第一章 あの日の残滓(6〜7)
6
病院の静かな廊下に響く豪快な笑い声。それが田島さんの声だと直ぐにわかった。元気だという話は本当のようだ。
「わっはっは、そうだろうそうだろう」
「マジかよヤベェなおっちゃん」
開けっ放しになっている相部屋の病室を覗くと、田島さんが隣のベッドの住人らしい金髪の若者と何やら盛り上がっていた。二人とも足を包帯で吊っているところを見ると、同じ骨折仲間なのだろう。
「田島さん、相変わらずですね」
声をかけると大きな顔をこちらに向けてとびきりの笑顔を見せる。
「おーう、星野君!良く来てくれた。嬉しいぞ」
僕は手荷物を床に置いてベッド横の丸椅子に座る。
「入院中にこう言うのは何ですが、元気そうで良かったです」
「骨折以外はぴんぴんしてるからな。仕事も出来ないし暇で暇でしょうがないと思っていたら、この翔太君が仲良くしてくれてな。たまには入院も悪くない」
どうも、と金髪の若者が会釈するので僕も簡単に自己紹介をした。見た目はチャラいが中身はそうでも無いらしい。
「悪いなぁ翔太君。俺は星野君と仕事の話をしなきゃいけないから続きはまた今度な」
「いーよいーよ、俺ゲームしてるから。じゃ、また後で〜」
翔太君はひらひらと手を降って間仕切りのカーテンをしゃっと閉める。
「星野君、今回はこんな事になってしまって本当に申し訳ない。代打を受けてくれてありがとうな」
ベッドの上で深々と頭を下げる田島さんに、僕は恐縮してフォローを入れた。今までお世話になりっ放しなのはこちらの方だ。僕個人どころか、うちのメディア事業に田島さんより貢献しているライターは他に居ない。
「そんな、やめてくださいよ。事故だって完全に相手の過失だったわけでしょう。困った時はお互い様です」
そう言うと田島さんは下げた頭をひょいと上げて「星野君にそういってもらえると気が楽になるよ」と人懐こい笑顔を見せた。
「それじゃあ、ちゃっちゃと引き継ぎしちゃおうか」
田島さんは僕とは反対側のベッド横に置いてあった愛用の黒いボストンバッグの中から、今回の取材のために準備した資料を取り出して説明してくれた。
全体のスケジュールや移動ルート、宿泊先などに加えて取材対象の概要などが几帳面にまとめられていた。それに加えて取材時の想定問答リストなどもあり、これがあれば不慣れな僕でもなんとか取材出来そうだ。
「この資料は説明しやすいように印刷したけど、後でデータでも送っとくわ。デバイスでも見れた方がやりやすいだろ。何か質問はあるか?機材はあるんだっけか」
「はい。カメラやレコーダーは会社のものがあるので大丈夫です。正直僕一人での取材は不安だったんですが、これだけ準備して貰ってるなら少し不安が晴れました」
田島さんは「いやいや暇だったからな」なんておどけた調子で嘯くが、わかりやすいようわざわざ資料を作ってくれたのは一目瞭然だ。
「でもまあ、どれだけ備えても想定外が起こるのが現場の常だからなぁ。不安だったらメールで経過教えてくれりゃ毎日チェックしとくからさ。気構え過ぎずに行ってこいや。何よりこっちに余裕がないと相手も緊張して話づらいからな」
田島さんほど相手の懐へ飛び込んでいける自信はない。僕は曖昧な笑顔で「努力します」と答えた。
「ありがとうございました。また何かあれば連絡しますね」
資料を鞄にしまっていると、隣のカーテンがまたしゃっと開いて翔太君が顔を出した。僕らの会話からもう用事が終わったのを察したらしい。
「なあなあ、おっちゃんて何の仕事してんの?」
「俺は文章書いて飯を食うのが仕事。専門、というか得意分野は旅と取材だな。だからバイクにも詳しかったのさ」
ほらよ、と田島さんはボストンバックから名刺を取り出して若者に渡す。
「フリーライターってやつ?格好いいなぁ」
「別に格好いいもんじゃねぇぞぉ、十代の頃からこの業界に居るけど稼ぎは少ないわ不安定だわで大変だよ。この年になってもバイトで食い繋ぐ時があるしな」
言葉とは裏腹に田島さんの表情には大変さが微塵も感じられない。どんな言葉よりもその表情が、それらの苦労をひっくるめてもこの仕事が好きだという気持ちを雄弁に語っていた。
ここにも夢を叶えた人間が一人。
きれいな水に一滴だけ落ちた墨汁のように、薄い濁りが胸に広がる。
「すげえなぁ。オレ来年就活だけど全然働ける気がしねぇよ」
「おいおい弱気だなぁ。やりたい事が見つかりゃ人間なんとかなるもんさ」
翔太君は感嘆とも嘆いているとも知れないため息を漏らす。僕には彼の気持ちが何となくわかった。
やりたい事が明確にわかっている人間なんてほんの一握りだ。例えそれが見つかったとしても、実際に夢を掴める人数には限りがある。
世の中は、あまり優しく出来てはいない。
「じゃあ、僕はこれで」
「おう。連絡楽しみにしてるわ」
そう言う田島さんの力強い声に背中を押されるように、僕は病院を後にした。
7
出発までの数日は、残していく業務の引き継ぎや慣れない旅支度であっと言う間に過ぎていった。
旅程やチケットなどは田島さんが全て手配済みとはいえ、僕自身が全く旅慣れていなかった。
「うちには大きなキャリーケースなんかないからなぁ。レンタルが良いんじゃない?」
六日間も離島へと出張する、という話を聞いた凜は一瞬表情を固くした。しかし直ぐに「ま、仕事だもんね。週末なんてあっと言う間だし、早めに荷造りした方が良いよ」とため息混じりに許してくれた。
社会人になってから長期間の旅行なんて行ったことがないので、凛が一緒に荷造りを考えてくれてとても助かった。持つべきものはしっかり者の愛妻だ。
夫婦で旅行に行くときは大抵凜が主導権を握る。仕事では一応生真面目で通っている僕だけれど、こういったプライベートな予定ではずぼらになりがちだった。毎度凜に呆れられ、上司に従う部下のように準備を進めるのが常だ。
僕がぼんやりしている間にも凜はてきぱきと動き周り、必要なものを床に並べていく。洗面用具にタオル、モバイルバッテリーなどが次々と出てくる。
自分の家なのに見覚えのないものがちらほらあった。いつの間に買ったのだろう。一緒に暮らしていても案外知らない事はあるものだ。
その様子をただ眺めていたら「秋人くーん、私にばっかり準備させてるぞー」と叱られた。
「全くもうっ。泊まる宿って洗濯とか出来るんだっけ?その辺てわかるの?」
「ちょっと待って」
田島さんから貰った資料に確か宿の情報もあったはずだ。右上をホッチキスで止められた資料をぺらぺらめくると目的のページが見つかった。
《海猫荘》
それがお世話になる宿の名前だ。
資料によると朝食付きのプランで予約してあるようだった。どうせなら夕食もついてる方が良かったのにと思ったけれど、田島さんから「取材の案配によっては夜は飲みに誘われるかもしれないから空けておけ」と言われていた。
宿の詳細情報のところに洗濯可の文字を見つけたので、凜にそう伝える。
「じゃあ三セット持っていけば良いかな。現地でちゃんと洗いなよ」
じろりと釘を刺すのを忘れない。全く出来た妻である。
「へぇ、雰囲気の良さそうな宿だね」
僕の隣にちょこんと座り、手元にある資料をのぞき込む。田島さんの資料には宿の外観や室内の写真が四枚ほど載っていた。
「......ねぇ、私も一緒に行っちゃダメかな」
さっきまでのはきはきした物言いではなく呟くような問いかけだった。鈍い僕はそこに見え隠れしていた機微に気づくことは出来ない。
「いやいや凜さん、これ仕事ですからね。しかも慣れない取材で全然楽しめる気分じゃないし。旅行だったら来月にでもゆっくり行こうよ」
からかい混じりにノーと答える僕に、彼女も調子を合わせてくる。
「ちぇー、秋人君が浮気でもしないか見張りに行きたいんだけどなー。ほら、その資料に宿の娘さんに案内してもらえって書いてあるし心配だなー」
そう言いながら寄りかかって来る凜のつむじを見ながら僕は余裕で笑い飛ばす。
「何言ってるんだか」
えー、ホントだよぉと返ってくる声に緊張感はない。
「早く帰ってきてほしいなー」
「そんなに寂しがり屋じゃないだろ?」
「んー、今はそういう気分なの」
今日は随分甘えん坊らしい。そう言いながらくっついて来る凜を抱き寄せキスをする。
結婚記念日からの気まずい雰囲気が舌先から溶けていくような気がした。
資料を手放し、凜の身体に手を這わせようと柔らかな太股に触れたあたりで、凜は顔を離してもたれ掛かっていた身体を起こした。
「ごめん、今日はダメ」
高ぶった欲望はやり場を無くして宙を彷徨っていたが、こういう時の凜は押しても無駄な事はよく知っている。それにもう自制が効かないほど若くもない。
「じゃ、続きは帰ってきたらって事で」
ことさら軽い口調でおでこにキスをした。
「うん。待ってるね」
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