〈4〉

 計画というのは往々にして立てた通りには行かないもので、そして歴史は繰り返す。

 そういうときのために足がある。俊足、それは何物にも勝る武器である——と、そんな格言があるかどうかは知らない。たぶんない。いま私が考えたもので、つまりこれから格言になるのだけれど、とまれ足の速さは猶予を稼いでくれる。昨日の逃走劇が好例だ。もし私たちにこの逃げ足がなければ、今日のこの再戦、その機会そのものが生じえなかったのだから。

 というわけで、いま私たちは逃げている。背後を飛ぶドラゴン、昨日と同じそいつに追われながら。

「何も進歩がないじゃないですかァ! なんなんですか! なんのための作戦会議です!」

 そんなことは知らない。ていうかお前だってなんか納得した感じになってたろオイ、と、でもそれを言うのはさすがに気が引けた。嘘ではないけど、でもアンフェアだ。あんな作戦会議とも呼べないような胡乱うろん駄弁だべりを、でもそれでよしと思わせるほどに彼の心を掻き乱してしまったのは、間違いなく私っていうか私の乳だ。そこそこでかい、そして形の良い自慢の双丘。実は結構自信のある部位で、ことあるごとに自分で見たり揉んだりしてしまうのもそのせいで、となれば彼が興味を惹かれる気持ちはとてもよくわかるっていうか、少なくとも私に責める権利はないよなぁと思うし反省もする。

 ——が。

 それにしたってあんまりっていうか、なにもここまで根本から瓦解しなくてもよくない? と思う。


 一夜明けてのこと。早速昨夜の作戦の通りにした私たちは、森を出た先、まずパリエの黒刀をすぐに見つけた。探すのにもっと手間取るか、なんならこういうのは二度と出てこなかったりするよなーなんて思ってたりもしたのだけれど、でも一目でわかるところにあった。

 柔らかい湿地の地面、まっすぐ垂直に——でもパッとそう聞いて想像するのとは逆向きに、つまり持ち手の部分を下にして刺さっていた。

 えっ何あれおもしろ、と私が笑って、なんか逆・伝説の剣って感じですねえとパリエも楽しげで、ふたりでわーいわーいと遠巻きに眺めていたところ、いきなり上からデカいのが来た。

 昨日のダークドラゴン。それが勢いよく、尻から着陸するみたいに、ぴったり例の黒刀の真上から。


 ——ギャオォォォォォォォン!


 湿地帯中に響き渡る咆哮。威嚇ではなく、明らかに傷を負ったときのそれ。怒りと激痛(たぶん)のあまり滅茶苦茶に吐き出される暗黒ゲボの、その雨あられから泣いて逃げ回る卑小な人類わたしたち

 やばい。なんだろう、とんでもないやつを無駄に怒らせてしまった。まだ別に何もしてないのに、でも明らかに私たちに非のある形で。

「パリエぇ! あれさ、絶対〝穴〟の位置だったよね? ストライクだよ、ットラィィッヤ!」

「やめッ——ップ、やめ、やめてください! その『ォライィィッ』っていうの反則ブフォア」

 息せき切って駆けている最中、すなわち酸欠によるランナーズ・ハイの只中。普段ならきっと何が面白いのかわからないであろう会話も、でもいちいちツボに入ってしまう。もはや完全におかしくなっていた私たちは、でもこのとき、まだ逆転の秘策を探していた。

 どうすればいい? パリエの黒刀、ちょいちょい失くしては「これがないと戦力としてはほぼゼロですから」と自虐する自慢の得物の、その回収はしかし失敗に終わった。ふたりで「これほんと定規で測ったみたいに垂直だね」「なんか勿体無いですね抜いちゃうの」とか言っている暇があったら、とっとと回収すればよかったのだ。一瞬の判断ミスが命取り、哀れ黒き魔剣はいまやデカブツの尻の中で、つまりこれの何がまずいのかというと、

「とにかく逃げ切れば済む、って線はもう消えたね。あの野郎、どこでうんちするかわかったもんじゃない」

 取りに行けないところにり出されても困る。必ずアイツをぶち殺し、そして尻の中から回収しなければならない。許さない。いや勝手に縄張りを荒らしまくった挙句、不可抗力とはいえ強制肛門破壊トラップまで仕掛けてしまったのは申し訳ないっていうかここまでほぼ百パーセント私たちが悪いのだけれど、でも知らない。

 知ったことか。

 私は、姫だ。〝真祖の大魔術師〟が末裔、「顔はいいけど性格がクソ」で知られる琥珀姫アリーサだ。

 巨竜ども、そこのけそこのけお馬が通る。姫が手前勝手なわがまま言い出したときは、周りは皆それに振り回されてひどい目に遭う、それが人の世の正道というもの。


「名もなき黒竜、まつろわぬ沼地の主に命じる! 我が愛しの従卒、王国最強の魔剣士パリエ・クインズロウの、その愛刀・黒創ヘモロイドを彼に返上せよ!」


 さもなくばその尻、その程度の傷では済まぬものと思え——堂々たる私の宣言に、でも「は? ヘモ、え、何? 初めて聞きましたけど?」とパリエ。そんなの知らない。勝手に浮かんだ。だって名前がないと締まらないじゃん、という私の言葉に、でも「名前が立派でも手元にないんじゃ余計締まらないでしょう?」と彼。

 その通り。いま必要なのは使える武器だ。私の手荷物には調理道具か山歩き用のナタくらいしかないし、彼の黒刀は敵の肛中。ギリギリ手元に残っているのはまずパリエの背、黒刀を収めていた鞘と、そして私の背にある、鞍とあぶみ

 そして、もうひとつ——いや、ふたつ。

「パリエ! 他でもないお前自身と、そして私——っていうか私の左乳首だァ!」

 ピンクの! とすぐ脇を走るパリエの襟首、無理矢理に掴んで引き上げる。そのまま後ろ手に放り投げて、鞍の上へと転がした。返事はまあ、思っていた通り。「いやです!」と、なんか本当に嫌そうな声。それは最後の手段だとか言うから、もう手段選んどる場合やないやろと言い返す。

 上体を倒し、膝に力を込め、そして静かに加速する。

 目指すは、真正面。小高い丘の上、一本そびえる古い巨木。背後から迫る黒竜が、いつ気づいてもいいように。動物的直感で危機を察知し、慌てて上空に逃れようとしても、射程距離から逃さないように。

「姫様! やめてください! 僕の黒刀なんかどうだっていい! 僕はその、これ以上、あの、とにかく無理です! こんなの、我慢が、もう……っ!」

 人の背中でわんわんうるさい従卒。うるさいので、ただ「うるさいうるさいうるさーい!」と一喝した。情けない男だ。まだ十三歳の子供と思えばまあ仕方ないけど、でも騎士ってのは姫を守るものだ。騎馬を駆り、槍を構え、悪しき怪物を打ち倒すものだ。

 一発逆転の最後の手段。正直、彼がどうしてこんなに嫌がるのか、私にはまるでわからない。想像もつかない、といっては言い過ぎだけれど、でもふんわり曖昧にぼやけている。やり方は知っていても、残る記憶はいつもおぼろげだ。

 いままで、パリエの話では半年に一匹ペースで遭遇しているというドラゴン。その記憶がいまいち曖昧なのは、最後に結局〝これ〟をやるからだ。持てる力のすべてを振り絞るおかげか、後々思い返しても浮かんでこない。ランナーズ・ハイの最上級、というとなんだか大仰だけれど、要は起きながら寝ぼけているようなものだ。

 あるいはもう、その状態に入っているのかもしれない。

「諦めろ! あとでいっぱいいい子いい子してやるから! ホレ行くぞォォ!」

 全速力。全力を振り絞った本気の走り。心臓がバクバクと脈打ち、下半身の筋肉は硬く膨れ、全身から汗が湯気となって吹き出す。そこかしこに浮き出る血管の、怒涛のように巡る血流が心地よい。そうだ。これが私だ。こうするために生まれてきたと、その確信が私の中、何か大きな扉を開くのを感じる。

 ああ——と、ようやく、思い出す。

 これだ。私の中に秘められた、ただひとつの力。

 革の胸当て、跳ねる心臓の邪魔をするそれを剥ぎ取り、そのまま大きく胸元をはだける。左胸、見慣れた王家の紋章の、その中心から発せられる淡い光。魔力。あるいは、それと似た何か。いずれにせよ、それは紛れもない力の奔流。上空の黒竜が、それに気づく。怯む気配と、体勢を変える予感。

 が。


 ——もう遅い。

 相手がただの人ならばまだしも、私の瞬足から逃れるには。


「行くよ。パリエ」

 囁くようにひとこと、それを合図に手が触れる。しがみつく。左胸に、背中の方から、片手で抱きつくようにして。もう一方の手は、見えないけれどでもわかる。構えているはずだ。槍の代わり、別になんでもいいのだけれど、唯一手元に残った黒刀の鞘を。

 駆ける蹄が、丘の上。

 に。

 聳える巨木の幹、派手な足音をばら撒きながら、天へと向けて、ただ真っ直ぐ。


「——ッダァァァアァァッ!」


 限界ギリギリまで駆け上がり、そこから後ろに向けて跳ねる。空の中、まるで飛ぶように弾け出す私。届く。ただでさえ大きかった黒竜が、視界いっぱいに広がる影となって、それでも——それなら、絶対に勝てる。

 必殺の間合い。左胸に触れた小さな手を介して、人馬かれとわたし一体ひとつになる感覚。


「パリエ! 行ッ——————けぇぇぇッ!」


「——ッああああぁぁぁぁぁっ!」


 裂帛の気合。青空を真っぷたつに裂く、王家特製の騎兵の槍。貫かれた巨大な黒竜が、天を震わす断末魔の悲鳴をあげる。一撃。まるでぶれることなく、まっすぐ竜の心臓を。

 剣の腕では負けないという彼の、その剣術を私は見たことがない。というか、わかる。これでも姫として稽古くらいは受けた身、彼の構えが全然話にならないことくらいは。彼に使えるのはせいぜい黒焔の魔術、そしてそれを放つための突きくらいのものだ。それと、逃げ足。どんなひどい足場でも、鮮やかに駆け抜けてみせる身体感覚。

 思い出す。思い出した。毎回、竜殺しを果たすたび、このタイミングで気づいたことを。


 ——この男、生まれついての騎兵だ。

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