水淵季里最後の事件「神の冬、花の春〔アヴェニュー〕」
早見慎司
序章
水淵季里は、生まれた時とても体が弱かったので、彼女の母親は、じょうぶに育ってくれるよう、神に祈った。そして、『祈り』という意味の名前をつけた。『季里』とはラテン語の『キリエ』――『主よ』という意味である。
季里の両親は、カトリック教会に属するキリスト教徒だったが、季里自身はその神を信じてはいなかった。
彼女が十二歳のとき、両親とたったひとりの姉は、自動車事故で亡くなった。それ以来、季里はますます神を信じなくなった。
ひとりぼっちになった季里は、姉の婚約者だった相沢紘司に引き取られた。紘司は東京の郊外で喫茶店を経営しており、季里と同い年の弟、相沢恭司が同居していた。
こうして季里は、高校二年になったが、神について考えることはあまりなかった。この冬が来るまで――。
――耳の先が、ちぎれるように痛かった。
長靴には厚いフェルトの中敷きが入っているが、つま先がちりちりと痛んでいる。
形あるものは何一つ目に見えない。ただ白い粒子が、猛烈な勢いで吹きつけてくるだけだ。
吹雪の中で、水淵季里は、一歩ずつそっと足を下ろし、その固さが自分の体重を支えてくれるかどうか、確かめながら歩いた。
急いではいけない。
足もとの雪は、厚いけれども柔らかく、表面は平らだが、その下のすべてを覆いつくしている。思いがけない穴や溝が隠されていないとは限らない。そうした吹きだまりにはまりこんだら、生命を失うこともあるのを、彼女は知っていた。
天も地も、白い闇で埋めつくされている。自分がどこへ向かっているのか、どれほど歩いたのか、ここはどこなのかさえも定かではなかった。
ごうごうと吹き荒れる吹雪の音の中で、ただ、何をしようとしているのかだけが、頭の中にあった。
――あの子を、捜さなければならない。
吹きつける風と雪の中では息が苦しく、大きくあえぎながら季里は歩いた。
やがて、ふいに、まったく突然に、白い闇がとぎれた。
世界の中でそこだけが、冬ではないようだった。むきだしの土が見え、上空から舞い落ちる雪は、その空間だけを避けているようだった。
★序章3
小さな公園である。
高さ四、五十センチの赤く錆びた鉄パイプに囲まれて、いくつかのベンチとブランコ、小さなすべり台。すっかり砂の固まってしまった砂場に、プラスチックのダンプカーが半分埋まっていた。
くずかごの横のベンチに、男がひとり、腰を下ろしていた。くたびれた背広姿の、やや小太りの中年男だ。頭にぺたりと貼りついた髪に白いものが混じり、その下の二つの目は、哀しそうな色をたたえている。背中を丸めてわずかにうつ向き、じっと座っていた。まるで誰かを待っているかのようだった。
公園に足を踏み入れた季里は、激しい風雪から解放されて、ほっと息をつき、オーバーのフードに積もった雪を、全身に吹き付けられた雪を、払い落とした。
ベンチの男は、季里が来たのに気づかないようすで、うつ向いたまま座っている。
「――まだ、いたんですか?」
季里が声をかけると、背は丸めたまま、顔だけを上げた。
「ああ。お嬢さん。『外』はひどい雪ですねえ」
「どうして、ここだけ雪が降っていないんでしょう」
季里は、尋ねるともなく、つぶやいた。
「どうやら私は、世界に取り残されているらしい」
男は哀しげに言った。
「それじゃ、まだ何も?」
「ええ。何も思い出せません。だから、こうして何も変わらないまま、座っているんですよ。あなたは?」
「私、友だちを捜しているんです」
季里が言うと、男は目を細めて、記憶を必死に探っているようだった。
「ああ。あの、あなたによく似たお嬢さんですね。近ごろ見かけない……いや、はっきりとは言えませんね。私はとにかく、すべてを忘れてしまうのだから」
「どうしても、見つけなければいけないんです」
季里は言った。
「何か、大事な用があるんですね」
「この冬を、終わらせなければならないんです。そのために、あの子――更紗を捜しているんです」
更紗〔さらさ〕、という名前を口にした時、季里はかすかに震えた。開いた口から忍び込む、寒気が体の中を凍えさせるのだった。
「見つかるといいですね」
男は心から、という調子で言った。
「あなたは、まだ、ここにいるんですか」
季里はたずねた。
「ええ。何か思いだすまではね」
男は言って、
「また、会えるといいです。お互いに、覚えていればの話ですが」
「私は忘れません――ぜったいに」
季里は答えた。
再び公園から歩きだそうとする季里に、男は声をかけた。
「お気をつけなさい。雪は、人の心も凍らせて、気持ちをくじけさせてしまう。そのことだけは、お忘れなく」
背中でうなずいて、季里はまた歩みだそうとしたが、ふと振り返って、たずねた。
「神さまがどこにいるのか、あなたは、ごぞんじですか」
「神さま……それは、何ですか」
男は聞き返した。
季里は、うっすらと微笑んだ。
「いいえ。なんでもありません。あなたは、しあわせな人なんですね」
季里は、歩み去った。更紗はどこにいるのかと思いながら。
そして男は、またベンチに腰を下ろして、神さまとは何かを、ぼんやりと考えていた。
男のわずかな記憶の中に、そのことばは見あたらなかった。
それは、ある年の東京に訪れた、ある冬の中でのできごとだった。
(この章、終わり)
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