1ー4 ようやくの帰宅

 湿った毛皮の匂いがする。

 くったりしながら、あたしはすっかり8番に背負われていた。


 猫はお日様の良い香りがするって言うけれど、犬は臭い。だけど、それが堪らない。

 8番さんの背中からは、ポチに顔を埋めて眠ったときと同じ匂いがした。


 8番さんは、あたしを背負っている重さなんてまるで感じてないように、馬と同じ速さで駆けている。


 かなり揺れるのだけれど、しっかり支えられて一体感があるからか、不思議と乗り物酔いしない。


「……ポチ」

 おバカな犬だった。けど、そのおバカさも含めて愛していた。家族だった。


 ミナミが事故に遭ったのは、ポチの散歩中のことだった。首輪が古くなっていて、道を歩いている最中に切れてしまった。

 散歩していたのが、お父さんかお母さんだったら、きっとポチはお利口に待ったのだろうけれど。そのとき一緒だったのはあたしだったから――ポチは、そのまま逃げ出した。


「ポチ! だめっ、待って!」

 初めは純粋に慌てていたのだけれど、こちらを小バカにしながら逃げるポチの態度に、だんだん苛立ちも加わってきた。

「もう知らないっ! バカ犬っ! 保健所に帰ればっ!?」

 そう吐き捨てて、あたしはくるっと踵を返した。後ろで、やたらポチがわんわん吠えているのは聞こえていたけれど、敢えて無視をしてしまった。

 あたしが追いかけてこないことでポチが焦るのなら――それはちょっぴり暗い心地好さがあった。


 ギギッという嫌な音が、すぐ近くでして。

 見ると、大きなトラックがあたしに迫っていた。

「あ――」

 横断歩道は赤だった。バカなのはポチじゃなくてあたし。ポチを見捨てた罰だと、頭の中にそんな言葉が浮かんだ。


 悲鳴を上げることもできなかった。

 けれど。

 次の瞬間、あたしに覆い被さってきたのは、ポチだった。だから――ミナミが最後に見たものはポチのお腹と。真っ黒な毛皮。


 そこから先の記憶は――ない。

 少なくともポチは、怖い想いからミナミを守ってくれたのだ。


「間もなく着きます」

 低い声がして、ハッとする。

 だいぶぼんやりしていたらしい。景色は、すっかり街中のものに変わっていた。


 グリシーニャ国王都・レアオン。皇帝の住まう城を高みに据え、それを中心とした扇状地。身分が高いほど城の近く、つまり標高の高い位置に住居がある傾向なのだそうだ。

 だそうだ、と言うのは、ジェンツィアナは標高の低い方面へは行ったことがないため、そちらの実態をこの目で見たことがないからなのだけれど。


「――着いたぞジェン!」

 セレ兄様が、馬上から大きな声をかけてくる。あたしが眠っていると思っているのかもしれない。実際、あんまりにも心地がよくて寝てしまいそうだった。


 顔を上げると、城近くに立てられた我が家があった。ジェンツィアナの記憶は遠いというのに、ちゃんと懐かしく、安心する気持ちになったことに、ちょっとホッとした。

 例えミナミの記憶が戻ったって、産まれてから十六年間、この家で過ごしているんだもの。確かにここは、あたしの家なんだ。


「8番さん、ここで降ろしてもらって大丈夫」

 本当はずっとしがみついていたいくらいだったけれど、さすがに迷惑だし、家についたのだから自分の足で歩かねば。

 降ろしてもらうと、8番さんの顔がよく見えて、思わずじっと見つめてしまう。

「……なにか」

「あ、ううん。今日はありがとう!」


 途端。無表情だった8番さんが、面食らったような顔になった。

「……は?」

「え? いや、だからその……今日は助けてもらったし、ここまでおんぶまでしてもらって、ありがとうって」

 8番さんが、次第に疑わしげというか、変な食べ物を見たときのような表情になる。「これ、大丈夫か? 食べられるものか?」みたいな。


「……いえ、仕事ですので」

 モゴモゴと口ごもるように言ったかと思うと、8番さんはそのままセレ兄様に「それでは」とお辞儀をし、去っていった。屋敷の敷地内のどこだったかに、奴隷用の部屋があるはずだから、きっとそっちに向かったんだろう。


「――ジェンツィアナ!」

 ぱたぱたと、玄関から駆け寄ってきたのはお母様だった。ちょっと走ってはハァハァと息を切らし、またちょっと走っては休むを繰り返しながら、なんとかこちらにたどり着く。


「無事で良かったわジェンツィアナ! 可哀想に、怖いめに遭うなんて」

 大きな胸に押し潰されながら、ひしっと抱きしめられ、思わずもがいてしまう。顔が濡れると思ったら、お母様がはらはらとこぼす涙の粒だった。


「殿下よりご連絡をいただいてから、あたくし心配で心配で……っ! 食事も喉を通らなかったのよ」

「母上、オルテンシァ殿下からご連絡いただいて、まだ数時間しか経っていませんよ」

「ですから、お茶の時間どころではなかった、ということよセレジェイル。あなたも、真っ先に出ていってしまうんだから。怪我はなかった?」

 顔を真っ青にして訊ねてくるお母様に、セレ兄様は肩を軽く竦めてみせる。

「私はこれでも、右近少将ですよ。悪人を捕まえるのも仕事のうちです」

「そう……そうよね。ほんと、お母様ったら駄目ね、いつまでも心配性で……。でも、あなたたちになにかあったらと思うと、怖くて怖くて」

 優しいお母様。いくつになっても、お人形のように見た目も心も美しいままで、まるで少女みたいな人だ。

 そう、ジェンツィアナはいつも想っていたし、今も心のどこかがぴりっとする。


「それでは、ジェンも送り届けましたし。私はこのまま、先程の奴らを届け、城に事件報告をして参ります」

「このまま、行ってしまうの?」

「ええ。左大臣家の馬車が狙われたとなれば、大きい問題ですしね。父上も城にいらっしゃるでしょうから、ジェンの無事も知らせて参ります」

 そう、とお母様はすっかりしょんぼり顔だ。

「じゃ、じゃあ。お父様にお食事の時間までには帰ってらしてね、って伝えておいてね」

「分かりましたよ、母上。ジェンも、疲れた顔してるからゆっくり休みなさい」

 そう、お母様とあたしの頬に軽くキスをして、また馬上の人となったセレ兄様は、素早く屋敷を出ていってしまった。


 残されたあたしとお母様は、顔を見合せる。

「そうねぇ……ジェンツィアナ、お茶にする? 美味しいお菓子があるの」

 にっこりと、とぼけたことを言うお母様に、あたしは脱力しつつ、「今は遠慮しておきます」と首を振った。

 

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