1ー3 ポチと8番
黒い、モフッとした毛皮が、優しくあたしを包み込む。
「え……?」
強い獣の匂いが、鼻先に漂う。顔を上げると、すぐ上に凛々しい犬の顔があった。鋭い目つきで、あたしではなく遠くを見ている。
「ポチ……?」
つい、口をついたのは。実家で飼っていた犬の名前だった。
小さい頃に、保健所からもらってきた雑種犬。黒くてやたらでかく、お父さんやお母さんの言うことは聞くのに、あたしの言うことは全然聞かない犬だった。
意地汚くて、おバカで、そしてーーミナミの最期に、一緒にいた犬。
それが、ポチだった。
「ーー下がっていてください」
低く少し掠れた、抑えた声。鋭い爪の生えた太い獣の手が、意外と器用にあたしの身体を持ち上げて、地面に降ろした。
「すぐ、済みます」
トンッと。軽い音がしたかと思うと、ポチはもうその場にいなかった。すでに何メートルも先を走っている、二足歩行な後ろ姿が見えた。その先には、さっきまであたしが乗っていた、プリマヴェニス家の馬車がある。
はるか先に遠ざかっていたそれに、ポチはあっという間に追いついた。
ポチは二本の太い脚で高く跳び上がると、簡単に御者台へと乗り込んだようだった。御者台をのっとっていた強盗らしき影が、馬車からぽいっと投げ出された。そのまま馬車は道端に止められ、ポチが降りてくる。
その間も、なんとか走って近づいていたあたしの耳に、強盗の叫び声が聞こえてきた。
「違うっ! 左大臣の家の馬車だなんて知らなかったんだッ! 俺は、ただ頼まれただけで……っ」
「オレはただの使い走りだ。言い分があるなら、当主様に言うが良い」
ポチは淡々と答えると、倒れ伏した強盗の腹を蹴り上げた。ボールのようにポーンと打ち上がった強盗は、地に落ちるとだらりとし、気を失っている様子だった。
「ぽ、ポチ……?」
呼びかけると、ポチはこちらを向いた。温度を感じさせない眼が、初めてあたしの姿を写す。
「オレの個体名は、ポチではありません」
ポチはそう言うと、あたしの足元に跪いた。
「奴隷番号8。それが、オレに与えられた番号です、お嬢様」
「……奴隷番号…8……」
ジェンツィアナの記憶が、あたしに伝える。
獣人族ーー獣の力を持つその種族は、かつて人間族との戦争に敗れ、その一部は奴隷として人間の貴族に仕えている。
「でも、あたし……あなたのこと、知らない……」
「オレは、左大臣様の家に来て間もないですから」
それに、と。付け加えたポチーーもとい8番さんは、こちらを見つめると乾いた声で言った。
「あなたは、オレら奴隷なんぞ、視界にも入れてなかったでしょう?」
「……っ」
跪いているにもかかわらず、見下されているように感じる目。
「あ……あの」
あたしがなにか言うより先に、馬の蹄の音が、いくつも近づいてくる。
「ジェンっ、無事か!?」
「……セレ兄様」
ジェンツィアナと同じ、プラチナブロンドに深い緑色の瞳をした若い男ーープリマヴェニス家の次期当主であるセレジェイル・プリマヴェニスが、馬でこちらに近づいてきた。
「無事だったか!」
「なんで……」
どうしてこんなに早く、セレ兄様がここに?
強盗に襲われてすぐだ。助けを求める時間もなにもなかったのに。
「オルテンシァ殿下から、通信魔術による連絡があってな。別荘の周辺で怪しげな動きをしている者を捕らえたら、馬車襲撃予定について吐いたらしい」
「通信魔術……そう言えば、そんな便利なものもあったんだっけ……」
ミナミの記憶が蘇って間もないためか、ジェンツィアナの記憶の引き出しがスムーズじゃない感じがする。
8番さんが立ち上がる。ふと、その顔に不快げな色が浮かんでいるように見えた。
「ポチ……じゃなくて、8番、さん。あの」
「しかし、やっぱり8番はうちで一番足が速いな! 馬なんてあっという間に置いていかれてしまったよ」
笑いながらセレ兄様が、8番さんの背を親しげに叩く。8番さんは頭を下げながら、「出過ぎた真似をいたしました」と何故か謝罪した。
「いや、おかげで妹が助かった。帰ったら褒賞を考えないとな」
「……ありがとうございます」
やり取りは、それで一段落のようだった。セレ兄様はついてきた他の従者たちに、馬車の片付けと強盗の連行を言いつける。
「あ、セレ兄様。向こうにも、もう一人男が落ちてるはずです」
「そうか、二人も片付けるなんてほんと手柄だな、8番」
「いえ、オレは--」
8番さんは否定しようとするけれど、セレ兄様は指示に忙しい様子だった。もう、話を聞いてもいない。
「じゃあ向こうもちゃんと探して、捕らえてくるように。馬車もこんなになって……怖かっただろう、ジェン。可哀想に」
「え? あ、やぁ……まぁ」
馬車はあたしがやりました、と言い出せる雰囲気でもなく、へらへら笑って空気を合わせておく。
セレ兄様はそんなあたしを見て、哀れみを深くした目で「いつもの強がりを言う気力もないんだな」と呟いた。いいや、そういうことにしておこう。
「おいで、ジェン。怖い想いをした馬車に、乗る気にはなれないだろう。窓も壊れているしな。私の馬に、一緒に乗りなさい」
別に、窓が壊れているくらい気にならなかったし、おんぼろになった馬車を襲う物好きがいるとも思わない。
なにより、この箱入り娘な身体のせいかーーなんだかガクッと疲れてしまって、馬になんて乗るより、馬車に揺られて座っている方がずっとマシな気がした。
「あたし、あの馬車で良いです」
「いや、でも……なぁ」
「なんかもう、今すぐ横になりたい気分なの。馬って疲れるし、座ってらんない」
正直に言ったものの、セレ兄様はまだ「あんなボロ馬車」だとか「プリマヴェニス家の娘が壊れた馬車に乗るのは」だとか言っている。セレ兄様は良い人だけれど、わりとちょいちょいそういうところがある。
だけどあたしも、そろそろエネルギー切れだ。胸のカラータイマーがピコンピコン鳴ってる感じだ。知らんけど。
正常に働かなくなってきた頭。うるさいセレ兄様から顔を背けると、真っ暗な毛皮の、大きな背中が目に入った。
「じゃあ、あそこにします」
ほぼ脊椎反射で、言葉が口をつく。
「8番さんに、おんぶして帰りたいです」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます