第4章 死にゆく街 【1】

 大晦日までに、雪は四メートル、降り続いた。


 その頃になると、府中街道のような幹線道路は別にして、商店街のような細い道では、もう、積雪を取り徐くことは、あきらめないわけにはいかなかった。ブルドーザは、雪をどけては、近所の学校に運んでいたが、しだいに多くなる積雪に、作業が間に合わなくなったのだ。かろうじて、人が踏み固めた細い道があるだけだった。

 喫茶『ねむ』では、十二月二十九日の内に、紘史が板を買ってきて、外側から窓に打ちつけて、ガラスが割れるのを防いだ。店のドアの前は、かろうじて除雪していたのだが、外の、人が踏み固めた細い道からドアに降りるには、一メートル以上の段差を降りてこなければならず、事実上の開店休業だった。

 それでも、毎朝、紘史は開店の準備をし、季里は朝食を作った。そして、店に細野晴臣の『泰安洋行』や、シュガーベイブの『SONGS』を流した。どちらも、夏の盛りに似合うような曲だった。

 ふたりは、自分たちなりに、闘っていたのだ。――暴虐の冬に。

 大晦日の夜、店を閉めると、雨戸を閉めて、紘史は台所で、紅白歌合戦を流しながら、雑煮を作った。店の冷蔵庫も合わせると、一週間ぐらいの食料の買い置きはあった。客が来ることは、もう、あきらめなければいけないようだった。それより、自分たちの命を守ることのほうが大事だ。

 紅白歌合戦の途中、季里が名前を知らない女性の演歌歌手が歌を歌っている途中で、画面にテロップが入り、映像は、スタジオに代わった。男性のアナウンサーが告げた。

『番組の途中ですが、首都圏の降雪情報をお知らせします』

 季里は、緊張した。こんな放送は、見たことがない――。

 画面は、NHKホールの周りを映し出した。ブルドーザやロータリー車、モーターグレイダーなどで、ホールの周りの雪をどけていたが、雪があまりにも降りしきるので、たびたび視界がさえぎられた。

『画面に映っていますのは、渋谷、NHKホールの周囲の映像です。現在、関東一円の土木事務所、自衛隊などが除雪を行なっております。気象庁発表では、一日の積雪量は一メートルを超えており、全体の積雪量は、推計、五メートルになっております。……気象庁は、落ちついて行動すること、家の窓などを保護するよう呼びかけています』。

「落ちついて、か……」

 紘史は、苦々しそうに言った。

「こんなところで、落ちついて死を待て、って? 冗談じゃない」

「紘史兄さん。兄さんは、死ぬ、って思うの?」

 季里がきくと、紘史は首を振った。

「雪が十センチで、電車が動かなくなるような土地だ。しかも、まだ雪は、止んじゃいない。家を守って討ち死にするか、いったん退却してことが収まるのを待つか……戦国武将の評定みたいだな」

「でも、どこへも、退却、できないんでしょう」

「交通の状態を見てみよう」

 ふたりがテレビを見ていると、ふいに、画面には何も映らなくなった。

「アンテナのせい、かな」

「そうかも知れないな。ラジオはどうだろう……」

 紘史は恭司の部屋からCDラジカセを持ってきた。

 ラジオのAMだけは、かろうじて放送されていた。

『……すでに、北区、葛飾区、江戸川区の一部では、停電が広がっており、住民は、不安な夜を迎えております。気象庁の発表によりますと、まだ数日は一日一メートル程度の積雪がある見込みで、都内の全交通機関は、大幅に停止しています。東京都は、近隣の県に協力を求め、また、自衛隊への出動要請を出しておりますが、積雪量が予想を遙かに超えているため、車両の通行は難しく、急を要する世帯へのヘリによる救援も、雪によって天候が荒れているため、極めて困難です。都民の皆さん、出火などにはくれぐれもお気をつけ下さい。繰り返します。現在、東京都内で、五メートルの積雪が観測されております。それに伴い、交通機関は大幅に停止しています。地域によっては、徒歩での買い物や避難は、困難な状態です。東京都は、住民に出かけないよう呼びかけています。また、地上波テレビの放映や、一部の地域でのスマートフォンの使用も、できなくなっております』

「こういうときの『一部』は、信用できないな」

 紘史はスマートフォンをかけようとした。

「だめだ。圏外になってる」

「どうして携帯電話が止まるの?」

 季里の問いに、紘史は苦々しそうに言った。

「携帯には基地局というものがあるんだよ。そこが雪にやられると、通信はできなくなる。誰に文句を言っても始まらない。固定電話のほうはどうかな」

 台所の隅にある電話の受話器を、紘史は取り上げ、ボタンを押した。しばらく聴いていたが、あきらめたように受話器を置いた。

「回線がつながらない。電話線が切れたらしい」

「五メートルなんて、青森でも、めったにないね」

「まあな。酸ヶ湯の辺りなら、年中行事なんだが、あそこは山だ。街なかでは考えづらいな。とりあえず、電気とガスがあれば、生きていけないことはない」

 紘史は自分の部屋へ行き、何かの道具らしい物を持ってきた。

「電池の充電器だ。今のうちに、できる限り充電しておこう。ガスはボンベがある。後は、風呂場に水を溜めておくのもいいかもしれないな」

「水道も?」

「どこかで、水道管が破裂するかもしれない。井戸も埋まってしまうかもしれない」

 そのときになって、初めて季里の胸に、心配がこみ上げてきた。紘史とふたりで、この冬を乗り越えられるかどうか――。

(恭司、どうしているかな)

 もしここに恭司がいても、事態は、変わらないだろう。けれど、心細くなっているのは、事実だ。

 冬の前には、季里は、無力だった。


★第四章の2


 青森でも、紅白歌合戦は中断され、東京の豪雪のようすが中継になった。

「五メートル……」

 恭司は、つぶやいた。

 あの街が、あの店が、あの家が、……季里たちが、雪に埋もれようとしている。それも、『歴史上類を見ない』豪雪に。

 恭司は『ねむ』に、電話をかけてみた。お話中が続くだけだ。

「冗談じゃないぞ」

 恭司はつぶやいた。

「何をしている」

 気がつくと、父親がこちらを見ていた。

「東京には、友だちがたくさん、いるんだ。心配しないほうがおかしいじゃないか」

「それで、うまく言い抜けたつもりか」

 父親の目は、厳しかった。

「お前を東京にやったのは、紘史のようすを見させるためだ。水淵さん家の娘に……」

「それ以上言ったら、俺にも覚悟がある」

 恭司も父親をにらみつけた。

「汚いよ、父さんも母さんも。季里と俺は、なんでもない。あそこには、俺の新しい家があるんだ。俺はもう、ただの子どもじゃない。ひとりの、人間だ。なんでそれを、分かってくれないんだ」

「生意気な!」

 声と共に、拳が飛んできた。恭司は床に吹っ飛ばされた。

 それでも恭司は、鋭い視線を外さなかった。

「あんたには分からない。永遠に分からない。俺たちはみんな、お互いを必要としているんだ。男女がどうとか、兄弟がどうとか、そんなことは関係ない。俺たちは、新しい家族を作ったんだよ」

 言うなり恭司は、二階の自分の部屋へ入って、鍵をかけた。

 バッグから財布を取り出した。お年玉代わりに紘史がくれた金と、自分の貯金の一部が入っている。青森から東京までの電車賃は、充分にあった。

「父さん。あんたの考えが、全部まちがっている、と思っているわけじゃない。それでも俺は、行かなきゃいけないんだ。自分のために」

 準備がすむと、ダウンジャケットを着込み、帽子をかぶって、バックパックを背負い、玄関へ降りた。父親は怒りのあまり寝てしまったらしく、物音ひとつ、しなかった。

 静かに戸を開けて、外へ出ると、星が明るかった。青森の積雪は五十センチ程度だ。恭司は表通りへと出て、タクシーを捜した。ようやくつかまえると、車内にすべり込んで、運転手に告げた。

「新青森駅まで、お願いします」

「この時間は、新幹線はないですよ」

 津軽弁のイントネーションで運転手が言った。

「分かってます。朝一番から、空いている新幹線に乗りたいんです」

「どちらまで」

「東京です」

「それなら運休ですよ。東京の雪がひどいせいで」

「どの辺までだったら、行けるでしょう」

「仙台までは、大丈夫そうだけど、詳しいことはまだ……決まっていません」

「とにかく、行ってみます。行かなくちゃならないんです」

 恭司はそれ以上は言わなかった。


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