第三章 失せもの(5〜7)


   5



 海猫荘に帰り着いた頃にはもう太陽は山の向こうへと沈んでいた。車から荷物を降ろしながら、僕は今日までサポートしてくれた朝陽さんに改めてお礼を言った。


「どういたしまして。案内は今日で終わりですけど、後は大丈夫なんですか?お祭りまでは居るんですよね」

「明日は予備日で具体的な予定は無いし、お祭りの撮影は新城さんから既に許可を貰いましたから。朝陽さんもお祭り当日は忙しいでしょう?」


 ガシャンッ。


 僕と朝陽さんは思わず音のした方向に顔を向けた。

 陶器が割れる音だろうか。屋外からの音ではない。どうやら海猫荘の中からのようだ。

 次に聞こえてきたのは男性の怒鳴り声。音が籠っていて何を言ったのかはわからなかったけれど、怒っている事だけはわかった。


「お父さん?」


 娘がそう言うなら旦那さんの声なのだろう。彼女は慌てて一番近くにあった裏口から建物の中へと入っていった。そこは海猫荘と繋がっている鳴海家の住居にあたる。

 僕は一瞬の躊躇のあと彼女を追いかける事に決めた。

 もしも何か暴力的な問題が起こっているとしたら、男手があった方が良いはずだ。何も無ければ、勝手に入った事を正直に謝れば良い。

 一本道の廊下を進むと先ほどよりもくっきりと会話が聞こえてきた。


「ちょっとお父さん。大きな声出さないで。お客さんにまで聞こえちゃうでしょう」


 朝陽さんはもう部屋の中で旦那さんを止めに入っていた。そこは鳴海家のリビングに当たる部屋らしく、テーブルの上には夕飯が並んでいた。険悪な雰囲気の室内で、女将さんだけがてきぱきと割れた皿を片づけていた。


「そうだな、すまん......」


 どうやらそこまで物騒な事態ではなさそうだ。僕はとりあえず廊下で様子を伺う事にした。まだ誰にも見つかっていないし、問題無さそうであればこのまま戻ってしまおうかと考える。


「で、一体どうしたの。お父さんも美夜も」


 朝陽さんが問題の中心らしい二人に詰め寄る。どちらも返事をしない。代わりに女将さんがため息と共に何があったのか説明した。


「美夜が、大学は島を出られれば何でも良いなんて言うからお父さんがね」

「......大学ってのは勉強したい事のある奴が行くところだろう」


 昨今では流されるまま、モラトリアムを謳歌する為にとりあえず進学する学生も少なくないが。


「ねえ美夜、どうしてそんな事言ったの?」


 朝陽さんは姉らしく柔らかい声で妹に問いかける。


「......だって、父さんがしつこいから」

「志望理由なんて別に隠す事じゃないだろう」

「正直に言ったら怒ったくせに」


 再びがたっと大きな音がした。端から聞いていてもヒヤリとするやりとりに、朝陽さんが慌てて仲裁に入る。


「ちょっと美夜も言い方っ。お父さんも座ってよ」

「そうね。とりあえず、ご飯は早く食べちゃいましょうね」


 女将さんの一言でひとまず場は収まったかに見えたけれど、なお部屋の空気は重い。全員無言で、時折かちゃかちゃと鳴る食器の音だけが響く。

 僕は自分の進学について何も言わずに応援してくれた母の事を思い出した。あの時の母にも実は言いたい事があったのだろうか。

 鉛のような雰囲気の中で再び口を開いたのは旦那さんだった。


「美夜、父さんは別に進学に反対してるんじゃない。むしろ応援したい。美夜が何をやりたいって言っても応援するつもりなんだよ。なあ母さん」

「まあ、ね」


 女将さんは娘を気遣ってか控えめに同意する。旦那さんが先程とは打って変わって静かに語りかける。


「だからちゃんと教えてくれないか。お前はここを出たいから、それだけの為に大学に行きたいのか」


 美夜は答えない。旦那さんは更に言葉を尽くす。


「何かやりたい事や、夢があるんじゃないのか。俺も母さんも好きなように生きてきた。お前にもそうしてもらいたいんだよ。朝陽にしてやれなかった分まで美夜には」


 ガンっ。


 言葉が終わる前にテーブルを殴り付けたような硬い音が響いた。美夜が椅子から立ち上がって食卓を囲む家族を見下ろす。


「いい加減にして!そういう所がホンットにうざい!」

「美夜!」

「やりたい事?夢?そんなの見つかるわけないじゃん、こんな何も無いところで!ねえ、夢がなきゃ大学行っちゃいけないの?やりたい事が決まってなきゃ何も選ばせてもらえないの?お父さんもお母さんも、自分達が簡単に夢を見つけて好きな暮らしが出来てるからわからないんだよ。皆が皆そうなれるわけじゃないんだよ!」


 切実な、悲鳴のような言葉だった。


「そんな風に思ってたの」


 朝陽さんはそう呟いて美夜の肩に触れようとする。その手を払い除けて、美夜は一歩後ずさる。


「お姉ちゃんはラッキーだったよね。......いや、でもそんな事ないか。夢が見つからない私と、夢を取り上げられたお姉ちゃん、どっちが可哀想なんだろうね。ねえ、今でも陸上の夢を見たりするの?」


 パンッ。

 小さな風船が弾けたような、酷く乾いた音が鼓膜を震わせた。


「お姉ちゃんに謝りなさい」


 毅然とした声だった。女将さんだ。これまで旦那さんにも美夜にもはっきりとは味方せずに中立に徹していた彼女の目に怒りの色が浮かんでいた。


「......やっぱりお母さんはお姉ちゃんの味方なんだね」

「そういう意味じゃないってわからないほど、美夜は馬鹿じゃないでしょう?」


 その一言に美夜は言葉に詰まらせる。

 家族から顔を背けて「うっざ」と呟くと部屋を飛び出した。しかし勢い良く飛び出したその先には、廊下で棒立ちになっていた僕が居た。当然思い切りぶつかった。奇しくもフェリーで朝陽さんとぶつかった時と似たような格好だ。

 体重差のせいか、派手に尻餅をつく格好で彼女が床に転がった。


「え、誰っ」


 あまりにも予想外の出来事が起こったせいで、修羅場の最中とは思えない間の抜けた声だった。涙で目を赤くしたまま、美夜はぽかんと僕を見上げている。


「えーっと、ごめんなさい」


 僕は観念して鳴海家一同に向かって姿を現して頭を下げる。


「さっき朝陽さんと一緒に派手な音を聞いたので、緊急事態なら男手があった方がと思って咄嗟に付いてきてしまいました......ははは」


 それぞれが事態を飲み込むのにたっぷり一呼吸の時間を要した。

 最初に我に返ったのは美夜で、慌てて起きあがると一目散に走り去り、靴を履いてそのまま家を飛び出した。

 残された僕らは気まずい空気の中でどうしたら良いか逡巡していた。しかし朝陽さんが助け舟を出してくれた。


「......美夜を探しに行かなきゃ。星野さんも良ければ一緒に来てください」


 その申し出を断る理由などない。彼女について僕は鳴海家を後にした。




   6



 夜露の湿り気を帯びた風が肌を撫でる。森からやってくる青草の匂いに混じって、微かな潮の香りを感じた。

 朝陽さんと僕は並んで夜の町を歩く。東京の夜に比べると随分と暗い。まばらな街灯やカーテン越しに溢れる民家の照明くらいしか光源が無いからだろう。これは一人だと迷子になるかもしれない。


「探すって言っても当てはあるんですか?」

「まあ十中八九ってところです」

「もう随分と暗いのでちょっと心配ですね」

「あー、それは大丈夫。美夜はなんだかんだ真面目なので、変に危ない所には行かないでしょうし。暗いって言っても今夜はほぼ満月なので明るいですから」


 そう指を指さされた方向を見上げると、そこには輝くお月様が浮かんでいた。


「道路が見えなくなるほど暗くはならないはずです」

「でもこんな暗い中で女の子が一人でうろついてたら危ないんじゃ」


 朝陽さんは「いやいや」と苦笑して僕の懸念を笑い飛ばす。


「町民がみんな顔見知りな町ですよ。滅多な事は起こりません。むしろ誰かに会ったらそのままうちに連絡が来ます」

「そういうものですか」

「この辺ではそんなものです。熊や山犬みたいな危ない獣も居ませんし。場所は大体わかってるのでゆっくり行きましょう。あの子も頭を冷やす時間が必要だと思うので」


 住宅地を通り過ぎ山裾の道まで来た。これまでも暗いと思っていたけれどこの先は更に暗い。道路沿いに設置された街灯があるにはあるが、間隔が広いため全部を照らしきれていない。暗いというより暗闇と形容した方が正しい塗り潰された黒が目の前に広がっていた。

 生まれて初めて夜が怖いと感じた。足が止まる。


「星野さん、こっちですよ」


 彼女は何の躊躇もなく暗闇に足を進める。僕は年上としての尊厳や男としての意地を振り絞って足を動かした。余裕が無くなっているであろう表情が隠れる事だけは、この暗闇に感謝した。

 道は山の斜面に沿った上り坂になっており、ちょっとした登山のような傾斜だ。背中に汗が滲む。


「美夜ちゃんはホントにこんな山道を?」

「山道じゃなくて普通の道路じゃないですか。この先に今は使われていないヘリポート跡地があるんですよ。小学校の天体観測なんかで使われてたり、ベンチなんかもあります。あの子が一人になりたい時は大体そこに居ます」


 朝陽さんはこの上り坂でも呼吸を乱さずすいすいと進んでいく。僕とは重力のかかり方が違うんじゃないだろうか。デスクワーカーは運動不足でいけない。

 登る事に集中している間に、目の方は大分闇に慣れてきた。街灯が無い場所でも朝陽さんの背中がはっきりと見えた。うっすらと地面に落ちる自分の影すらわかる。


 月の光を明るく感じるなんて、東京じゃ考えられないな。


 何度目かのつづら折りを越えたところで不意に視界が開けた。ちょうど視界を遮る高さで生い茂っていた雑木林が無くなり、ガードレールの向こう側の景色がお披露目された。

 いつの間にか結構な高さまで登っていたらしい。盆地である住宅街の海猫荘からは見えなかった、港から海へと抜ける景色がここからは一望出来た。


 港に連なる町の灯りは、星のようにぽつぽつと暗闇に浮かぶ。その向こうに広がる濃紺の海では月の光を水面が反射して瞬く。

 闇夜の中でもささやかな光を灯す人の営みと、それをそっと包み込むような月明かり。温かなその光景に僕は足を止め、しばし見惚れていた。


「星野さん?」


 前を歩く朝陽さんが、立ち止まった僕に気づいて振り替えった。


「いえ、綺麗な夜だなと思って」


 僕の視線を追って朝陽さんも遠くを見やる。


「......ありがとうございます」

「え?」

「私はこの島が好きですから、外の人がここを褒めてくれると嬉しいんです。ちょっとここで休憩しましょうか。星野さん随分しんどそうでしたし」


 ふふ、と彼女が微かに笑う。僕はお言葉に甘える事にした。


「朝陽さんはまだまだ余裕そうで羨ましい」

「私は鍛えてましたから。さっき美夜が言ってたでしょう。陸上やってたんですよ昔」


 もちろん覚えている。しかし「夢を取り上げられた」という不穏な言葉を前に、踏み込んで良い話題なのか僕は迷っていた。

 二人の間を静かな夜風が通り過ぎる。かすかに聞こえる虫の音が沈黙を少し軽くしてくれる。


「......先ほどは、お客様である星野さんに家族の見苦しいところを見せてしまい申し訳ありませんでした」


 突然改まった口調で彼女は僕に頭を下げた。


「いや、やめてください。僕の方こそ家庭の事情を立ち聞きしてごめんなさい」


 頭を下げあった僕らは気恥ずかしさの方が先に立ち、お互い曖昧に笑顔を作る。そんな空気を一新するように、彼女は海からの風を真正面に受けながら大きく伸びをした。


「あんな事言ってたけど、美夜も本気じゃないと思うんですよ。あの子が嫌なのは、この島じゃなくて多分私なんです」


 眼下に広がる夜の海に視線を送りながら、彼女が自分の考えを口にした。


「それは......、夢を取り上げられたというのと関係があるんですか?」


 僕は踏み込む決断を下して静かに問いかけた。彼女は自嘲気味に笑って答える。


「そうですね、そうだと思います」

「良ければ、聞かせてもらえますか。ただの野次馬根性なので無理にとは言いません。それにこれは取材じゃないのでもちろんオフレコです」


 僕は冗談半分といった体でおどけてみせた。世の中には話を聞いて貰うだけで心が軽くなる事だってある。濃密な人付き合いをする地元では口に出来ない話をするには、ただのお客さんである僕はもってこいのはずだ。

 彼女に寂しい顔は似合わない。短い付き合いだけど、何か力になりたかった。

 その気持ちが伝わったのかはわからない。けれど彼女は「それも良いかもしれませんね」と、自身の昔話を聞かせてくれた。




   7



 小さい頃の私は、多分人よりもほんの少し足が速いだけの子供でした。小学校の運動会ではいつも一番。とはいえ数少ない同級生の中では、という話です。


「ねぇ見てた!また一番!」


 競技が終わってそう胸を張る私をお父さんは大きな手で優しく撫でてくれました。


「すごいぞ朝陽。今夜はお祝いだな、なあ母さん」

「朝陽の好きな唐揚げたくさん作らなくちゃね」

「やったぁ!」

「お姉ちゃんかっこよかった!」


 私よりも更に小さい美夜がそう言いながら抱きついてくると、いよいよ私は鼻高々でした。


「ありがと美夜、きっとお母さんがケーキ作ってくれるから一緒に食べようね」

「ケーキ!お母さんほんとう?」


 はいはい、と笑うお母さんにはしゃぐ妹。私が一番を取ることで皆が喜んでくれる。そう思うと自分の足が誇らしく、また次も頑張ろうと思えました。


 中学では迷わず陸上部に入り練習に明け暮れました。種目は短距離走。小学校では負け知らずだった私も、きちんとした練習を積んだ先輩方には敵わずに悔しい思いを味わいました。島外で行われる大会では、同い年でも私よりずっと早い選手にも沢山出会いました。

 大会には必ず応援に来てくれる家族に、情けない姿は見せられない。

 両親をがっかりさせたくない。

 妹にとってかっこいい姉で在りたい。

 もう走る事では誰にも負けたくない。

 いつからかそんな気持ちが芽生えていました。負けず嫌いな性格も向いていたんでしょう。それでも魔法のように急にタイムが上がるなんて事はなく、私は地道に力を付けていきました。


 最終的に中学では部長を勤め、大会でもあと一歩で全国に届くという所まで行きました。そこで負けた悔しさが、その後も陸上を続ける原動力になりました。

 高校で陸上の強豪校には行かず日森町に残ったのは金銭的な事情もありますが、私はここで、この場所で結果を残したいと思ったからです。

 中学で競いあった本州の子の中に意地の悪い子がいました。


「あんな何もない離島でのんびりやってるあんたとは、トラックに賭ける想いが違うんだよ」


 最後の県予選、同じトラックを走った相手です。その子の背中さえ追い抜けば全国への切符が手に入った。どうしようもない悔しさが身体を震わせたけど、負けた私は言い返す事が出来ませんでした。


 何もない。


 自分で言うときはともかく、他人から悪意を持って言われると腹が立つ言葉です。だいたい何もない場所なんて本当にあるんでしょうか。無いのではなく、その人が見ようとしていない、わからないだけじゃないでしょうか。

 私はこの島で唯一の高校に進学する事を決めました。ここで結果を出してやると意気込んで。


「インターハイで全国に行くのが夢です」


 早速陸上部に入部届けを出した私は、最初の自己紹介でそう啖呵を切りました。後から聞いたところによると「やばい奴が来た」と先輩全員が思ったとの事です。

 それからは流行らないスポ根漫画のような練習の日々です。部活の練習だけじゃなく、自分でトレーニング方法を調べて実践したりもしました。

 家族は変わらずに私を応援してくれました。海猫荘も忙しいのに、サポートを惜しまなかった両親には本当に感謝しています。


 あの頃のうちは私を中心に回っていました。


 私の夢が家族の夢になったかのようでした。けれど今にして思えば、美夜はあの頃から胸に何かを抱えていたのかもしれません。

 そうして迎えた高二の夏。私は自己ベストのタイムで駆け抜け、ついに全国大会に駒を進めました。県での決勝戦、全ての力を出し切ったあの十数秒の鼓動。トラックラインの白さとゴールして見上げた空の青さを、私は一生忘れないでしょう。


「来年は一緒に全国に行きましょうね」


 大会からの帰り際、例のあの子にそう言ってやる事も出来ました。

 それからの私は町のちょっとしたスターでした。

 学校では全校集会で表彰され、ローカル紙や地方局の取材が来たり。お父さんが商工会で自慢気に話したせいか、皆が私の活躍を知っていました。


「おめでとう朝陽ちゃん。応援してるよ!」

「ほら、これ食ってってよ。うちのトンカツ。全国への権担ぎにさ」

「せーの、朝陽先輩頑張ってー!」


 行く先々で声をかけられるようになり、当時の私は目を白黒させていました。


「お姉ちゃんは昔から人気者だったじゃない」


 美夜はそう言いましたが、私にそんな実感はありません。


「太陽は自分が光ってるってわからないものなのかもねー」


 中学生になった美夜は読書に目覚めたようで、たまに難しい言葉や洒落た言い回しをするようになっていました。

 私はこういった周囲の変化で、初めて走る事へのプレッシャーを自覚しました。自分の為だけではなく、周りの期待を背負う覚悟が自分にはあるのか。幼い頃両親に感じていたような気持ちではなく、負けたらどうしようという危機感がずるりと胸の奥に染み出したんです。

 不安を打ち消すように私は練習に打ち込みました。

 頑張らなきゃいけない。夢に見た全国の舞台で自分は走るんだ。そう思うほど、ぬかるみに嵌まるようにタイムが落ちていきました。


「ねえ朝陽。最近ちょっと根を詰めすぎじゃない?こういうのって休むのも大事なんでしょう?」

「うん、わかってる。でも悔いが残らないよう、もうちょっとだけ」


 心配するお母さんの言葉も、焦りや不安に取り憑かれた私の耳には届きません。


「朝ご飯までには戻るから。行ってきます」


 玄関から一歩踏み出して感じる、微かな膝の痛み。

 自分の身体の声すら聞き取れない程、全国前の私には余裕がありませんでした。きちんとしたトレーナーがおらず独学で練習してきた脆さが、ここに来て顔を覗かせていました。

 そんな中で迎えた全国大会初日。前夜に降った雨で湿気が酷く、とても蒸し暑い日でした。この島は日本でも南の方にありますが、関東の暑さというのはまた異質なものなのだとあの時初めて知りました。


「朝陽大丈夫?もう少し水分採った方がいいよ」


 友人が差し出したスポーツ飲料を口に含み胃袋に流し込んでも、心の底のぬかるみは消えてくれません。加えて膝の痛みも無視できないものとなっており、テーピングで何とか誤魔化す始末です。


「やっぱり足、痛いんじゃない?」

「大丈夫。ここまで来たんだから、走らなきゃ」


 走らなきゃ?走りたいではなく?

 自問自答に答えを出す暇もなく、直ぐに予選が始まります。女子短距離百メートル走。ライバル達と一緒にレーンに並び、位置に着きます。

 客席に両親の姿を見つけました。けれど美夜はもう居ません。中学に上がった美夜は昔のように毎回くっついて来る事はなくなっていました。でもきっと、島から応援してくれていると、そう思っていました。

 昔からずっと変わらない、お手製の横断幕。それを掲げた両親が私をじっと見守っていました。不格好な右上がりで書かれた「駆け抜けろ!」という文字、それを見て不意に胸が熱くなりました。


 その時、本当に久しぶりに身体が軽くなった、そんな気がしたんです。


 ここはあの頃の駆けっこの延長線上だ。走るのが楽しくて、自分の足が誇らしかったあの頃の私。周囲の期待も、懸けてきた時間も、今は考えない。ゴールに飛び込むまで、ただ前へと進むだけだ。


 その時が来ました。調整したスターティングブロックに足を乗せます。両手を地面に付け、右足の膝を立てる。

 呼吸を整えて前を向く。微かな追い風を首筋に感じた。


 パン!


 地面を蹴り上げレーンに飛び出す。

 良いスタートでした。一歩、二歩と地面を踏み込み、トラックの反発力をスピードに変えていきます。


 これなら行ける!


 あと数メートルのゴールに向けて、更に加速しようとしたその時、身体がぐらりと傾きました。次いで右足に走る激痛。足に力が入らず、スピードそのままにトラックに倒れ込み、そして。


 私の夏は終わりました。

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