第三章 失せもの(8)
8
「診断はハムストリングスの肉離れ。短距離走の選手には比較的よくある怪我です。私の場合はハードワークによる疲労と、膝の痛みを無意識に庇ってバランスが崩れたんじゃないかって事でした。自己管理が甘かった自業自得です」
朝陽さんは微かに笑顔を浮かべながら話をしていた。
ずっと追い続けてきた夢、その予想外の幕切れに心中穏やかだった訳がない。こんな時に言うべき言葉の持ち合わせがない僕は、黙って次の言葉を待った。
「そのインターハイは当然棄権だし、結局その怪我が原因で陸上を辞める事にもなって、ホントあれには参りました」
「怪我が治らなかったんですか?」
「治っては再発の繰り返しだったんです。希望と絶望を行ったり来たりであれはキツかったですねー、ははは」
わざとらしい笑い声を上げてみせた後に、彼女は大きくため息をついた。
「両親も私の足を治すために随分手を尽くしてくれました。でも時間的にも経済的にも、無理をしている家族を見るのが辛くて。そうまでして掴みたい私の夢って何?って考えちゃって、わからなくなって。私から諦める事を伝えました」
無邪気な期待や無償の愛。その重さに耐えられなくなったと彼女は言った。自分以外の誰かの想いを背負うほど輝かしい、そんな夢の近くまで辿り着いたゆえの苦悩。
人の心を惹きつけるような美しい夢であるほど、叶わなかった時は色濃い影を落とす。それは実体を持たず決して振り切る事も出来ない影の如く、いつまでも人生に付き纏う、過去の自分から生まれる暗闇。
夢の残滓。
それを振り払う術は僕にもわからない。
「けれど朝陽さんはそこから立ち直ったじゃないですか。それは凄い事だと、僕は思います。本当に」
僕とは違って。
「簡単じゃなかったですけどね」
どうすればそれを振り払えるのか。そう問いただしたい衝動をちっぽけなプライドでどうにか抑えつけた。
「まあ、そういう訳で私は陸上を辞めたんですけど、それは両親にとってもショックだったみたいなんです」
「それは、そうでしょうね」
彼女の努力を一番見てきたのも、応援してきたのも旦那さんと女将さんだろう。失意に沈む我が子を見たい親など居ない。
「私はこれまで十分サポートして貰ったし感謝しか無いんですけど、特にお父さんはあの時もっと良い治療を受けさせてたらと、そんな後悔が残ってるみたいで。美夜の進学をきっかけに、今度こそはって気持ちが強すぎてあんな言い方になったんだと思います」
だから私のせいなんですよ。そう言う朝陽さんは、先ほどまでよりもずっと辛そうな顔をしていた。
「私に出来なかった事を美夜にはしてやりたい。そんな風に代わりとして、無意識にでも比べられて嬉しいはずがありません。美夜が反発する気持ちはよくわかります」
それはその通りなのだろう。だけどきっとそれだけじゃない。
神社で話した彼女は「夢がないってそんなにダメなこと?」と、そう言っていた。
誰が聞いても応援したくなるような夢を追いかけていた姉に対して、何をやりたいかもわからない自分。努力しようにもゴールが見つからない日々。気がつけば夢を追っていた頃の姉の年齢を追い越している焦り。
きっと誰よりも朝陽さんと自分を比較してきたのは、他ならぬ彼女自身だ。そこに親からの望まれない形での期待が加わり耐えられなくなった。
「そろそろ行きましょう。風が冷たくなってきました」
僕らは再び暗闇の中に足を踏み出した。空には変わらず満月と星達が輝いている。
この先に居るはずの美夜も、同じ夜空を見上げているのだろうか。
再び背中に汗が滲んできた頃、僕らは目的のヘリポート跡地に到着した。
予想通り美夜はそこに居た。入り口から右手直ぐのスペースに設置された東屋、その屋根の下に置かれたベンチに座って、彼女はぼんやりと月を眺めていた。
僕らの足音に気がつくと、美夜はびくりとこちらを向いた。月光の薄明かりの中でも直ぐに姉だとわかったのだろう。少しほっとしたように再び視線を夜空へと戻した。
「美夜、身体冷やすよ」
坂道を上ってきたばかりの僕にはありがたい夜風だけれど、ずっと当たっていたら確かに身体を冷やしそうだ。
「別に。というか、何でその人が一緒なの」
至極もっともな質問だけれど、それは僕にもよくわからない。ただの成り行きだった。
「ほら、私も一応うら若き乙女だからこんな夜道に一人じゃ危ないでしょう?」
「何言ってるんだか......」
まあ良いじゃないと美夜の言葉を流しながら、朝陽さんは美夜の隣に腰を降ろす。僕は少し悩んだ末に、二人が座ったものとは別のベンチに座る事にした。この東屋には横並びになったこの二つのベンチしかない。
姉妹は同じ月を見上げる。上空は風が強いらしく、薄ぼんやりと浮かぶ雲が時おり月をかすめていく。
「ねぇ、怒ってないの?」
口火を切ったのは美夜だった。僕の位置だと聞き逃すほど小さな声で、妹は姉に尋ねた。
「んー、何が?」
あえてとぼけた声を出す姉に、若干苛立つように美夜はよりはっきりした声で言い直す。
「私、酷い事言ったじゃん」
「酷い事だってわかってるならもう良いよー。美夜はもう子供じゃないんだから」
「ごめん......」
「私よりも、お父さんとお母さんにちゃんと謝りなね」
「うん」
一人になって頭が冷えたのか美夜は思いのほか殊勝な態度だった。あるいは第三者である僕が居るせいかもしれない。
「あ、どうやって言うかちゃんと考えときなさいよ。美夜はアドリブ苦手だし、お父さんと同じで頭に血が上りやすいんだから。喧嘩するのだって似たもの同士だからだーって、私とお母さんでよく話してるんだから」
「ちょっと待って。それはあまり認めたくないんだけど」
「ほら、そうやって直ぐにむっとするところー」
二人のやりとりは絶対に邪魔しちゃいけない気がして僕は出来るだけ息を殺す。兄弟がいない自分の感覚なんて当てにならないけれど、朝陽さんは良いお姉さんなのだろう。
兄弟か。もし凜との間に子供を授かるとしたら、二人目を考えるのも良いかもしれない。僕は夜空をぼんやりと見上げ、遠い空の下に居る妻とのこれからについて思いを馳せる。
「......お姉ちゃんさ、酷いことついでに聞いても良い?」
「なーに?」
「陸上辞めて、夢が叶えられなくなって、一度は何も無くなっちゃったのに、どうしてそこからまた新しい夢を見つけられたの?」
私と違って。
彼女もその言葉を口にはしなかった。けれど僕には彼女がそう言ったように聞こえた。なぜ自分は姉と違うんだろう。なぜ自分は姉のようになれないんだろう。そんな自己嫌悪や劣等感は、形は違えど僕にも良くわかる。
近い存在だから苦しい。好きだからこそ対等で居たい。相手に誇れる自分で在りたい。
「お姉ちゃんが昔から陸上一筋だったのは一番近くで見てきたからわかる。治療を諦めた理由もわかる......。だけどまたゼロから、私と同じ何も無いところからまた新しい夢を見つけるなんて、どうすれば出来るの。私にはわからない。私だって頑張りたい。だけど、でも、私は何を頑張れるのか、頑張れば良いかわからないんだもん......」
話している間に段々湿り気を帯びた美夜の声は、最後には隠しきれない涙声になった。朝陽さんはどんな顔で妹の告白を聞いているのだろう。
先ほどから静かに鳴いていた虫の音が不意に止んだ。
「......何も無い、なんて事は無いんだよ。私も、美夜も、きっと誰だって」
美夜は潤んだ瞳をそのまま姉に向けた。その瞳をまっすぐに受け止める彼女の顔は、こちら側からは見えない。
「美夜の言うとおり、陸上を辞めてからの私は抜け殻みたいだった。これまで懸けてきた時間や努力が無駄になった、もう何も頑張れないって。本当にそう思った。治療を諦めてからは何で生きてるのかわからなくて。もう、私なんか居なくても良いやって自殺なんかも考えたくらい」
「え......」
普段はエネルギーの塊のような姉の、思いもしない発言に美夜は目を見張る。ショックを受けた妹に対して朝陽さんが慌てて「まあ、私も子供だったんだよねー」と笑って取り繕う。
「今は全然そんな気ないから安心してよ。お姉ちゃんは今日を楽しく生きてるから」
「わかってるよ馬鹿姉」
乱暴な言葉とは裏腹に美夜は深く安堵しているようだった。
きっと当時の朝陽さんは、自身の絶望の深さを家族にも悟られまいと毎日必死だったんだろう。家族を追い詰めたくないから治療を諦めたのに、その事で心配をかけたら本末転倒になってしまう。
表向きは立ち直ったように振る舞い、胸の内の暗がりは誰にも明かせない。そんな地獄のような日々、僕には耐えられそうもない。
「まあ卒業した頃は結構やばかったんだけどさ、お母さんに言われるがまま海猫荘を手伝ったり、バイトで観光協会のお手伝いしてたら、なんか少しだけ元気が出てきちゃったんだよねぇ」
「なんかって何。そこ大事なんだけど」
肝心なところがはっきりしない姉に美夜が少しむっとする。
「んー、特別な事があったわけじゃなくて。海猫荘のお客さんにありがとうって言われたり、誰かに助かるって言われたりするのがただ嬉しかったんだよね。嬉しいって思えたの」
「嬉しい?」
「もう私には何も出来ないと思ってた。励ましも慰めも聞きたくなかった。けれどそんな私にも、まだ嬉しい事はあって、まだ笑えて、まだ何か出来る事があるかもしれない。ゆっくりとだけど、私自身がそう納得出来たの。膝を抱えて俯いていた私を納得させてくれたのは、この町のみんなや、海猫荘で会った人達。だからね......」
「だから?」
一旦言葉を切った朝陽さんの顔を美夜が覗き込む。朝陽さんは妹を真っ直ぐに見つめて、いつもの周囲まで明るくするような笑顔で言葉を繋ぐ。
「だから私はこの島が、町のみんなが好き。もちろん家族も大好き。これが新しい夢かって聞かれるとわからないけど、何もない私にも大事にしたいものはちゃんとあったんだよ」
暗闇で眩しい光を直視したように美夜は顔を背けた。
「やっぱり、お姉ちゃんと私は違うよ」
「そうかなぁ。美夜にだって得意な事や好きな事はあるでしょう?というか私よりも大体の事は優秀じゃない」
「勉強だけじゃん」
「いやいや、お菓子作り上手だし、アイロンかけるの上手いし、あ、神楽もすっごいセンスあるって会長さんが褒めてたよ。明後日のお祭りが楽しみ」
屈託無く褒めちぎる姉に対して、美夜は大袈裟なため息を吐き出す。
「お姉ちゃんも昔神楽に推薦はされたのに、下手すぎてクビになってたもんね。運動神経良いのに不思議」
「あ、人がせっかく褒めてるのにそういう事言うかっ」
「ちょっとやめてよ」
朝陽さんの女性にしては大きな手が美夜の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。頭の上の両手を払い除けようと美夜が抵抗すると、朝陽さんはそのまま美夜をぎゅっと抱きしめた。
「え、何お姉ちゃん」
少しの沈黙。朝陽さんは美夜の頭をぽんぽんと撫でる。
「大丈夫。小さな事で良いんだよ。夢なんて大袈裟な言葉にすると身構えちゃうけどさ、自分が好きな事や得意な事、嬉しい気持ちを大事に育てれば、いつかはそれが夢だって胸を張れるように......」
気持ちを育てる。
僕達の中にはいつか夢になるかもしれない気持ちが、無数の夢の種子が、今も眠っているのだろうか。一つの夢が終わっても、決して尽きない湧き水のようにいくつもの可能性があるのだろうか。過去の夢を振り切って、胸を張って生きていく事が、いつか僕にも。
「......なるかもしれないし、ならないかもしれない」
美夜はがくっとして「もうっ」と今度こそ姉の両腕から脱出する。朝陽さんも「あはは」と笑いながら今度は素直に手を離す。
羨ましい姉妹だなと思った。こんなにも腹を割って話せる相手が僕には居るだろうか。凛にはあまりかっこ悪い自分は見せたく無いしな。
そう思ったところで、ひやりと冷たい風が僕の鼻先をくすぐった。
はっくしゅんっ。
夜の静寂を切り裂くような大きなくしゃみが響き渡る。朝陽さんと美夜も突然の大音量に、びっくりした顔のままたっぷり三秒はこちらを見ていた。思わぬ形で会話を中断させてしまった僕が気まずそうな笑顔で謝ると、二人共くすくすと笑ってくれた。
それをきっかけに僕らは海猫荘に戻る事にした。
帰り道は言葉少なく、ぼんやりと近づいてくる町の灯りを眺めながら坂道を下っていった。
海猫荘に着いた僕は自分の部屋に戻り、共用のシャワーを浴びた。冷えきった身体に伝うお湯の熱さが心地よく、心までほぐれていくようだった。
家に帰った朝陽さんと美夜が両親とどんな話をしたのか。それこそ家族の問題であり、他人である僕が知りたがるのはおこがましい。
けれどそれでもこの屋根の下で僕は願わずにはいられない。
いつか彼女が見つける小さな種子が大輪の花を咲かせる。そんな未来が訪れる事を。
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