一四話:彼へ彼女と彼女から(三)
「ただいま」
自宅の引き戸を開け玄関の中へ入る詩織。靴を脱ぎ自室へ向かい歩いている時、灯りの点いていないリビングから微かに物音が聞えた。
またか、と思いつつ詩織はリビングへと向かい、壁にある照明のスイッチを押して灯りを点ける。そこには想像通りの光景が広がっていた。
「う~~~。無理ぃ、もう無理なのぉ、もうやだぁ」
上下ジャージ姿の長髪の女性が酒瓶を握りしめながらテーブルに突っ伏していた。テーブルの上にはかなりの数の缶ビールが乱雑に置かれているが、既に全部空だ。しかもつまみの入っていたであろう小袋が辺りに散乱している。
「あ~~、しおいちゃんおかえい~」
「っう、すごい臭い」
女性は詩織に気が付いたのかテーブルに突っ伏しながらもヒラヒラと手を振る。完全に出来上がっているようで、呂律が回っていなかった。しかもかなり酒臭い。
「……お母さん、流石に飲み過ぎよ」
「のみすぎぃ? こんらののんらうちにはいららいわよ~」
「はぁ、はいはい。でもこれ以上は体に毒だわ。ほら片付けるからジッとしてて」
「はぁい、わ~かいま~ひた~」
この完全に酔っている長髪の女性の名前は
壁の時計を見ると時刻は午後九時を過ぎている。いつから飲んでいたのかは分からないが、それでも短時間ではないことは一目瞭然だった。
「ただいま、って酒臭!?」
詩織が缶ビールなどを片付けていると一人の優しそうな男性がリビングへと入ってきた。やはり室内はかなりの臭いが充満している様で、男性も片手で鼻を覆う様な仕草をする。
「あ、お帰りなさいお父さん」
「おかえい~」
片付けをしている詩織と酔い潰れている香澄を見て、男性―――
少しずり下がった眼鏡をかけ直しスーツの袖を捲り上げ窓を開けると、詩織と一緒に空き缶などの片付けをしていく。
二人とも慣れているのか、数分と経たずに片付けは終了した。
「きいてよ、ふたりろも~~。わらしもうかけないぃ」
職業小説家である香澄は現在スランプに陥っているようで、どうやらヤケ酒に走ったようだ。
「うんうん、香澄さんは頑張ったね。だから今日はもう休んで、明日からまた頑張ろう? 大丈夫、香澄さんならできるよ。僕達は香澄さんがやれば出来る人だって知っているからね」
「ゆっくり自分のペースで仕事をすればいいわ。気分転換に買い物ぐらいなら私もつきあってあげるから」
「ふ、ふたりろも~、ありがろぅ~。わらし、がんばうね~」
愛しい家族の優しい言葉を受け安心したのか、香澄はそのまま腕を枕にしてテーブルで眠ってしまった。
「よいしょっと。詩織ちゃん、僕は香澄さんを寝室に運ぶから先にお風呂に入っていいよ。それとそこのお肉代出すからレシート、テ-ブルに置いといて」
「分かったわ。ありがと、お父さん」
「そうそう、明日は久しぶりに剛達と合同稽古しようって話になったんだけど、詩織ちゃんはどうする? 時間は午後二時からスタートのつもりなんだけど?」
「そうね、最近あまり体を動かせていないから、参加させてもらうわ」
「わかった、剛にもオッケーって連絡しとくよ」
痩せ型の誠一だがスーツの下の肉体は鍛え、絞られているため人間一人分の重量などさほど苦にならないのだろう。軽々と香澄を抱えると二階の寝室へと歩いて行く。
詩織はリビングの窓を閉め冷蔵庫に持って帰っていた肉を入れると、言われた通りレシートをテーブルの上に置いた。
それから自室に向かい入浴の準備をしていく詩織だった。
**********
「これで課題は終わり、やり残しも……無いわね」
現在詩織は課題を終わらせ、最後の確認も終わったらしい。時刻は午後一〇時四七分、普段ならとっくに課題を終わらせて読書でもしている時間なのだが今日は少し遅くなってしまっていた。
「『ラグナロク』の新刊の続きは、こ、今度にしないと。読んだらダメよ詩織。そう、明日の夜にいくらでも読めるんだから」
勉強机の本棚の一番右に置いてある文庫本。所謂ラノベと呼ばれる種類の小説で、詩織が現在
題名は『終焉から始まる
題名から分かる様に詩織の好きな
「総護君もこのシリーズ面白いって言っていたけど、最新刊はもう買ったのかしら? まぁ、明日聞いてみればいいわよね。ック、鎮まれ我が右手よ、今はまだその刻ではない!!」
読みたい衝動を何とか抑え込み、詩織はベッドへ倒れ込むように横になる。
(……もう、すっかり元通りになったのかしら)
それは一人の男の子の事を指しているのか自分たちの関係の事なのか、詩織にも分からなかった。
最近は小さい頃の様に三人仲良く喋ったり、ご飯を一緒に食べたりしているが中学校の頃は今とは全然違っていた。
小学校の中、高学年の頃からだんだん総護と疎遠になりつつあった事を詩織は自覚していた。だが、決して総護と仲が悪くなってはいなかったはずだ。
男子は男子で。女子は女子で。異性よりも同性と遊ぶ機会が自然と増えていっていたが、喧嘩などは陽南も含めしていなかったはずだ。
中学校へ進学し少して経ってから、総護の態度は確実に変化してしまっていた。
下校時一緒に帰ろうと誘っても、断られてしまう。
廊下などですれ違ってもこちらから挨拶をしなければ、目も合わせようとしない総護。以前なら総護の方から挨拶をしてきたはずなのだ。
総護が詩織を避けている、と気が付くのにそう時間はかからなかった。どうやら陽南に対しても同じ様な態度らしい。
少し不安があったが詩織は総護が恥ずかしがっているだけだと思った。その理由は進学したことで学校の雰囲気がガラリと変わったからだ。
異性に声をかけることがどこか躊躇われる様な独特な『空気』。小学校の時にくらべより顕著になったその『空気』に総護が当てられているだけだと、時間が経てば元に戻ると、陽南に言った記憶がある。それに、詩織自身もそう思っていた。
だが、いくら時間が経っても総護の態度が変わる事は無かった。むしろ余計に悪化していく様にも思え、同時に総護が何かに苦しむ表情が多くなっていく気がした。
中学二年の夏、ある日の早朝。詩織は総護に疑問をぶつけた。何故自分たちを避けるのか、何か事情があるんじゃないのか、と。
『―――俺がどうしようと、お前らには関係ねぇよ』
返ってきたのは突き放す様な言葉と、長年一緒に遊んできた友達に向けるとは思えないほど無関心な眼差しだった。
その後どうやって過ごしたのか覚えていない。
帰宅して自分の部屋に入り、泣いた。瞳から大粒の涙を流し続けた。とても、とても心が痛かった。
この時、詩織は初めて自分の想いに気が付いた。自分があの少年のことを異性として『好き』になっていた事に。
自分の想いに気が付いてからも、詩織は以前と同じように総護と接した。自分が変わってしまったらもう二度と総護と喋ることが出来なくなってしまう気がしたから。
同日から陽南も以前と同じような態度で総護と接する様になっていたが、そこまで気にしていなかった。
詩織は決心した。総護の態度を変えてみせると。いや―――変えざるを得ない状況にしてみせると。
そう『私に絶対惚れさせてみせる!!』そうすれば無関心な態度など絶対にとれなくなるのだから、と結論づけた。
それ以降徐々に総護の態度は軟化していく。だんだんと昔の総護に戻っていく。そして高校へ進学する頃には、すっかり元通りの総護になっていた。
(……若気の至りってやつかしらね)
今思い出すとかなり恥ずかしい思い出だ。もはや勢いで乗り切ったと言ってもいいだろう。それ程必死な日々だった。
今よりかなり頻度は少なかったが陽南と二人で総護の家に行きご飯を作った時、総護を呼びに部屋の近くまで行くと総護が一人で何か喋っていた。
現在の総護に言えば羞恥で倒れるかもしれないが総護の中二病を目撃したからこそ今の自分があるのだと詩織は思っている。
(ふふ、『我が盟友の声を聞け』、か。懐かしいわね)
当時総護はこう言っていたはずだ。身振り手振りを交えながら。
『我が盟友の声を聞け。それは総てを癒やすモノ、それは総てを壊すモノ。汝が鎖を解き放ち、陸海空を統べる狂咆とならん。
鮮明に思い出せる光景だ。当時はただ純粋に格好いいとしか思わなかったが、今はもう追い抜いたと自身を持って言える。
(あの総護君を見ることが出来ないのが残念だわ、カッコよかったのに)
もうすっかり自分の一部になってしまった中二病。だが、詩織は恥だとは微塵も思わない。
何故なら、好きな人との共通点でもあるのだから。
(も、もう寝ましょうか。このままじゃ眠れなくなりそうだわ)
自覚出来るほど顔が熱くなってきた詩織は早く寝ようと布団を目深に被る。だがまだまだ眠れそうになかった詩織はふと懐かしい記憶を思い出してしまう。
それは詩織がこちらに引っ越してきた日のこと。そして初めて恋をした日のことだ。
「~~~ッ!! 落ち着け我が記憶領域、それ以上は寿命を削る事になるぞっ」
眠るまでにはかなり時間を要する詩織。眠りに落ちる直前に、詩織は思ってしまった事がある。
(―――きっと陽南ちゃんも前から総護君のこと、好きよね?)
恋する乙女の思考はそこで途切れ、深い眠りへ誘われていくのだった。
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