フェイフェイ・ヴィ・アッセンブラの手記

@hayataruu

「青」の証明

私の名前はプラトン。雑貨屋の店番と科学者の助手を兼務している。

雑貨屋があるのは人間族と魔族の領地に挟まれた中立都市の一角。その店の奥の薄暗い小部屋で、フェイフェイ・ヴィ・アッセンブラ先生は今日も魔力の研究に没頭されている。



すっかり夜になってしまったので店じまいの時間だ。

夕食時でもあるのでフェイフェイ先生にそのことを知らせなければ、後で何と言われるか分からない。


と思って店の奥に行ってみると、そこには机に突っ伏して眠っておられる先生の姿があった。

黒髪を二つにまとめた頭のお団子は型崩れし、口元から流れ出たであろう透明の液体が、顔の下に広げられた本に水溜まりを作っている。


もはや人間の少女にしか見えないが、先生は魔族だ。その中でも長命な種族で、見た目は幼いが私よりもずっと年上だ。子供の世話を焼く親の気分になってしまい複雑な心境ではあるが、このまま先生に風邪でも引かれては私が困る。


まずは水没の危機に瀕した本を救おうと、私はそれを先生の頭の下から抜き出した。


「先生の日記……?」


先生のことはその長命さがゆえに、私もよく知っているようであまり知らない。

罪悪感を感じつつも好奇心が勝り、私はその本の開かれたページを読むことにした。




―――


フェイフェイ・ヴィ・アッセンブラの手記


光というのは多くの色が合わさったものだ。それが大気中の粒子に反射する過程で、青色の光が私たちの目に多く届く。だから空は青い。

一方で、海は青い光以外をたくさん吸収してしまう。だから青いのだ。

今では当たり前に分かっていることだが、これはそんな発見がされていなかった頃のお話。



私が行きつけのレストランで、顔見知りの客がいた。

名前はリリィと言った。

人間族の少女で6歳くらい。きれいな薄青い目と、人間族では珍しい真っ白な髪が印象的だった。


私がレストランで夕食をとっていると、父親と母親に連れられてたまにやってくる。


私は彼女をうっとおしく思っていた。


私がのんびりと食事を楽しんでいるというのに、わざわざこちらに駆け寄ってきては毎度毎度こんなことを言うのだ。


「ねえ!海は青いんだよ!」


彼女にとって、私は年の近いお友達のように映ったのかもしれない。私が「海って、なあに?」とでも言うと思ったのだろう。自分が見聞きした知識をひけらかし、自慢したいのだ。


初めは相手にしていなかったが、食事中の私を見つける度に駆け寄ってくるものだから、私はついに言ってやった。


「海は青くない。空が青いから海が青く見えるんだ」


当時の学者の間では、そういう風に理解されていたんだ。

面倒になった私は、透明なガラスのコップに水を注ぎ、それを彼女に見せてやった。


「ほら、水は透明じゃないか」

「それは、水はとっても薄い青色だから、そう見えるんだよ!」


即座に反論してきた彼女に苛立ちを覚えた私は、彼女にぐうの音も言わせないよう納得させる方法を思案するようになった。


今となっては「幼い子供相手に何をムキに」と思うが、当時も科学者を名乗っていた私のプライドが許さなかったのだろう。


ある時は白く塗装した大きなタルに水を貯めて見せたり、またある時は真っ白な布を水に浸して色がついていないことを見せたり。とにかくいろんなことをやって見せた。

それでも彼女は「海は青い」と言っていた。



しばらくすると、彼女はレストランに姿を現さなくなった。


この街から海へは遠いので、今度は湖にでも連れて行ってやろうかと考えていたら、いつの間にか1年が経った。1年といっても、長命な魔族である私にとってはほんの一瞬。あっと言う間だ。



そんなある日、彼女はまた姿を現した。


レストランの木の扉が開かれ、父親、母親、そして彼女の順にゆっくりと店内に入って来る。1年前より少し大きくなり、印象的な真っ白な髪は肩の後ろくらいまで伸びていた。


彼女は父親の声で私に気が付き、母親に手を引かれて私の元にやってきた。笑いかけるような口元で、ゆっくりとゆっくりと、おぼつかない足取りで、小さな歩幅で。


私は身動きが取れなかった。それだけ彼女に見入っていた。



リリィの両目は閉じられていたのだ。



「目は……」


私がリリィの母親を見上げると、彼女は悲しそうな目で小さく首を横に振った。


リリィの目が治る見込みがあれば、そこで母親は私に色々と話してくれたかもしれない。だが彼女は何も言わなかった。


リリィの両目は一生このままなのだろう。


「勝ち逃げされた」。そう思った。

結局、リリィの中では、海の青さが空を青く染めたままだ。学者である私が、相手に真実を伝えられなかったのだ。

私の感情はリリィへの哀れみと、学者としての歯がゆさが占めていた。


そこへリリィの手がワンピースのポケットに突っ込まれ、何かを握って私の方に差し出された。


「これ、あげる!」


1年前と変わらず元気な声。自分の置かれた状況が分かっていないのだろうか。


彼女が差し出したのは小さな、ほんの小さな小瓶だった。

手の平で覆い隠せるような、透明なガラスの小瓶。中には水のようなものが入っていて、口はコルクで栓がされていた。


「何、これ?」

「海の水だよ!ね、青いでしょ!」


初めはリリィの言っている意味が分からなかった。正面から見たり、底の方から見たり、ランプの光に透かしてみても、どうしたって中の水は透明なのだ。


私は母親の方を見た。少し苦笑いしたような表情で私を見てくる。


私は察した。

海が青いと信じてきたリリィは、それを疑うことなく光を失った。私が、海が青いということを否定したので、証明して見せようと思ったのだろう。


幼い子供が、私に証明するために、わざわざ海水を瓶に詰めたのだ。


科学の発展は発見の連続だ。だが発見したものを他人に証明できなければ、それは発見とは言えない。ただの妄言だ。時に、発見そのものよりも証明の方が難しい時だってある。

私は何度もその苦労を味わってきた。


そうした意味では、学者である私に対して果敢にも証明という挑戦を挑んできたリリィは称賛に値する。


私は言った。


「ああ。確かに、青いね」



母親の話では、リリィはこの海水を完全に失明してから瓶に詰めたらしい。つまりは、リリィ自身はこの瓶に入った海水が何色なのか知らないのだ。

私が小瓶をテーブルに置いても、リリィは私の方に顔を向けている。

まぶたで隠されたその薄青い目は、きっと今も輝いているのだろう。




その日以来、リリィたち家族がレストランを訪れることはなかった。

私はというと相変わらず雑貨屋の奥で実験やら執筆やらをして、夕食は毎日レストランに通っていた。


3年後のある日、レストランに私宛の手紙が届いた。


『見せたいものがあるので来てください』


差出人はリリィで、手紙には彼女が住んでいるという港町の住所が書かれていた。


私はある理由から、あまり外を出歩くのは控えるようにしている。なのでこの手紙に従って港町を訪れるのも、正直、厄介事のように感じた。


しかも相手はリリィだ。

不本意にも小瓶の水を「青い」と認めてやったのだから、これ以上私に何を求めるというのだろう。もう良いじゃないか。

見た目は幼い子供だが、私はこれでも長い年月を生きてきた魔族なのだ。年季が違う。リリィとお友達になったつもりはない。


こうしたことを考えていたが、私はいつの間にやら馬車に揺られていた。


考え直してみれば、私はいつも一人で食事をしていた。

いつも家族とともに食事をするリリィにとってみれば、私は一人寂しそうに夕食をとる同年代の子供のように映ったのかもしれない。だから話しかけてきたのだ。


そうした気遣いを受けておきながら相手の要求には一切答えないのは、年長者としてあるまじき行為。魔族の名折れだ。


それに私は迷惑にもリリィから小瓶を渡された。捨てるにも捨てられないこんなガラクタは、渡した本人に突き返すのが一番良い。

そして言ってやるのだ。「あれは嘘だった。どうみても透明だった」と。

3年も経ったんだ。リリィだって少しは物事を理解できるようになっただろう。もしかすると「私が間違っていた。やっぱり水は透明だ」と負けを認めるかもしれない。



フード付きのローブを羽織り、マスクをして、旅の冒険者を装って馬車に乗った。

リリィが住むグウェインという名の港町へは、私の暮らすユートレットの街から4日もかかった。


グウェインに到着して馬車を降りると、強い日差しが降り注いでいた。目の前の港には大きな船や小さな船がぷかぷかと浮いており、漁師のような風貌の者がせわしなく動き回っている。

海はかつてどこかの国で見たようなエメラルドグリーンではなく、青に緑と黒を混ぜたような、そんな色をしていた。


私は手紙を広げ、彼女の住む家を探すことにした。


カモメの声を聴きながら港を通り過ぎ、市場の喧騒に差し掛かる。

店先には原色の野菜や果物が並び、日陰に置かれた木箱には赤や紺色の魚がたくさん詰め込まれていた。


一息吐こうと木陰に入り、葉っぱの隙間から空を見上げた。


「青い空はやっぱり青い」


思わずそうつぶやいてしまったことに気が付き、私は恥ずかしさを覚えた。



小さな砂浜が見えた頃には太陽が傾きかけていた。


住宅街は砂浜から小道を挟んで、山の斜面に沿って所狭しと家々が建ち並んでいる。石畳の大きな坂道をヒィヒィ言いながら登り、少し建物がまばらになりかけたところに彼女の家があった。


扉をノックすると母親が出てきて、私の顔を見てかなり驚いた様子。どうやら、リリィが親に内緒で私に手紙を出したようだ。親への隠し事とは、リリィもお年頃になったものである。


遠路はるばるやってきた私を追い返すわけにもいかなかったのだろう。母親は複雑そうな顔をしながら、私をリリィの部屋へと案内してくれた。



3年ぶりに会うリリィ。

魔族の私は相変わらず小さな子供の背格好だが、彼女は人間だ。どれほど大きく成長したものか、私は少しワクワクしていた。


あの白い髪はどれほど伸びたのだろう。


どんな顔をしているのだろう。


はじめに何と言うのだろうか。


私は何と言おうか。


私は彼女の部屋の前に立ち、彼女に渡された小瓶を握りしめた。思えば、いつも食事中の私の元へ彼女が駆け寄って来ていた。私の方から彼女を訪ねるなど初めてのことだ。

ゆっくり木の扉を開くと、隙間からオレンジ色の強い光が差してきた。


ベッドが見える。

次に見えたのは窓。オレンジ色の光は窓から差し込んでいた。



「フェイだよね?ありがとう、来てくれて」


彼女は私が部屋に入るより早く声を掛けてきた。


リリィはベッドに腰かけ、夕日の中にいた。

白い髪は肩の上ぐらいの長さに揃えられ、逆光の中で小さくキラキラと輝いている。薄手の白いワンピースに身を包み、背丈はずいぶんと大きくなっていたが、その分、少し痩せたようにも見えた。


「フェイ」。彼女が私のことを名前で呼ぶなんてこれが初めてのことだったと思う。私の名前は恐らく父親か母親にでも聞いて知ったのだろう。

それにしても、私の名前はフェイフェイだ。「フェイ」なんて呼び方は今まで誰にもさせたことがない。勝手にニックネームを決めないでほしいものだ。


私は彼女の隣、ベッドに腰かけた。


「なんで私だと分かったのかしら?」

「だって、玄関でお母さんと話してたのが聴こえたんだもの」


彼女の声は3年前までの天真爛漫さが少し消え、その代わりにほんの少しだけ大人に近づいていた。

私は横に座る彼女の顔を見た。

彼女の両目は黒い布のようなもので覆い隠され、あの薄青い瞳の輝きはもう二度と見ることができないのだと痛感させられた。


開け放たれた窓からは、この家か隣の家かの夕飯を準備する香りが漂ってくる。


そう言えば、ユートレットのレストランで初めてリリィが私に声を掛けてきてから、彼女とは「海が青いか空が青いか」という話題以外で話をしたことがない。私も基本的に自分の研究にしか興味がないので、世間一般の、いわゆる世間話というものが分からない。


何を話せば良いか分からず間を持たせられなかった私は、用件を尋ねることにした。


「それで?私に見せたいものっていうのは?」


彼女は口をすぼめて何かを確かめるように黙った後、まるで悪だくみでもするように口元の形をニンマリと変え、小声で言った。


「私をここから連れ出してよ」

「ハァ?!」


私がガラにもないような驚いた声を上げたので、リリィは自分の口元に人差し指を当て私を制した。


「あのね、フェイと一緒に海を見たいの」

「それなら、親に頼んで見に行けば良いじゃない。私は私だけで見るから」

「ダメ。お父さんとお母さんに見つかったら怒られるから。それに、私はフェイに海が青いってことを教えたいの」


まさか。

最後に会ってから3年も経つのに、この娘は未だに海の水が青いことを証明しようと考えていたのか。両目の光を失ってさえも。


私は握りしめていた小瓶をローブに隠した。


「……どうやって抜け出すの」


くどいようだが、私は基本的に外を出歩かない。そんな私が遠路はるばるやってきたのだ。私だって、目的を果たさずおめおめと帰るのは気分が悪い。


いや、それは些細な理由だ。私は彼女の執念に負けたのだ。


「心配ないわ。お父さんは遅くまで仕事だから、気を付けないといけないのはお母さんね。今はお料理してるから―――」

「炊事場は玄関から丸見えよ」


玄関で話をした時に見えた。

そう言って私が彼女の言葉を遮ると、彼女はまたニンマリとした。


「大丈夫。ついてきて」


言うが早いかリリィはベッドに上がり、開け放った窓から身を乗り出した。


「ちょっ、アナタ目が……」

「大丈夫だってば」


そのままリリィは窓枠にぶら下がり、ドサッと音を立てて地面に降りた。手招きされた私も一抹の罪悪感を覚えながら彼女に続き、2人は家の裏手を歩いた。


目線の高さに伸びた木の枝をくぐり、花の植えられた植木鉢を飛び越え、目の前のリリィは両目の不自由さをつゆほども感じさせないくらい慣れた様子で進んでいく。


私と会わなくなってから3年間、もしかするとリリィはこのルートを歩くための練習を繰り返したのかもしれない。何度も何度も、私と一緒に海を見るために。





「私が一人で来れるのはここまでだから、ここからはフェイが連れてって」


坂道をほんの少し下ったところで、リリィは私に手を差し出してきた。手をつなげということだろう。


仕方なしに彼女の手に触れる。

彼女の手は私よりちょっぴり大きくて、少し汗ばみ、ひんやりとしていた。


「フェイの手って、やっぱり小っちゃいね」


分かってはいる。

身体的な見た目では私よりリリィの方が大人に近い。そして私の実年齢はリリィよりもはるかに上だ。こんな言葉でカチンとくるほど子供ではない。


私はリリィの手を思いっきり握ってやった。

するとリリィも私の手を強く握り返してきた。

私は、今度こそはと全身全霊をもって強く握った。

するとリリィは「ふふっ」と笑った。



ツルツルとした石畳の長い坂道を、リリィと手をつないで下りていく。

私が先を歩いて、リリィが後ろ。彼女がつまづいて転ばないように、地面の石畳を選びながら、ジグザグに歩いていく。


何度も振り返りながら彼女の足元を見て、真っ暗になっていく坂道を、ゆっくり、ゆっくり下りていく。





「ここまで来れば、あとは大丈夫。ねえ、フェイ。ちょっと目を閉じてよ」


大きなレンガ造りの建物に手をついたところで、リリィが後ろから声を掛けてきた。

見せたいものというのを見せてくれるのかと思って、私は素直に目を閉じた。


するとリリィはつないだ私の手を引き、前に出ようとした。


「ちょちょっ、ちょっと待って!私は目をつむったままじゃ歩けないわよ!」


当たり前だ。いくら手を引かれているとは言え、前を行く者が問題なければ、後ろで目を閉じる者も問題ないということはない。


ましてや、リリィは目が見えない。

慣れ親しんだ町並みで、本人が「大丈夫」とは言っても、目を閉じて手を引かれる者は不安で一杯、まともに歩けるはずもない。


リリィはしばらく考える素振りを見せた後、こう言った。


「じゃあさ、私の背中にくっついてよ。それなら歩けるでしょ」


面白いことを言うものだ。それなら確かに、前を歩く者と後ろを歩く者の危険性の差はなくなる。

ただ、どちらにせよリリィの目のハンディキャップはあるので、結局は彼女を信じるか否かという話だ。


「早く」


手を離した彼女が私の前で立ち止まっている。ほっそりとした背中が、こちらを向いている。


私はしぶしぶ彼女のお腹あたりに手を回し、背中にピッタリと身体をくっつけた。


私の頭は彼女の胸の後ろくらい。こうなるともう、はたから見ればただの姉妹だろう。

大変な気恥ずかしさを感じたものだが、そこは街灯などもろくに灯っていない海辺の港町。近くに人影が少なかったことにも助けられた。



「絶対、目を開けちゃだめだからね。開けたら絶交だからね」


「絶交もなにも、私はお友達になったつもりはない」とか思いながら、私は静かに目を閉じた。



リリィはゆっくりと前に進む。

水溜まりの跡や雑草の塊などを目印にしているのだろう。ゆっくり、足元を探りながら、確かめるように進む。



リリィの息遣いが聴こえる。


リリィの匂い。


彼女の背中越しに胸の鼓動が聴こえてくる。


少し汗ばんだ感覚。


水路を流れる水の音。


虫の鳴く声。


風が吹いた。


どこからか小さくカラカラという音。


砂を踏む感触。



潮の香り。







「もう、開けていいよ」


リリィはそう言うと私の手を握り、背中の陰から私を引っ張り出した。

彼女の横に並んだ私は、まるで夢から覚めるように、両方の目をゆっくりと開けた。








星屑の波。

彼女は幼い日に見たこの光景を、海の青さの証明と信じてきたのだ。


Noctiluca夜光虫……」


私の唇がひとりでに動いた。


何万、何億という儚い輝きが、この小さな砂浜に青白い光の帯をつくりだしていた。


「海にはね、この青い光がたくさんいるの。光は水に溶けて、雨になって川になるの。だけど溶けた光はとても弱いから、普通の水は透明に見えるんだよ」



私はリリィの顔を見上げた。


彼女は目元を覆っていた布を外し、閉じたまぶたで波打ち際を見つめていた。

波の音、風の音、潮の香り、つないだ手。

それらを足し合わせて、彼女のまぶたの向こうにはこの青白い光の波が広がっているのだろう。


4年前、レストランで私に「海は青い」と言ってきた彼女。

私は「空が青いから海が青い」と言った。それでも彼女は「海は青い」と言った。

私は「水は透明だ」と言った。それでも彼女は「海は青い」と言った。


彼女は一度も「空は透明だ」と言わなかった。「空気は透明だ」と言わなかった。


リリィはひたすらに、自分のまぶたに焼き付いたこの事実だけを伝えようとしていたのだ。


私は一度でも空の青さを証明したことがない。

昼は青く、曇れば灰色に、夕方には赤く染まって、夜には黒くなる。

こんな空を私は「青い」と信じられる理由がない。


私は彼女からもらった小瓶をポケットから取り出した。

海水の入ったガラスの容器を目元に近づけ、それを通して波打ち際を覗いた。


ぼんやりした青白い光の線が、生まれては消え、また生まれてくる。

私はこの光景を、自分のまぶたに焼き付けようと思った。

リリィと同じものを見て、それでも「空は青い」と彼女に証明しようと思った。


「ね?青いでしょ?」


リリィは間違っていなかった。

私は答えた。


「ああ。確かに、青いね」



私の寿命は数百年ある。対して人間族は100年も生きれば長寿などと言われる。人間が何を信じて、どのように生きても、魔族である私にとっては刹那の話。とるに足らないこと。


だけどリリィという人間の娘に「海が青い」と目の前で証明されてしまっては、科学者としての私が負けたことになる。


だから私は世界に満ちたこの目に見えない物質が「青」であることを証明しないといけないし、それを彼女の目に見せつけて・・・・・・・やらなければいけない。



私は科学者。証明のプロなのだから。



―――


読み終えた私が本をしまおうとすると、目を覚ましたフェイフェイ先生がこちらを凝視しているのに気が付いた。


「プラトン。何、勝手に読んでるのよ」

「すみません。先生のよだれを乾かそうと開いているうちに、つい目に入ってしまい」

「で、どう?おもしろかった?」

「と、言いますと?」

「私が息抜きに書いた物語よ」

「おや、これは日記だと思いましたが?」

「そんなわけないじゃないの。だいたい、夜光虫の大量発生なんて都合よく見られるもんじゃないわ」

「そうですかねぇ」

「そうよ。さ、夕飯の時間でしょ。お店を閉めたら食べに行くわよ」


先生はそう言って机の上に転がっていた小瓶を引き出しに入れた。


小瓶のラベルには「青」と書かれていたように見えた。


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