第5章 更紗 【1】

 一月一日の朝が来た。

 季里は、白い縫い取りのある赤い毛糸の帽子をかぶって、オーバーを着て、毛糸のミトンを手にはめた。首には、美砂からもらったマフラーをぐるぐる巻きに巻いた。

 ゴム長で勝手口から外に出ると、外は氷のようにぴんと張りつめた、冷気だ。顔が痛くなる。

 しばらく、こんな寒さを忘れていたので、季里はちょっとためらったが、静かにドアを閉めて、歩きだした。

 道は、昼のうちに溶けた雪の表面が凍って、つるつる滑る。そこに、いまだ止まない雪が降り積もって、氷を覆い隠している。うかつに歩くと、露出していない氷に足をとられる。転倒することがないように、ゆっくり歩いて行った。

 更紗が家にいるか、あるいは学校にいるかどうか、何も分からない。けれど、会わなければ――と季里は思った。

 この異常な冬と、更紗との間に、何かの関係がある、と考えるのは、他人から見れば、ばかげているだろう。けれど、季里の直感が告げていた。

(この雪は、更紗のせい)

 そうだとしたら、止められる可能性がわずかでもあるのは、季里しかいない。季里は、そう信じていた。


 更紗は、逝川高校の校庭にいた。

 凍るような寒さを感じないのか、ジャージの上下にスニーカーで、いつもなら野球部が使っている場所の、ちょうどマウンドの所に立って、何かをつぶやいている。誰が除雪したのか、校庭には積雪がなく、ほんのわずかな粉雪が、地面に触れるとそのまま解けていくのだった。

「更紗、何してるの?」

「セリフの練習よ」

 更紗は、振り向きもせずに答える。

「人間は常に神の前で間違っています……。神が人間に対して同じように間違っている時でも、間違っているのは人間なんです。カフカがそう言っていますよ。――人間は、間違っていませんよ……。たとえ神の前で、人間が間違っている時でも、人間は間違っていないんです……」

「神さまの話?」

「うん。別役実、『マザー・マザー・マザー』。面白いの、とっても」

 ふいに顔を上げて、更紗はたずねた。

「季里はどう思う? 神と、人間と、どっちがまちがっているのかしら? 世界は、まちがっている? いない?」

「……よく、わからない」

 季里は、首をかしげた。

「それ、いつ、上演するの? 更紗も出るの?」

「出やしないわ。私は、プロンプター。幕の後ろから、セリフを教えるの。ささやくのよ、神のことばをね」

 今日の更紗は、いつもとちがう。

「私、きっと、舞台に立つことはないわ。それでもいいのよ。私が主役を演じる時が、もうすぐ来るんだもの」

 更紗は、うっとりとして言った。

「ねえ、うちへ遊びに来ない? 両親に紹介したいの」

「いいけど……」

 その家までたどり着くような道があるのか、更紗はそんなことも気にしてはいないようだった。


 そして、それは正しかったのだ。

 高校の校庭から更紗の家にたどり着く、幅にして人ふたりがかろうじてすれ違えるぐらいの道が、誰かが雪をかいたかのように、続いていた。地面は見えないが、だからこそ、誰がどうやって道を拓いたのか分からなかった。

 もし、土木関係の車両が除雪したのなら、こんなに細い道にはならない。人が歩いて踏み固めたのなら、積雪の速さについていくことはできないだろう。更紗が神さまかどうかは知らないが、何かの『力』を持っているのかもしれない……。

「あっ、ここだよ」

 玉川上水沿いの――いや、その上水すら雪にふさがれて雪道になっているが、そのそばにある、一軒のアパートの前で、更紗は足を止めた。

「気をつけて降りてね、季里」

 アパートの入り口は、階段状に雪がかいてあり、アパート全体も、雪からは逃れていた。……なぜ?

 季里は、ずっと続いている疑問を、更紗にぶつけてみた。

「更紗。どうやって、こんなに雪かきしたの?」

「だから、言ったでしょう。私は神さまだ、って」

 更紗は明るい笑顔で答える。けれど、季里にはその笑顔が、――本人にはとても言えないが、無気味にしか思えなかった。

 更紗は、二階建てアパートの二階へ、鉄板の階段をとんとん……と登って行った。

 やがて、一番奥の部屋まで来ると、ドアを開けた。

「ただいまー。季里、入って」

「おじゃまします」

 頭を下げて、季里は家へ入り、――凍りついた。

 更紗の家は、玄関を入るとすぐ、DKになっていた。そのダイニングのテーブルに、向かい合っている『ひと』がいる。

 陶器のピエロと、ガラスのバレリーナだ。それぞれ、椅子にだらん、ともたれていた。

「これが、お父さん」

 更紗は、陶器のピエロを指した。

「で、こっちが、お母さん」

 『お母さん』は、ガラスのバレリーナだった。

「季里だよ。オトモダチだよ。さあ、ふたりとも何か言って。言ってよ!――もう、ほんとに気がきかないんだから」

 更紗はいらいらしたように、二つの人形を、テーブルの上から払い落とした。

 ――『両親』が、砕けた。

「ごめんなさいね、季里。こんな親で」

 更紗は、すまなそうに微笑んだ。

 季里は、ぞっとしながら、立ちすくんでいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る