかのお嬢さん……ですか。申しわけないことに、ほとんど覚えていないんですがね」
「ずっと、そうしているんですか」
「ええ。たぶん――いや、私には、私のするべきことが分からないんです。それが分かるまでは、ここにいます」
「するべきこと……仕事ですか?」
「そうですね。自分が、この世界で持っている役割りということですよ」
「役割り――」
「あなたはまだお若いのだから、それは決まってはいないんですよ。けれど、何か夢をお持ちではありませんか。こんなものになりたいという」
季里は考えてみた。
「ひとから、樹を植える仕事をしたらどうか、って言われたことがあります」
「ああ。それはいいですねえ」
「でも私は、何になるよりも、このままでいたいんです。――私は、空をながめるのが好きです。季節がすぎていって、雲の色がいろいろに変わったり、草や樹が姿を変えていく、そんなものを見るのが好きです。見ていて、すこしだけ詩みたいなものを書いたりしますけれど、何もしないで、ただながめているのがいちばん好きです」
「それも、いいことですよ」
男は深くうなずいた。
「神さまは、この世界を、すべて美しいものに作られました。それを見て、美しいと思うものにこそ、神さまは愛を与えるのですよ。……あなたの詩を、ひとつ聞かせてはくれませんか」
季里は恥ずかしかったが、小さな声で唱えた。
冬が街から色を奪っていった
わたしはひとりで 白い絵の具を持って行く
けれどスケッチブックを忘れていた
「まだ、ここまでなんです。うまくことばにできなくって」
「そうですね。自然は、景色というものは、ことばにするのがむずかしい。でも、いいじゃありませんか。あなたも世界の一部なのだから、それを知っていれば、あなたはまちがってはいません」
「あの……寒くありませんか」
「あまり感じないんですよ。いつも、そうなんです。あなたこそ、お気をつけて」
「ありがとうございます」
頭を下げると、季里は公園を出て行った。
「世界の一部、か……」
男はつぶやいて、また、考え始めた。
そのころ恭司は、立ちすくんでいた。
タクシーで駅まで来たものの、すでに上りの新幹線は満席で、立ってもいいから乗りたい人びとで、行列ができていた。
だが、乗り切れる人数とも思えなかった。
「甘かったか……」
つぶやいたその視界に、思いがけない人が入ってきた。
「相沢くん? やっぱり、相沢くんだ」
加野湘子は、懐かしそうに笑いながら、近付いてきた。
「ああ……加野か。体の具合はいいの?」
「おかげさまで。ずいぶん、元気になったんだよ。……水淵さんは?」
「東京にいるよ」
「そう……私も東京へ行くところ」
「こんなに混雑しているのに? ニュースは見なかったのか?」
「相沢くんこそ……むりだよ。これが最後の列車になるかも知れないっていう話だもの。それも、よくて大宮ぐらいで後は行けない、っていううわさだよ。もう乗車率、二百パーセント以上だって。座れるわけないし、立ってでも、入れるかどうか分からないじゃない」
「そうらしいね。でも、行ってみないわけにはいかないんだよ」
すると湘子は、小さく『あっ』とつぶやいた。
「水淵さんに会いに行くの?」
「――ああ」
「そうか……」
湘子はうなずいて、
「じゃ、これ、あげる」
恭司に手渡されたのは、東京行きの乗車券と指定券だった。
「こんな大事なもの、もらうわけにはいかないよ」
「いいの。私はただ、帰省する予定だった、っていうだけで、帰るのはいつでもいいんだし。季里のそばに、いてあげなくちゃ」
「ありがとう」
恭司は、切符を受け取った。
「相沢くん」
「うん」
「水淵さんに逢ったら、絶対に離しちゃだめだよ」
真剣な表情で、湘子は言うのだった。
「……私、いろんなことを思い出したの。友樹のこととか、水淵さんに助けてもらったこととか……いろいろ。今は私、感謝してる。でも、水淵さんはうらやましいな。相沢くんがいて」
「ああ、その……すまない」
「そんな顔、しないの」
湘子は笑った。
「あなたたちは、ふたりでひとりなんでしょう? だから、こんなときだから、一緒じゃないといけないの」
「ああ」
恭司は深くうなずいた。
「ありがとう」
「気をつけてね」
それだけ言うと、湘子は人混みの中を去っていった。
「加野……ありがとう」
再び頭を下げて、恭司は人混みをかき分けて、改札口へと向かった。
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