第2章 その人たちには特別な日 【3】
……いや、ひとり足りない。
「更紗は?」
たずねると、恭司が答えた。
「何か思い出したみたいだよ。出ていったままだ。……そろそろ始めよう。遠賀が来たら、また乾杯すればいい」
言ったとき、ドアベルが鳴って、当の更紗が入ってきた。後ろから、森本先生がのそっ、と姿を現わす。
「よかった、間に合って」
更紗が顔をほころばせた。
「森本先生を、呼んできてくれたの?」
季里がきくと、首を振った。
「別の用事があったの。途中で先生のこと思い出して、誘ってきちゃった」
「たまには、外へ出るのも、悪くない」
森本先生はうなずいた。先生は、図書館の司書になってから、ほとんど外へ出たことがない――らしい。
「それじゃ、始めようか」
恭司が言い、みんなが季里の周りを取り囲んだ。
『ハッピーバースデー』を歌い、季里はケーキに立った十七本のろうそくの火を、吹き消した。紘史があぶった鶏肉を切り分け、シャンパンソーダを美砂が注いで回った。絵に描いたような、誕生日だった。
「さあ、後は、陣内の仕切りだね」
美砂に言われて、陣内が立ち上がった。
「じゃあ、まずは俺から。……おめでとう、水淵」
小さな包みを、陣内は季里に手渡した。
「開けてみて、いいの?」
「もちろん」
すました顔で、陣内が答えた。
包みを開けてみると、中から出てきたのは、本のしおりぐらいの大きさの、箱だった。さらに開けると、何かの機械が入っていた。
「MP3プレーヤだ」
陣内は言った。
「パソコンを使って、音楽を聴ける。使い方は、兄貴にきいてくれ」
「いいの? こんな――」
「試作品だ。つまり、ただなんだよ」
平然と陣内は言って、眉を上げた。
「あたしはこれ」
美砂は、手提げ袋を渡した。温かそうな茶色のマフラーが、入っていた。
「――美砂が編んだの?」
「そこまで器用じゃないよ。前に見かけて、季里には似合うだろうな、と思って、買っておいたんだ。迷惑じゃない?」
「うん。とっても温かそう。ありがとう」
「次は俺かな」
森本先生は封筒ほどの紙包みをくれた。中からは図書カードが出てきた。
「俺は、これで」
恭司がくれたのは、ゲスの極み乙女。の新譜だった。
「店じゃなく、部屋で聴けるように」
「あまり、支度する暇がなかったんだけどな」
紘史が言って、カウンターの奥へ入ると、一杯のコーヒーを淹れて、運んできた。
「コーヒー?」
「お前も、喫茶店の娘だ。そろそろコーヒーが飲めるようになったほうがいい。心配するな。カフェインは入ってない。動悸がすることはないと思うがね」
「……うん」
季里は、少し気後れがしたが、コーヒーに口をつけてみた。驚くほど香りがよく、ブラックなのに、ほのかに甘かった。
「おいしい……ありがとう」
「いつか、普通のコーヒーが飲めるときがくるさ。慣れだ」
「うん」
季里は、胸がいっぱいになった。みんな、季里のことを考えてくれる。
「僕は、申しわけないんですけど……」
ビデオカメラを回していた杉山が、すまなそうに言った。
「映画で金欠なんで、このビデオテープでいいですか。ちゃんと編集して、音楽をつけて渡しますから」
「気にしないで」
季里は微笑んだ。
「最後は私ね」
更紗が言って、
「これ……プレゼント」
恥ずかしそうに、細長い箱を渡した。
ペンダントだった。銀色の小さな十字架が、鎖にぶら下がっている。
「季里に、似合うと思って」
恭司たちが、微妙な顔つきになった。
「ありがとう。うれしい、とっても」
更紗が気を悪くしないように、季里はすぐにペンダントを首から提げた。
「でも、いいの? 高いものじゃないの?」
「角のリサイクルショップで買ったから」
ふっ、と更紗は笑った。
「私、知ってるんだ。季里って、Kyrie【キリエ】から来ているんでしょう?」
「なんだって?」
美砂が首をひねる。
「そうだよ、更紗。――あのね、Kyrieっていうのは、『主よ』っていう意味。お母さんが、キリスト教徒だったから」
口に出すと、少し、胸が痛んだ。
それでも季里は、笑顔で言うのだった。
「大切にするね。更紗の誕生日には、私から何か贈らせて」
「うん。私こそ、ありがとう」
言った更紗は、窓の外を見て、歓声を上げた。
「見て、雪!」
窓の外には、東京では今年初の、粉雪が舞っていた。
……店の中の空気が、重くなったようだ。
「どうしたの? みんな」
「なんでもないよ」
早口に、季里は言った。
いつかは更紗にも、話さなければならないだろう。自分の過去を。
けれど、いまは、このままでいい。
「ケーキ、食べるね」
季里はケーキを口に運んだ。少し、甘すぎるような気がした。みんなは平気で食べているから、これがふつうなのだろう……。
ケーキを飾っている粉砂糖が、季里には、雪のように見えた。
窓の外の雪が、風に吹き散らされている――。
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