第三章 失せもの(3〜4)
3
新城夫妻の取材を終えて、僕らは再び兵藤さんの工房を目指した。
「新城さんたちの話は、なんていうかお腹いっぱいって感じでしたね。すみれさんが聞いたら泣いて羨ましがりそうでした」
「私が小さい頃から仲良し夫婦でしたよ。子供にも優しくて、スーパーに行くのが楽しみでした。試食のソーセージをおまけしてくれたり」
微笑ましい光景が目に浮かぶようだ。朝陽さんの子供時代か。男勝りで活発そうな少女の姿が目に浮かぶ。ふと神社で会った妹の美夜の事を思い出した。
「そういえば、昨日神社で妹さんに会いましたよ」
「美夜に?ああ、昨日は神楽の練習だったっけ」
「そうみたいですね。宮司さんから聞きました。その時に少し話したんですけど、美夜ちゃんは絶対に島を出るって決めてるんですね」
「美夜は成績も良いので合格も安泰ですしね。一緒に暮らせるのもあと少しだと思うとお姉ちゃんは少し寂しいです」
寂しいと言いながらもその表情はどこか明るい。快く送り出す気構えで居るのだろう。家族はどこに居ようと家族には違いない。
「そういえば、朝陽さんは島を出ようと思ったことは無いんですか?」
「んー、あるにはありましたけど、今はもうここで生きていくって決めているので」
その言葉は普段の朝陽さんらしからぬ歯切れの悪さを感じさせた。けれど次の瞬間にそんな気配は消え去り「でも目下の問題は島だと出会いが少な過ぎるって事ですかねー」と笑っていた。
兵藤さんの工房に到着し、先日のように引き戸を叩くと今度は内側から大きな声で「勝手に入ってくれー」という返事が返ってきた。遠慮なく工房まで足を進めると、大きな肩を丸めてろくろに向き合う兵藤さんの姿があった。
作業を進める彼の横には長方形の横に長い机があり、その上には成形した器が等間隔に並べられていた。恐らくこれが今日作られた器なのだろう。
「ちょーっとだけ待っててくれな」
太くごつごつした指先からは考えられないような繊細な動きによって、土の固まりが器の形になっていく。その様はまるで土くれが意思を持ち、生き物が立ち上がるかのようだった。
僕と朝陽さんはその様子を身じろぎもせず見守った。一心不乱に土と向き合う兵藤さんからは見ている者にまで緊張を強いる気迫が発散されていた。
やがて器の形が整うとそれをろくろから外し、机へと移動させる。ここから数日乾燥させ、いくつもの工程を経て完成するとの事だ。
どこかの工程で失敗してしまえば最初からやり直しになる。それは当たり前の事だけれど、普段からデジタルでものづくりをしている僕みたいな人間から見ると『元に戻す』や『バックアップ』が使えない制作には感嘆を禁じえない。
作業がひと段落すると兵藤さんが冷たいお茶を出してくれた。
「また待たせちまって悪かったなぁ」
僕らは工房の隅にある畳張りの小上がりへ移動し、小さな丸い座卓を囲んで座った。この小上がりは工房での客間としての役割を果たしているようだ。壁際にはいくつかの作品が並び、小さな冷蔵庫やコップといった食器類まで揃っている。
「さて、俺にはどんな話を聞きたいんだっけ?」
改めて形式ばった話し方をするのも気恥ずかしいけれど、臨機応変に話を持っていけるほどの技量が自分にはない。
気恥ずかしさを頭の隅に追いやり、僕は一通り訪ねるべき項目をこなしていく。兵藤さんはこういった取材に慣れているのか、記事にしやすいような回答をすらすらと応えてくれた。とてもアポを取っていた日に二日酔いでグロッキーだった人の対応とは思えない。
「最近取り組んだ仕事で印象深いものはあります?」
「うーん、最近と言えばやっぱりアレだな。見るか?納品は明日だけど、もう完成してるから」
「え、良いんですか?商品なんですよね」
「いやぁ、どちらにせよ皆が直ぐに見るもんだし大丈夫だろ」
僕と朝陽さんはその器を保管してある倉庫へと案内された。所狭しと器が並べられたその倉庫は、外の蒸し暑さとは無縁のひんやりとした空気で満たされていた。湿度も低いようで真夏の屋外に比べてとても快適だ。
「私もここは初めてだなぁ。あー涼しい」
彼女は深呼吸をして冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「流石に子供をここに入れる訳にはいかないからな。こっちだ」
手招きした棚の前まで僕らも移動する。兵藤さんは大きな身体で器用に歩いていくが、棚の間隔はやや狭く気をつけないとどこかにぶつかってしまいそうだ。鞄などは工房に置いてきて正解だった。僕は唯一持ってきたカメラのネックストラップをぐるぐると手に巻きつける。
目的の棚には透き通るような白い器が並んでいた。見たところ単一ではなくセットで作った器のようだ。
「これは、酒器ですか?」
疑問符がついたのはそれが普通の酒器よりも一回り以上大きいサイズだったからだ。徳利も一升どころではない量が入りそうだ。盃もまるで舞台で使う小道具のようなサイズだった。
「そうだ。これは週末の祭りで神具として使うものなんだ」
朝陽さんが「えっ」と声を出して驚く。
「あれ新しくなるんですか?毎年神楽で使ってるやつですよね」
町民にとっては馴染み深い道具らしい。
「ああ。実は去年の祭りのあと、神具を片付けてる最中に宮司さんが壊しちまったらしくてな。ほら、あの頃しばらくぎっくり腰で寝込んでたろ」
「そんな事もありましたね」
「宮司さん、ぎっくり腰が直ってからも壊しちまった事をどう話そうか悩んでたみたいでな。古い陶器の修理は出来るのかなんて俺の所に来たんだよ」
僕の頭に話好きで人の良さそうな顔が浮かぶ。
「流石にこっそり直すなんて事は出来ないからな。宮司さんを説得して皆に事の経緯を説明しに行ったんだ。そしたら新しい神具を作ってくれないかって話になったんだよ」
先祖代々の神具を壊してしまった事については、宮司さんが心配していたほどの非難はなかったという。壮年にもなると、皆ぎっくり腰の辛さを知っていたからかもしれない。
「実は宮司さんから相談を受けた時から作ってみたい気持ちはあったんだ。でもやっぱり俺は余所者だから、自分から口には出せなかった」
最初に新城さんが「兵藤さんに作ってもらおう」と推してくれたらしい。兵藤さんが「俺で良いんですか?」と、言外に余所者である自分で良いのかと訪ねても飄々と笑って言ったそうだ。
「大切なこの土地の神具です。この土地の土を良く知る人が作るのが一番でしょう。兵藤君なら、きっと立派なものを作ってくれます」
彼の一言で意見がまとまったそうだ。
「その言葉が無性に嬉しくてなぁ」
自分で作り上げた新しい時代の神具を愛おしそうに眺める。その横顔は充実感に満ちていた。
好きな土地で暮らし始めるだけなら、今の時代あまり難しくはない。だけど余所者が、そこで暮らす人々から受け入れられるかは別の話だ。その道のりはきっと想像よりも険しいものだろう。
この仕事こそ彼がこの町で真摯に積み上げてきた信頼の証なのだ。
僕がその器の背景に積み上げられたものに思いを馳せていると、遠くから玄関を叩く音が聞こえた。
「兵藤さーん、ちわーっす」
若里君の声だ。そういえば来ると言ってたっけか。遅いのですっかり忘れていた。
「おーう、勝手に入って工房で待っとけやー」
兵藤さんが地響きのような野太い声で応答する。声が大き過ぎてやや身がすくむ。彼の来訪をきっかけに僕らも倉庫を後にした。工房に戻ると、器の並んだ棚を眺めていた若里君がぱっとこちらを振り返り「どうもー」と気の抜けた挨拶をした。
「あれ、もう取材終わっちゃいましたか」
「大体な。星野さん、あと何か聞きたいことあるか?」
僕は今までの話を頭の中でざっと振り返る。うん、不足はない。
「大丈夫です。後はいくつか写真を撮らせてもらいたいんですが」
「おっ、良いですね撮影!見学しても良いですか、勉強させてください」
「おいおい、朝陽ちゃんだけでも照れるのにお前も居るのかよ」
兵藤が大げさに顔をしかめて見せると、若里君が途端に不機嫌な顔をになった。
「えー、俺はダメっすか」
唐突に空気が悪くなりかけた。しかし朝陽さんが絶妙なタイミングでフォローに入る。
「もう。若里君なに真に受けてるの。ただの照れ隠しなんだからいちいち気にしないの。兵藤さんが照れるなんて思えないのはわかるけど」
「なあ朝陽ちゃん、今日は一応仕事で来てるんだよな?」
「あら、いけない」
軽妙なやりとりで笑い合う朝陽さんと兵藤さんに比べ、若里君の表情はぎこちなかった。一人だけ輪の中に入りきれていない。協力隊に応募するくらいだから人と関わるのが好きなのかと思いきや、そうでもないらしい。
僕はそれを横目に、工房の中を歩き回り撮影するポイントを決めていく。ろくろに向かう姿、土に触れる指先、作品が並ぶ棚、小上がりで座って笑顔で話す様子。記事にしたときに欲しいカットを頭の中にピックアップする。よし、決めた。
どんな写真が撮りたいか兵藤さんに伝えて、軽くポーズを取ってもらう。出来れば先ほど見た作陶中の迫力を写真として切り取りたい。厳しさを湛える陶芸家としての顔と、日森町に馴染んで暮らす親しみやすい顔、その両方を捉えてこそ彼の魅力を読者に伝えられるはずだ。
僕は端的に指示を出し、何度もシャッターを切る。表情を捉える為のアングル。工房の空気感を伝える、並べられた器越しに覗くような構図などを次々とメモリーカードに保存していく。
普段の仕事では写真の内容まで指示する事はない。自分の手で納得出来る写真を用意出来る今回の企画は、帰ってから記事を作るのが楽しみだった。
「次はリラックスしたところを撮りたいので、小上がりに移動してもらえますか」
柔らかい表情が欲しいシーンでは、相手が居た方が良い顔を引き出しやすい。ちょうど良いので朝陽さんと若里君に話相手になってもらう事にした。指示は「楽しい話を」とだけお願いして中身は任せる。朝陽さんが居れば大丈夫だろう。
三人で適当な話をしてもらっている間に、僕は構図を変えながらシャッターを切っていく。必要な分は概ね撮り終えた頃、三人の会話が耳に入ってきた。
「そういえば、今日は奥さんの写真飾ってないんすね。いつもここに置いてるのに」
「......あぁ、まあな」
若里君の発言に二人は一瞬固まって口を噤んだが、やがて兵藤がそう静かに応えた。若里君の隣に座っていた朝陽さんが、小声で「バカ」と言い若里君の頭をぱしりと叩く。
奥さんが居るなんて初耳だった。けれどなんだろう、この微妙な空気は。撮影が止まっている事に気づいた兵藤さんとレンズ越しに目があった。その表情にはこれまでに見たことがないような寂しさが垣間見えた。
「あいつは十年前に死んじまってな」
椿の花のようにぽとりと落ちたその一言に、僕は言葉を失う。
それでも何か言わなければと絞り出した言葉は「何か、すみません」という何の意味もない言葉だった。誰もが口を開くのを躊躇っているような空気の中、兵藤さんが声を上げた。
「だー!ったくこういう雰囲気になるのが嫌だから仕舞ってたんだよ。四十も過ぎれば人間いろいろあるんだ。そんなに気を遣うんじゃねえ」
僕らは顔を見合わせて半端な笑顔を浮かべるのが精一杯だった。
二十代の僕等にはまだ人の死というものが身近ではない。世界のどこかでは今も死に瀕した人が居る。それを知識としてわかっていても、肌で実感する事は難しい。
兵藤は小上がりの隅にあった小さな箪笥の中から何かを取り出してテーブルの上に置いた。奥さんの写真が入ったフォトフレームだ。先日訪れた時は気付かなかったが、そこが定位置なのだろう。
「まあ、その、あれだ。あいつはさ、聡子は不運としか言いようのない事故で逝っちまった。今でもやりきれない夜はあるけどな、俺が死んだとき聡子に幻滅されるようなダサい生き方はしねぇと決めてんだ。だから今、こうやって頑張ってんのさ」
流石にシャッターを切るのは憚られて静かにその言葉を聞いた。朝陽さんも同様に静かだったけれど、一人空気の読めない男が居た。
「流石っすね兵藤さん!」
こういう他人の機微に疎いところが彼のネックなのだろう。やる気はありそうだが、自分の言葉がどう受け取られるかという想像力が足りていない。兵藤が大袈裟なため息をつく。
「......全くお前は。まあ良いか。それでこそ馬鹿者だ」
「馬鹿者って酷くないですか」
若里が憮然と抗議する。
「いやいや、古い地域を変えるのは”若者ヨソ者バカ者だ”って言われててな。その遠慮の無さでぜひ活躍してくれよっていう褒め言葉だよ」
「はぁ......」
引き下がったものの、若里君はまだ納得いっていない様子で、ぼそぼそと「でも俺はバカじゃないっす」と言っている。彼のそんな態度にも慣れているのか、兵藤さんは普段通りの態度で僕に撮影の進捗を尋ねた。
「室内はこれでOKです。あとは工房の外観をいくつか撮らせてもらっても良いですか?」
「おう。カッコ良く撮ってくれよ」
僕は荷物の中から三脚を取り出しレンズの交換を行う。
「あぁ、それと聡子の話は記事にはしないでくれな。こういう話をすると俺自身が変に注目されちまうからな。あくまで主役はこの町になるように書いてくれ」
一応メディアの端くれとしてその話題性に惹かれる気持ちもあるけれど、兵藤さんの言うとおりだ。彼ら夫婦の話と、町の事は別の話だ。
「大丈夫ですよ。先ほどインタビューした分で充分魅力的な記事になります」
「頼んだぞ。元々ここが好きだったのはあいつだけど、今となっちゃ俺にとっても故郷だからさ」
「奥さんはここの出身だったんですか?」
「んにゃ。出身は広島だったな。ただ聡子はこの町の高校に進学して、三年間はここの寮で生活してたそうだ。島留学の一期生って言ってたよ」
空と海に囲まれたこの場所での高校時代。寮で同級生たちと暮らす生活は、不自由な事もあるだろうがとても刺激的な毎日になりそうだ。僕は町中で見かけた高校生たちの姿を思い出す。
「この町は奥さんの思い出の場所だったんですね」
カメラの準備が出来たので僕らは工房の外に出た。兵藤さんに窯や庭を案内してもらいながら、それらを写真に収めていく。
撮影中も容赦無く照りつける日差しを背中に感じていた。あまり時間をかけると機材が熱を持ちそうだ。僕は手早く仕事を片付けようと集中する。
森を吹き抜けてくる風からは仄かに水の香りがした。日差しとは裏腹にひんやりとして頬に気持ち良い。
隣で兵藤さんがぽつりと呟いた。
「聡子と一緒にこの町に来たことは無かったんだけどな。ここで暮らしてると、時々あいつの声が聞こえる気がするんだよ」
それは例えば、大きな入道雲を見上げて「何あれ美味しそう!」と笑いかける無邪気な声。
夜風に乗って聞こえてきた風鈴の音に「きれいな音」と囁く声。
近所の子供が遊ぶ小さな打ち上げ花火に「たーまやー!」とあげる歓声。
彼の中には添い遂げようと誓った女性が今も生きているのだろう。
「特に夏はあいつの好きな季節だったからなぁ」
聡子さんは快活で大雑把で姉御肌な人だったそうだ。
海が好きで、世話焼きで、意外に涙脆くて。昔はぶっきらぼうでお世辞にも人付き合いが得意だとは言えなかった兵藤さんをぐいぐい引っ張って、連れ回して、ついには結婚に至ったらしい。
「奥さんとはどこで出会ったんですか?私、そこがまず想像出来ません」
兵藤さんがぽつぽつと漏らす思い出話に朝陽さんは興味津々だった。
初めこそ亡くなった奥さんの話という事で神妙にしていたけれど、当の本人が自分から昔話をしているので気にしない事にしたらしい。
若里君はこういった話には興味が無いらしく、僕の後ろにくっついて撮影の様子を観察していた。
「仕事だよ仕事。俺が駆け出しだった頃にやっていた陶芸教室の生徒でな。こう、手取り足取り」
「うーわっ、やらしー兵藤さん」
二人はすっかりいつもの調子で会話を弾ませている。
十年という歳月は短くない。その胸の虚空が塞がる事はないだろう。けれど生きていれば心は、気持ちは、否応なしに変わっていく。自分自身も変わっていく。
もしも突然僕の目の前から凛が居なくなったら、僕はどれくらいで立ち直れるだろうか。わからない。けれどそれでも、生きている限り日々は続いていく。
無慈悲に流れる時間の中で、折り合いがつく日を祈りながら、もしくは恐れながら生きていくのだろう。
凜の声が聞きたいな。
最後のシャッターを切り、僕は心の中でそう呟いた。
4
「記事がまとまったらまた連絡しますね。僕が帰ってからの執筆になるので、少し時間はかかってしまいますが」
「気長に待ってるよ」
取材の後片づけも終えて、これで今日の予定は全て完了だ。全体としても、インタビュー取材はこれで最後になる。残りは明後日に行われる祭りの様子を撮影するだけだ。明日は予備日となっている。これまで取材した内容を見直して、足りないものは無いか確認したり、場合によっては取材を追加したりする。
だがこの調子なら追加の必要は無いだろう。せっかくなので少しのんびりさせてもらうつもりだ。
僕と朝陽さんは車に乗り込んで工房を後にした。若里君も町まで行きたいと言うので後部座席に乗せている。
「星野さん星野さん、さっきの取材中に撮った写真、SNSにアップしちゃダメっすかね?」
若里君は後部座席から身を乗り出して、助手席に座っている僕にスマホの画面を向けた。
「んー、その写真だったらうちの取材だって言わなければ、まあ良いかな。ちゃんとぼかしておいてよ」
「あざっす!お祭りも明後日ですから、何かしら発信してどんどん日森町アピールしないと......よしっ。投稿しました」
若里君が再びスマホを見せてくれる。彼の似顔絵だろうアイコンを設定したタイムラインに、先ほどの写真が追加されていた。
「良かったら、フォローしておいてください」
「後で検索しておくよ」
見たところ彼のフォロワーは三千人ほど。それなりに多いがインフルエンサーと呼べる程ではない。町での暮らしや自分の活動の発信がメインのようだ。言った通りまめに発信しているようで僕は少し感心した。
唐突にスマホ画面が着信を告げるものに切り替わった。耳に馴染んだ軽快なポップ音が社内に響く。
「ちょっとすみません」
そう断って彼は画面をスワイプし、スマホを耳に当てる。
「はい、若里です」
あまり聞き耳を立てるのもマナー違反なので、視線を前方に戻し背もたれに凭れかかる。フロントウィンドウに目を向けると、濃緑の木々が左右に流れていく。
「あの、すみません」
「ん?」
電話を終えた若里君が再びこちらに顔を乗り出してきた。
「申し訳ないんですが、僕を港で降ろしてもらえませんか」
これは朝陽さんに向かって言った言葉だ。気のせいか先ほどまでの彼にはなかった、焦りのようなものがその顔に滲んでいた。しかし朝陽さんは「えー、さっき港に行く道通り過ぎちゃったよ」と難色を示す。
「本っ当にお願いします!どうしても直ぐ行かなきゃいけない用事が出来て」
「何かトラブル?」
「今は何も言えないんですがとにかくお願いします」
「まあ、私は星野さんが良いなら送ってあげても良いけどさぁ。この後って大丈夫ですか?」
一応僕の案内役という仕事中である朝陽さんは僕に判断を投げた。
「僕は大丈夫なんで、送ってあげてください」
しょうがないなぁと一言だけ漏らすと、朝陽さんは車をUターンさせて港への道まで戻る。若里君が「出来るだけ急いでください」なんて急かすものだから、曲がりくねった道を結構なスピードで走り抜いた車は揺れに揺れた。そのスピード感に転落しないかと冷や冷やしたが、朝陽さんは思いがけないドライビングテクニックを持っていた。動静の効いた見事なハンドル捌きだ。しかしその結果として、僕は港に着く頃には車酔いで動けない状態になっていた。
僕がグロッキーになっている間に、若里君はお礼を言って港の方に走り去っていった。この差は彼の三半規管が強いのか、それとも若さの違いだろうか。
朝陽さんが自販機で買ってきてくれた天然水を流し込み、海からの夕風に当たっていると気分がようやく落ち着いてきた。
「復活しました?課長からは絶対安全運転しろよって釘を刺されてたのについ本気を出しちゃいました」
今までの運転の方が仮の姿だったのか。
僕は面識がない課長さんに心の中で深く感謝した。僕の「大丈夫です」という返事を聞いて、彼女が再びエンジンキーを回す。
「じゃあ今度こそ海猫荘に帰りましょうか。シートベルトしてください」
「若里君は待たなくて良いのかな。彼、帰れないんじゃない?」
「うーん、ここら辺の終バスはまだだし、若里君が直ぐに戻ってくるかもわからないので帰って良いでしょう。大丈夫ですよ、彼だって町民なんですから」
それもそうだ。僕は言われた通りシートベルトを締め直した。
「ゆっくり行きましょう」
「ラジャ」
朝陽さんは軽く敬礼のポーズをとって快諾した。先ほどよりも大分速度を落として走る車窓から、僕は港を振り返る。
港の向こうでは夕陽が海をオレンジ色に染め上げる。まもなく町に夜の帳が降ろされるだろう。
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