第3章 ちいさなかみさま 【2】
『ねむ』に帰ると、お客さんはいなかった。紘史がひとり、暇そうに店番をしている。
「紘史兄さん、替わる?」
季里の問いに、紘史は首を振った。
「今はいい。夕飯の支度は頼む」
「うん」
うなずいて、カウンターから住宅のほうへ入ろうとすると、紘史が声をかけた。
「季里」
「なあに」
「いないといないで、なんだか気が抜けるもんだな」
「恭司のこと?」
「他に誰がいる」
「三が日が終わったら、帰ってくるんでしょう」
季里のことばに、紘史は複雑そうな顔をした。
「どうしたの」
「気のせいなんだが……恭司が戻ってこなかったときのことを考えて、な」
言われてみると、それもおかしくはなかった。
恭司は、実の親の許へ帰ったのだ。ここにいることのほうが、『不自然』なのだ。
「わがままは、言えないね」
「ああ」
「だけど私は、恭司が戻ってくる、って思うよ。だって……」
そこで、季里は絶句した。
『私がここに、いるんだから』
それは、言えない言葉だった。言ってはいけない、とも思った。
「どうも、雪が降ると、弱気になるな」
紘史はため息をついて、
「とりあえず、俺たちが心配しなきゃならないのは、この天気だ。あしたの朝は、早起きして雪かき、ってことになるだろうよ」
「そうだね」
すでに外は、二センチ近く、雪が降り積もっていた。雪国では分からないことだが、東京ではこのぐらいで、交通に支障が出るのだった。
その夜、季里は恭司の部屋へ行って、CDラジカセを借りてきた。
自分の部屋で音楽を聴くのは珍しかった。外があまりに静かすぎて、その静かさに、どうしても我慢ができないのだった。
遊佐未森の『HOPE』をかけながら、季里は『ミステリー・ウォーク』を読み始めた。
だが、窓の外で風が吹き抜ける音がして、そのせいで、夜はいっそう深く静かに感じられる。
――誰かが窓を叩いたような気がした。
目を上げて、カーテンを開けたが、誰もいるはずもなく、ただ夜の樹が風に吹かれているだけだ。
ふっ、と季里は、少し前に、公園で出会った男のことを思い出した。
「あの人、どうしたかな」
そう、つぶやいた。
その頃、公園には人影があった。
――あの、男だ。
「雪か……」
自分の肩や、ベンチに座った足に、雪が降りかかるのをなんとも思わないように、男は天を仰いだ。
水銀灯に、降る雪が照らし出されている。
「耐えられるかな、この雪に」
男は言って、誰にも分からないことを、また考え始めた。
――自分は、誰なのか――。
答を、風がさらっていくようだった。
次の朝、季里はこたつの中で、目が醒めた。
本を読みながら、眠ってしまったらしい。なんだか少し、だるいような気がした。
こたつから出ると、部屋の中はぴん、と張り詰めた寒さだった。昨日とは、明らかに違う、冬だった。
カーテンを開けた。雪が屋根に積もっている。東京では見たことのない、大雪だ。
着替えをして、DKへと降りた。紘史が腕組みをして、テレビを見つめている。天気予報だった。
『大陸からの湿った低気圧は、勢力を増しながら、首都圏の上空に居座っています。年末年始にかけて、歴史的な豪雪が降る可能性があります』
「もう、遅いんだよ」
苦々しい、という表情で、紘史が言った。
「どうしたの? 紘史兄さん」
「ドアが開かない。勝手口も、店のドアも。ひと晩で積雪八十センチだそうだ」
「えっ……」
それは、生まれ故郷の青森でも、都市部ではあまり起きない豪雪だった。
窓の外を見る。たしかに雪は、DKより二段高い勝手口より、ずっと高く積もっていた。そして、――まだ雪が降っている。冷え切った空気がぴんと張りつめて、空も、地面も、白一色だった。
雪は、空の寒さを表わして細かく、とても速く静かに、地上に落ちてくる。
「どうしよう」
「まあ、二階の窓から出て、物置の雪かきを出して、とりあえず、天井の雪かきだな。東京でこの雪じゃ、建物がつぶれるか知れやしない。あとは、店の側のドアが開くようにしよう。道路はまだ、つぶされていないようだからな」
「私は何をしたらいい?」
「そうだな。とりあえず、朝飯を頼む。俺は庭のようすを見てくるよ」
「――うん」
他に、できそうなことは、ない。
季里は冷蔵庫を見た。白菜があったので、それで味噌汁を作ることにした。
鍋にお湯を沸かしていると、どさっという音と共に、窓の外に紘史が飛びおりて来た。プールの中を歩くようなかっこうで、手で雪をかきながら、物置に向かっていく。苦労して物置へとたどり着くと、扉をしばらくがたがたと揺すっていたが、なんとか開けた。
紘史は物置の中から、先がとがっていなくてプラスチック製の雪かきを出して、また苦労して、勝手口へと雪をかいて近づいてきた。
季里が朝食を作って、テーブルに並べてから少し経って、勝手口のドアが開いて、ダウンジャケットを着た紘史が入ってきた。
「支度、できたよ」
「ああ。これから屋根へ登るんだが、先に飯を食おう」
ふたりはテーブルについた。
「もう八時か」
「お店、開けるつもり?」
「開けられればな」
紘史の表情は、仕事の顔になっていた。
「かろうじて、車道は通れるようだ。寒いときには、お湯の一杯でも、温かいものが欲しい人が通るんだよ。うちには井戸があるし、いざってときは、ほんとうにお湯だけでも出すのが、喫茶店の役目だろうよ」
季里はうなずいた。
「私、手伝うね」
「宿題があるだろう」
「お客さんが来なかったら、カウンターで、宿題はできるから。もし、うんとお客さんが来たら、手伝うのは当然でしょう」
「……そうだな」
紘史が何を考えているのか、季里には分かった。
「青森も、雪かな」
「たぶん、な」
「恭司もたいへんかな」
「向こうは除雪車が回ってくるから、そんなにたいへんじゃないだろう。屋根雪は、気をつけなきゃいけないが」
「……紘史兄さんは、帰省しなくていいの?」
すると紘史は、季里を見つめた。
「季里。俺の家は、ここなんだよ」
「――うん。私も、ほかに帰る家はないよ」
では、恭司は……言いかけて、季里は、やめた。
季里が、わがままを言うことは、できないのだ。
かろうじて、言った。
「戻ってくるときには、降ってないといいね。雪」
「こういう気持ちは、雪国の人間じゃないと、分からないかもしれないな」
紘史は苦笑いした。
「まあ、分かってもらうほど、降られても困るが」
「そうだね」
季里は微笑んで、しかし、何か不安を感じていた。
いくら異常気象とは言っても、こんなに雪が降るなんて――。
ひどく、いやな予感がした。
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