第1章 イチョウがこわい
西からの乾いた風が激しく吹き続けて、空の色は青く、重くなっている。雲は、綿ぼこりのように軽く、小さく、空中を流れていく。
あまりに青い空は、かえって暗く見える。だが、空気が澄んでいるので、陽の光はいつもより強く地上を照らして、すべてのものが輝いて見える。
風は、樹々を通り抜ける。
小さな木の細い枝はコマ落としのようにせわしなく、大きな樹の高い梢はスローモーションのようにゆっくりと揺れ動く。それらの乾いた葉音が、吹き動かされては揺れ戻し、風の強弱に合わせてさわいだり、静かになったり――くり返す音は、海のように果てしなく響く。
耳のそばではボウボウと風を切る音が聞こえて、足元を大きな枯葉がカサカサと走り過ぎていく。
秋の終わりの風と樹が、くっきりとした光景の中で激しくぶつかり合う中を、同じ歳かっこう、同じ制服を着た少女が二人、吹き流されそうに歩いていた。
「すごいね。もう、すぐ、冬だね」
水淵季里は、圧倒されたような声をあげた。
もうひとりの少女は、黙ったまま歩いていたが、前方の並木を見て、ぴたりと足を止めた。
「どうしたの?」
季里がたずねると、少女は青ざめた顔で、首を振った。
「こっちの道はだめ。ほかの道にして」
「だめ、って?」
「イチョウなの。イチョウの樹が、こわいの」
ほんの数十メートル続く並木道を、地獄への入口のように恐ろしそうな目で見て、少女――遠賀更紗〔とおが・さらさ〕は答えた。
「なにか、わけでもあるの?」
季里の問いに、更紗は、また首を振る。
「分かんない。でも、……季里は平気なの?」
「うん。だって、樹は好きだよ」
「ちがう。イチョウは、ただの樹じゃない。生きてるみたい。――動物みたい」
季里にはよく分からなかった。
けれども、風にざわめくイチョウの樹を見ていると、たしかに他の樹とはちがう。風にただなびいているのではなく、身をよじり、天に叫び声をあげているかのようで、生ぐさいような生命感があった。
「じゃあ、ほかの道を行こうね」
季里に言われて、更紗はほっとしたような顔になった。
「ごめんね、勝手なことばっかり言って」
「ううん」
季里は微笑んだ。
「きらいなものって、みんなそれぞれだもの。それに、遠まわりするの、好きだよ」
「よかった。季里といっしょで」
更紗はうれしそうに言った。★
二人は、近くの公園のベンチでひと休みした。
並んで座ると、同じ高校の制服を着た二人は、歳の近い姉妹のように似ている。小柄で、やせていて、こわれそうに見える。ちがうのは、目と、髪だ。季里はショートカットで、目が大きく、視線が強い。更紗の髪は茶色でふんわりしていて、目つきが弱々しい。
「日曜なのに、誰もいないね」
季里が、見回して言う。
「いい天気だから、みんな出かけちゃったんだよ、きっと」
更紗は答えた。
それでも、離れたところにある学校のグランドからは、野球をしている人の声が聞こえた。
「ねえ。あの人――」
更紗が指さした。
向こうの隅のベンチに、うずくまるように腰をおろした、男の姿があった。髪は白いが、中年だろう。くたびれたカーキ色のジャケットを着て、体格はがっしりとしているが、何か深刻なものがのしかかっているように、肩を落としていた。
「ずっとあそこにいるみたいだよ」
「見たの?」
「うん、前にも」
更紗はうなずいた。
「まだイチョウの葉が青いころ。おんなじジャケット着て、おんなじかっこうで」
「毎日、来ているんじゃない?」
「ううん、ずっとあそこに座っているんだよ、きっと。――聞いてみようか」
「聞くって?」
「何をしてるんですか? って」
「更紗がそうしたいのなら、きいてみたら」
「うん。行ってみよう」
更紗はベンチから立ち上がって、男のほうへ歩みだした。
「きょう、季里は?」
『ねむ』のカウンターで、天王寺美砂がきいた。
「デートだよ」
相沢恭司はコーヒーの豆を計りながら、平然と答える。
「デート? あの子が? 誰と?」
美砂がびっくりしてたずねると、
「遠賀更紗」
答えて、サイフォンの火を点けた。
「なんだ、あの子か」
美砂はあて外れ、という感じで、
「でも最近、ほんと、いっしょだね、あの二人。――淋しいだろ」
からかったつもりだったが、恭司はこたえたようすもない。
「別に。季里に初めて、友だちができたんだからね。いいじゃないか」
「すると、あたしとかは、友だちじゃないんだ」
「美砂はまた違うよ。何っていうのかな……」
まじめに考える恭司を押さえて、美砂はにこにこした。
「分かってるって。あの子たちって、なんて言うんだろ……ふたり、おんなじっていうのかな。そういう感じだよね。どこへ行くのもいっしょだし」
姉御肌の美砂は、どっちかというと季里のお姉さん役になっている。完全に対等というわけではない。
「いっしょ、って言えば……」
恭司がコーヒーを注ぎながら言った。
「遅いな、陣内。待ち合わせだろう?」
「バカ言わないでよ」
美砂は顔を真っ赤にした。
「あたしはただ、用事があって、で、どうせだったらお宅の店を繁盛させてやろうっていうんで、ここで会う約束に――」
「俺を呼んだかい?」
いつもの声と共に、陣内が姿を現わした。美砂を見て、
「どうした? 顔が赤いようだが――カゼか」
「なんでもないの。テーブル行こう、テーブル」
陣内をせき立てておいて、美砂は、恭司に小声で言った。
「言うようになったね、相沢。でも、調子に乗るんじゃないよ。あたしからかうと、あとがこわいの、知ってるでしょ」
「何とでも。今までのお返しさ」
恭司は余裕を見せて、笑い返した。
このごろの季里は、ひとりで、あるいは更紗と共に行動していても――つまり恭司といっしょにいなくても、危なげがなくなった。
それは季里が少しは大人になったということでもあるのだろう。しかし、恭司自身の心の変化もあるだろう。いつでも季里を見ている恭司、ではなくなりつつあるのだ。
恭司は高校二年。「それはそれとして」の季節を迎えようとしているのだった。
人間関係、趣味、人生の意味……人に必要なすべてのことが、「それはそれとして」の大きな段ボール箱にしまわれてしまい、ただ一つの、小さな点だけが目標として示される。つまり、勉強さえしていればいい、そうでなければならない季節に、恭司はいるのだった。
季里のことも、半分は、段ボール箱の中だった。
「何、してるんですか?」
公園の一角で、更紗は、男にたずねた。
男は、ゆっくりと顔を上げる。
「私に、かまわないでくれませんか」
「どうして?」
「私は誰にも、話しかけられたくないんです」
「でも、それなら、こんな公園にいるのは、まちがっているじゃない?」
「まちがっている……そうでしょうか。そうかもしれない。でも、ここは――」
男は、あたりを見回した。
「ここが、私の場所なんですよ。ここ以外に、私の行く所はないんです」
「おじさん、家がないの?」
「ええ。家も、家族もありません」
かわいそうね、と更紗はつぶやいた。
「寒くありませんか?」
季里がきいた。
男はうっすらと微笑して、
「寒さや暑さは、じっとしていれば、いつか通りすぎてしまいます。気にすることじゃありませんよ」
それから、季里にたずねた。
「お嬢さん。あなた、帰る家はあるんですか?」
「家族はいないけど、帰るところはあります」
季里は答えた。
「そちらのお嬢さんは?」
「私は、家も家族もあるわ」
更紗が答えると、男はその目をじっとのぞきこんだ。
「本当ですか?」
更紗は、とまどったような顔をした。
「どうして、そんなこと、きくんですか?」
「いや」
男は首を振った。
「ただ、なんとなく……あなたもひとりぼっちのような気がしたものですから」
「そんなこと、ありません」
なぜか、更紗はむきになって答えた。
「行こう、季里」
急にずんずん歩きだした更紗を、季里は、追う。
「どうしたの?」
「なんでもないわ。失礼よ、あんなこと言うなんて」
「そうかなあ……」
「そうよ。私の家のことなんて、誰にも言わせやしないわ。そうだ」
更紗は振り向いて、
「今度、うちに遊びにきて。家族に紹介するから」
「うん……」
答えながら季里は、どうして更紗が気を悪くしたのか、ふしぎに思っていた。
それは、十一月のよく晴れた日曜日のことだった。
その日の青空を、季里は一生忘れないだろう。
なぜなら、その日から、あの『冬』が始まったのだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます