第二章 対岸のアザーブルー(3〜5)
3
臨時職員として働き始めて一ヶ月が経った頃。
図書館開設のためにやるべき事は無数にありました。予算のやりくりや備品の注文、貸し出しシステムの整備など、目の回るような忙しさでした。それに司書資格を持っているとはいえ、実際に図書館で働いた経験はない。まして立ち上げとなると完全に手探りでのスタートでした。
特に難題だったのは選書。作るからには良い蔵書を集めたい。しかし良い本とは何なのか、全て読んでから決める訳にもいかない。町の未来に役立つ立派な図書館、そこにあるべき本とは何なのか。私は無限の大海に放り出された小舟のような心地で途方に暮れていました。
しかし時間は容赦無く進みます。私は目の前の仕事を一つずつ必死にこなす日々を送っていました。そんなある日、町長の講演会に同席してほしいという依頼が一応上役ということになっている役場の課長から舞い込んだのです。
なんでも「町の未来と町長の仕事」というテーマで行う小学生に向けた講演で、新設する図書館についても話すから一番詳しい人物を同行させたいとの事だった。
「話を聞いた時は気が重かったですねぇ。町長さんとはほとんど話した事はないですし、小学校は母校ですが別段良い思い出もありませんでしたし」
講演会当日はよく晴れた気持ちの良い日でした。
体育館に集まった全校生徒を前にして、とは言っても四十人くらいですが、町長はつつがなく講演を始めました。なるべく平易な言葉で、子供にも分かりやすく伝えようとする好感の持てる内容でした。
講演を終えて質疑応答の時間になると、町長は今まで喋っていた壇上から降りて生徒たちと同じ目線になるよう床に座るとよく通る声で言いました。
「今話したように私は君たち皆の為に図書館を作りたいんだ。どんな図書館にしたいか教えてくれないか?例えば左端の君、何か読みたい本はある?」
左側に並んだ高学年、おそらく六年生の女の子はいきなり指名されてどぎまぎしていたけれど「ハリーポッターの続きが読みたいです。学校の図書室には三巻までしかないから」と小さな声で答えました。
「いいね、あれは面白い。私も読んだよ。他にはどうだい?」
お調子者と思われる男の子が勢い良く手を挙げる。
「はーいマンガは良いんですかー?」
「ふむ、図書館に漫画を置いちゃダメというルールはなかったはずだよ。そうだよね?知野見君」
急に話振られた私も子供のようにどぎまぎしましたが、何とか模範解答を返すことが出来ました。
「公共の図書館である以上何でもかんでもという訳にはいきませんが、漫画自体は問題ありません」
子供たちが一気に盛り上がる。自分が好きな漫画を隣の子たちと話始める。
「みんな、彼は図書館作りのリーダーなんだ。読みたい本があったら彼にお願いすると良いよ」
それからは子供たちが僕と町長を囲んで、あれこれとお喋りが始まりました。好きな本の話や、どんな図書館にしたいか等、僕にとっても充実した時間になりました。
もちろん興味が無さそうな子も居ました。けれど子供達は思った以上に、新しい図書館を楽しみにしているのがわかりました。
寝転べる所が欲しい、お喋りがしたい、おやつも食べたいなど、私からすれば図書館ではあり得ないリクエストもありました。けれどせっかく新しく作る図書館です。常識に囚われる必要もないのではないか、そう思い直しました。
こんなに沢山の子供達が本を求めている。
皆それぞれ、手に取りたい本も、図書館に望むものも違う。そんな当たり前の事に、私はこの時ようやく気付きました。
この町に必要なのは私ひとりが考えた立派な図書館じゃない。
まず向き合うべきは本じゃなく、この町の一人一人でした。
私の仕事は図書館を通じて本と町民を繋ぐこと。それに気付いてからは、出来るだけ色々な人に話を聞けるよう機会を作っていきました。
その時には奇しくもあんなに嫌だった営業時代の経験が役に立ったりもしました。多くの人と関わるうちに、ボランティアを申し出てくれる方も出てきて、僕は随分と助けられました。
途方にくれていた選書も、図書館の輪郭が定まるにつれ、自然と決める事が出来ました。まあそれでも大変な作業ではありましたが。
私は一人じゃない。この図書館は望まれている。その実感が気持ちを奮い立たせ、多くの人に支えられてここは完成したんです。
語り終えた館長は「ちょっと大袈裟に話し過ぎたかもしれませんね」と照れ笑いを浮かべた。
「こんな話でお役に立てるでしょうか?」
夢破れて故郷に帰ってきた男が、周りに支えられ一つの事を成し遂げる。取材記事としては出来過ぎなくらいのストーリーだ。兵藤のところで挫けかけた気持ちがぐっと持ち直した。
「それはもう。この図書館の親しみに溢れた雰囲気の理由がわかりました。館長が慕われる理由も」
館長は恐縮して落ち着かない様子で、ごくりとお茶を飲み干した。
「いやいや私は運が良かったんです。図書館の新設のタイミングもそうですが、何よりこんな私を支えてくれた皆さんのおかげです。私は本当に恵まれています」
そこで取材を締めくくり、僕はボイスレコーダーの録音を止めた。続いて図書館内外の写真を撮影させてもらう。
書架の向こう側、大きな窓の向こうに広がる田園からは、やはりカエルの鳴き声が聞こえる。
暖かい色合いの木材で作られた本棚。そこに並べられた無数の本。この一冊一冊が、館長と町の人達を繋ぐ絆の賜物なのだろう。
僕はアングルを変えて館内を写真に納めていく。人物が入った写真も欲しかったので、そのうち何枚かは朝陽さんに登場してもらった。やはり登場人物が居た方が場の雰囲気は伝わるものだ。
「ねーねー、朝陽ねーちゃん何やってんのー?」
「モデルごっこかよ」
図書館に来ていた子供達がポーズを取る彼女を囃し立てる。朝陽さんがふくれっ面を作って「これ一応仕事だから静かにしてなさいっ」と注意しても聞きやしない。
僕は微笑ましいやりとりをカメラに収めようと、そのままシャッターを切り続けた。すました顔の時よりも、子供達に向ける表情の方が格段に良い写真になった。
折角なので子供達にも写真を撮って良いか聞いてみると、皆快諾してくれた。保護者への説明は朝陽さんが請け負ってくれたので安心だ。
賑やかな撮影の最後、僕は集合写真を撮ることにした。
貸し出しカウンターの前に並んでもらう。真ん中には館長、周りは子供達が囲み、朝陽さんにも隅に入ってもらった。
「よーしみんな、これから写真取るから良い笑顔頂戴ねー。でも緊張しちゃうかな、じゃあ朝陽お姉さんに面白いダジャレをお願いしましょうっ」
僕はことさら明るい声音で無茶ぶりする。
「はえっ!?」
びっくりして出したその変な声だけで、子供達に爆笑の渦が広がった。館長も一緒になって笑っている。
さすが人気者のお姉ちゃん。
「よーし、みんなそのままこっち向いてー」
パシャッ。
子供達の笑い声も、館長が子供達に向ける優しい視線も、この一枚に切り取れたら。そう思いながら小さなボタンをぐっと押し込んだ。
4
子供達に見送られ、僕らは図書館を後にした。
静かな田園風景が続く景色を車窓から眺めていると、先ほどまでの賑やかさが嘘のようだ。大きなカメラや余所の人間が珍しいのか、子供達は車を発車させる時まで纏わりついて来た。子供が発散するエネルギーは大人の比じゃない。
「まったく。酷いですよ星野さん。あんな無茶ぶり」
「いや、緊張をほぐすにはああいうのが一番なんですよ。ほら、みんな良い顔してる」
カメラを操作して先ほどの写真を見せようとするが「運転中に余所見させないでください」と叱られてしまった。
「ハカセさんの取材、上手くいきましたか?」
「ばっちりです。兵藤さんに会った時はどうなるかと思いましたが、館長からは凄く良いお話を聞かせてもらいました」
兵藤さんと比べちゃダメですよ、とでも言いたげな苦笑を彼女はその口元に浮かべた。
車は図書館がある町の中心部をやや外れて、東の方角へ向かっていた。兵藤さんの工房がある山とは反対側だ。そちらに次の取材相手の家があるらしい。
「次は関すみれさん。こちらは移住してきた方なんですよね」
「そうですそうです。すみれさん可愛い方ですよ。あ、私より年は上なんですけど」
「知り合いなんですか?」
「んー、知り合いというか仲良しなお姉ちゃん、みたいな感じです。小さな町ですからね。すみれさんが島に来たときに色々と世話を焼いた縁で」
「へぇ、さすが観光協会に勤めているだけあって顔が広い」
「観光協会っていうか実家の、海猫荘の方です。新しく島に来る人はだいたい一度はうちに泊まるので。すみれさん、凄かったんですよ。大きなキャリーケースに荷物をぱんぱんに詰め込んで来て、この町に住みたいから不動産屋教えてって言うんですもん」
「それはまた突飛な方ですね......」
館長が非常にまともだったので気が緩んでいたけれど、また不安になってきた。
鞄から田島さんの資料を取り出し、復習がてらざっと目を通す。
資料によると次の取材先、関すみれさんは一年前に日森町に移住してきたグラフィックデザイナーの女性だ。移住者の中では一番新しい部類に入る。
移住してきて暫くしてから手掛けた、この町特産のお茶のパッケージデザインがSNSを中心に拡散され、デザイン界隈で一躍注目を浴びた。その特徴的なパッケージは僕が購読しているデザイン誌でも見かけた記憶があり、賞も獲得していたはずだ。
成功した人なんだな。
そう思うと古傷がチクりと刺激された。
「あ、それ懐かしー。その仕事、私がすみれさんに紹介したんですよ。ちょうど新商品の相談に乗ってた方がデザインで悩んでたので」
「へぇ、そうなんだ」
業界誌に乗るような仕事がどのように決まるのか。一度も取り上げられた事がない自分にはわからないけれど、そうやって始まる仕事もあるんだなと思った。前職では営業が取ってきた仕事が次から次へと降ってきたので、そんな事を考える暇もなかった。
見知らぬ土地に来て、チャンスを掴んで、それが認められる。
その行動力は元より、チャンスが転がり込む幸運がたまらなく羨ましい。それは先ほどの館長にも言える事だった。
『私は恵まれています』
ホントだよ。僕だって努力をしてきた自負はある。だけど自分にチャンスは来なかった。運に恵まれ、出会いに恵まれ、背中を押されるような経験に出会えなかった。
最前線に食らいついてやるという己の意地と渇きを原動力に、必死にあの場所にしがみついていた。いつか順番が回ってくると信じて。
隣の朝陽さんに気付かれないように僕は資料の上にため息を落とす。
全部今更だ。こんな事考えて何になるっていうんだ。折り合いは付けたはずだ。諦めたはずだろ。馬鹿馬鹿しい。
資料から目を離し再び車窓を見やると、遠くでむくむくと成長していく巨大な入道雲が見えた。
5
関すみれの住まいは山の麓に立っている古い木造アパートだった。
いや、古いというよりはボロいと表現するの方が正しい。輝かしい活躍ぶりの女性デザイナーが好んで住むような物件には程遠い家だった。
一階と二階に二部屋ずつの小ぢんまりしたアパートで、階段には年季の入った錆が浮いている。階段の下に置いてあるスーパーカブは彼女のものだろうか。これも古いがちゃんと使われているもの特有の雰囲気がある。
車を降りて朝陽さんは軽やかに二階への階段を上がる。カンコンカンとリズミカルな音が鳴った。
インターホンを押すと時代を感じさせるチャイムが響く。兵藤さんの時のように何度鳴らしても出てこない......なんて事にはならず、直ぐに返事が返ってきた。
「はーい、どなたー?」
「すみれさーん、朝陽だよー」
「お、どしたどした」
返事を聞いて直ぐに駆け寄る音がしたかと思えば、鍵を開ける音もさせずにドアはガバッと開いた。この町では施錠の習慣が無いのだろうか。
「やっほー、すみれさん。今日はお仕事で来た......んだけど、も」
出てきた関すみれさん二十六歳はノースリーブにジャージという油断しきった格好で出てきて、ノースリーブの隙間からは下着がちらりと見えていた。
僕は自然と吸い寄せられる視線を理性で引き剥がして顔を上げると、ぽかんとした表情の彼女と目が合った。彼女は僕を認識した途端に凄い勢いでドアを閉めた。その衝撃でアパート全体が僅かに震えた。
「え、何、朝陽ちゃんその人誰っ」
ちゃんとアポは取ってあるはずなんだけどなぁ。
関さんはその後、二十分は部屋から出てこなかった。やはりアポはしっかり取ってあったが日付を勘違いしていたらしい。朝陽さんとのドア越しの会話で説明してくれた。壁が非常に薄いのかドア越しでも難なく会話が成り立たった。
ドアの前で待ってる間、部屋の中で何かを落としたらしい派手な音や、「痛ぁっ」とどこかに小指でもぶつけたらしき悲鳴が聞こえてきた。
「これ、大丈夫かな?」
「すみれさんもいつもこんな感じです。流石にさっきの格好で取材する訳にもいかないでしょう。まあのんびり待ちましょうよ」
「すぐ行くから待っててくださーい!」
こちらの会話が聞こえていたようで、部屋の中から返事が返ってきた。
僕と朝陽さんは顔を見合わせて苦笑する。島に着いてからなんだか苦笑してばかりいる。
暫くすると身なりを整えた彼女がおずおずと出てきた。白いブラウスに明るい色のジャケット、それに合わせたパンツスタイル。ボブカットの頭に、おしゃれな大きめの眼鏡をかけている。
先ほどのぼさっとした頭のノースリーブ姿と同じ人物だとは一見して思えない。ファッションて凄い。
「大変お待たせしました......先ほどはお見苦しいものをお見せしてしまって」
「忘れるのでどうか気になさらないでください。大丈夫ですよ」
そうやって僕が大人として残念な出会いをスルーしようとしたのに、横から朝陽さんが茶々を入れる。
「それにしても着替えに時間かけすぎじゃない?いつもはTシャツにジーンズだけじゃん」
「余計なこと言わないっ」
「えー」
関さんがキッと朝陽さんを睨む。じゃれあうような掛け合いに僕も自然と笑みがこぼれた。緊張もほぐれた事だしそろそろ仕事に入らなければ。
「それじゃあ、そろそろ取材を始めたいんですが良ければ仕事場にお邪魔させてもらっても良いでしょうか」
「仕事場って言っても......」
関さんは閉まっているドアの方を見て躊躇する。沈黙が五秒。返事を待っていると、関さんの代わりに朝陽さんが答えた。
「すみれさんちって基本汚部屋だもんね。そりゃ入れられないか」
「おべや?」
脳内で漢字変換が出来ずに僕は聞き返す。
「いえ、今ちょ、ちょーっとだけ散らかってるのでどこか別の場所行きましょうそうしましょう。あ、私がよく通ってる海の家なんてどうです。写真映えするロケーションもありますよ」
慌てて代案を提案するほど酷い部屋なのか。そこまで動揺されると逆に見てみたくなるけれど、初対面の女性の部屋に押し掛けるのも悪い。デザイナーの部屋がみんなカッコイイなんて幻想は持っていない。うちだって普通だ。凛が綺麗好きだから掃除は行き届いているけども。
大人しく彼女の希望を聞くのが最善だろう。
僕達は「えー、部屋ならいつもみたいに私が片付けてあげるのにー」と渋る朝陽さんを引っ張って車に乗り込んだ。
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