後書き 公募生活とプロテスタンティズム
最初に断っておきますが、宗教の勧誘ではありません。
歴史の授業で宗教改革のことを習った記憶がある方も多いでしょう。
カトリック教会が腐敗し、お金を集めるために免罪符を発行したりするのに反発して、聖書本来の教えに立ち返れと叫んだ人々の運動とされています。
実は、これがかなり厳しい思想なのです。
『聖書に書かれていることだけが正しい』『聖書に書かれていないことを人間が勝手に解釈してはいけない』と突き詰めて考えてしまうと、そこに重大な問題が発生してしまいます。そもそも聖書には、どうすれば天国に行けるかの具体的な方法は記されていないのです。
そこを上手く取り持っていたのがカトリック教会でした。教皇は神の代理人ですから、善行(教会への寄付を含む)をすれば救われると言ってもいいわけです。イスラム教の場合は、善行をすれば天国に行けるとコーランにちゃんと書いてあります。
でも、聖書は違うのです。
例えば、退廃と悪徳が神の怒りに触れてソドムとゴモラが滅ぼされた時。ロトと二人の娘だけは救われます。実はその後にロトは近親相姦をして娘に自分の子供を産ませることになるのですが、神はそのことを咎めてはいません。
人間はもともと神が土から作った陶芸作品のようなものだから、形の悪い作品を愛でようが、ちょっとした欠点が気に入らずに壊そうが、神の思うがまま。その意思を人間ごときが推しはかれるものではない。敬虔なプロテスタントの信者は、そう考えます。
何をしようと、本当に救われるか救われないかは神様にしかわからない。でも聖書に書かれている善行の記録を頼りに、自分が救われるための努力を延々と続けていくしかない。マックスウェーバーによれば、その葛藤によって勤勉と倹約に努めたことが富の蓄積に繋がり、それが結果として近代資本主義を生んだと言っています。
これって、何かに似ている。そう思いませんか。
これぞまさしく公募に向き合う人々の心理そのものです。編集部の気まぐれで受賞して作家になった人もいるように見える。でも、それを完全に推しはかることはできない。自分にできることはただ、結果が出ることを信じて努力を続けていくことだけだ……。
公募に向き合って生活していくことは、ストレスとの戦いです。
プロテスタントの信者が実際に天国に行けたかどうかは知りません。でも、それを実践して生きることには少なくとも意味はあった。そう考えれば、日々の生活のための小さなヒントくらいにはなるのではないか。
そう思ってこの話を締めのエピソードとさせていただきました。
それでは、これからも良い公募生活を!
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