第一章 あの日の残滓(4〜5)
4
午後六時、東海道線の車内にはまだスペースに余裕があった。本格的な帰宅ラッシュまではまだ少し時間がある。
吊革につかまって車窓の向こう側を眺める。夕日に染まる街並みが美しい。僕はこの車窓から見える風景が好きだった。まるで額縁に収められた絵画のように鮮やかな一瞬に出会えることがある。
一日の終わりのささやかな楽しみ。これも転職して変わった事の一つだ。
今日の企画会議でのプレゼンは、慌てて資料を準備した割には好感触だったようでほっとした。
新製品のロゴとデザイン展開に関する説明は、我ながら理には叶っていたと思う。具体的な数字と時事を織り交ぜた内容に部長たちも頷いていた。手応えはあった。
その感触は進藤さんも同様だったらしい。会議室を出た所で僕らに話しかけた彼女の声は明るかった。
「あの雰囲気なら行けるんじゃないかな、多分。だから今夜はぱーっと行かない?」
「あはは、今日飲みに行って大丈夫ですかぁ。進藤さん記憶飛ぶタイプでしょう。仕事忘れちゃうんじゃないですかぁ?」
同じチームで主にイラストやライティングを担当している町村さんが、声優のような甘い声でからかっている。彼女は社歴で言えば僕と同期だ。この案件は彼女と僕と進藤さんの三人チームで取り組んでいた。
「良いの良いの。ひと段落したら楽観的に一回忘れてリセットした方が、また新しい考えが浮かぶってもんよ。だから今夜はいーの。奢るよ?」
やったぁと無邪気に喜んでいる町村さんには悪いけれど、僕はその誘いを受けられない。
「すみません、今日は大事な予定があるので僕はパスで」
「あら、私の飲みを断るなんて良い度胸ね」
台詞は高圧的だが顔は冗談だと笑っているので怖くはない。社内でも進藤さんは面倒見の良い姉御肌な人として通っている。彼女を慕う若手は多い。こんな事で気を悪くするような人ではないのだ。
僕は正直に理由を白状する。
「今日、実は結婚記念日でして」
町村さんが「愛妻家だー」とからかってくるがスルーする。もう冷やかしにいちいち反応するような年じゃない。
「あらあら羨ましいこと。じゃあ今日は町村ちゃんと二人で女子会ね」
今度は冗談じゃなく本音が混じってそうなところには気付かないふりをして、僕はその場を後にした。
転職するまで、平日の夜に恋人と待ち合わせてデートが出来るような働き方があるなんて想像もしていなかった。今は恋人じゃなく妻だけれど。
今の会社である『ライフトーン』の労働環境はかなりまともだ。転職活動の際に同じ轍は踏むまいとしっかりと調べた甲斐があった。
以前の会社は受託やコンペが中心のいわゆる制作会社だったが、ライフトーンの主な事業はメディア事業とECサイトの運営、それに加えて最近は自社プロダクトの開発・販売にも力を入れている。
僕はそこの企画・デザイン室に中途採用として入社した。
既存のデザインのブラッシュアップはもちろん、新製品やイベントなんかにまつわる印刷物等を担当している。いわゆるインハウスデザイナーだ。
もちろん仕事として大変な事はあるけれど、デザインするのは自社の商品なのでスケジュールは立てやすいし、各部門を横断して建設的な話し合いもしやすかった。少なくとも金を払ってる方が偉いと言わんばかりの高圧的なやりとりや、こちらのスケジュールを無視した一方的な要求は無い。
それに上司や先輩も良い人ばかりだ。前の職場に比べて焦燥感や飢餓感のようなぎらぎらした空気はなく、ゆとりを持って丁寧に良いものを積み上げていこうという雰囲気が多数を占めている。
心身ともに健康になったし凜との時間も随分増えた。
転職して本当に良かったと、そう思っている。
「お待たせ」
待ち合わせ場所に着くと、普段よりお洒落な装いの凜が待っていた。いつも思うけれど彼女は姿勢が良く、立ち姿が綺麗だ。
「今年はちゃんと時間通りね。偉い偉い」
「今の会社はマネージャーが優秀だからさ」
以前の会社では結婚記念日だろうとなんだろうと、約束の時間を守れた事などほとんど無かった。
凜は小さい子供にするように、少し背伸びをして僕の頭をぽんぽんと叩く。その仕草に抵抗するように、僕はその手を引いて歩き出す。
転職が決まったタイミングで凜にプロポーズをした。
退院と共に会社を辞め、療養しつつ次の就職先を探していた時も彼女はずっと僕を支えてくれた。
自分が弱っていた事を差し引いてもその事実は胸を打ち、彼女と共に生きていきたいという気持ちは僕の中で確かなものとなった。
就職が決まるまで待ったのは僕のささやかなプライドだ。支えてもらうだけじゃなく、僕も彼女を支えられるという根拠が欲しかった。凛の親御さんも無職が相手では心配するだろう。
そうして就職を決めた後、満を持して結婚を申し込んだ。僕らはその日のうちに婚姻届けを提出し、晴れて二人は夫婦となった。
ちなみにプロポーズの詳細は僕らだけの秘密だ。
予約した店は高級という程ではないにしろ、僕らにとっては滅多に行かないようなお洒落なレストランだ。入り口のドアを開けて中を見渡すと、客は皆フォーマルで隙のない服装をしていた。ドレスコードは無かったはずだけど、自分が場違いでないか少し気になる。
予約していた星野ですとスタッフに名前を告げる。案内されたのは夜景が見える窓際のテーブルだ。
横浜の夜景は明るく華やかだ。建物自体は3階建てだが、丘の斜面に建っているおかげで遠くまで展望が広がっていた。人の営みが作り出す光の絨毯、ゆっくりと動いて見える小さな赤い光は車のテールライトだ。更に奥の方に見える真っ暗な空間は海だろうか。ナイトクルーズ船か、黒一色の中に大きな船が煌々と光りながら浮かんでいた。
「一度こういう所に来てみたいと思ってたけど、やっぱりちょっと落ち着かないね」
ウエイターに椅子を引いてもらうのにもどぎまぎしていた凛が苦笑する。
「僕も同じこと思ってた」
二人でくすくすと笑っていると、テーブルにあるキャンドルの火がつられて揺れた。
適度に薄暗い照明の中で、僕らは他愛もない会話を楽しんだ。
前菜、スープとコース料理が進み、メインが来る頃には僕はほろ酔いですっかりリラックスしていた。凛は下戸なので葡萄ジュースだが同じく寛いでいる。
「やっぱり良いお店は美味しいね。このお肉絶品っ」
「また来たら良いじゃん。十年後の結婚記念日までには、ここが似合う大人を目指そうぜ」
えー、それは難しいんじゃないかなぁとはにかむ彼女が可愛らしい。照れると無意識に頬を触る癖も、普段はしっかりしてるのに二人きりだと少し甘えてくるところもたまらなく好きだ。
あぁ、酔ってるなぁ。
ふと、凜がこちらを伺うような視線をしている事に気がついた。
「ん、どうした?」
「あのね、秋人」
そこでウェイターがすっと近づいてきて飲み物のお代わりを尋ねてきた。
メニューに目を落としながら決めかねている僕に「ワインの銘柄なんてわかるのー?」と凜がからかう。
まあおっしゃる通りですけど、一つずつ銘柄を読んでいるうちに知ってる銘柄を見つけた。前にシゲが好きだと言ってよく買っていたワインだ。あいつの家にはこれが常備されていて、散々蘊蓄を聞かされていた。
ウェイターにそれを訳知り顔で注文して凜にどんなワインか教えてみたけれど、終始胡散臭いという顔をされたので観念して種を明かす。
「そんなことだろうと思った。多賀谷君、ワイン好きだったもんねぇ」
凜とは学生時代からの付き合いなのでもちろんシゲの事も知っている。
大きなプロジェクトの前日、一人暮らしをしていた僕の家でシゲと夜通し作業をする事が頻繁にあった。お腹を空かせた僕らの為に彼女は夜食を作ってくれた。懐かしい思い出だ。
シゲが「星野に嫌気が差したら俺のとこに来いよ」なんて半ば本気で凛を口説くものだから、思い切り頭を引っ叩いたりもした。他愛ない一言にむっとしていた過去の自分に、若かったんだなぁと今なら思う。
あいつと比べて、自分に自信が持てなかった。今でもあいつに勝てる自信はないけれど、凛に関してだけは別だ。なんたってもう夫婦なのだ。
「懐かしいねぇ多賀谷君。前に会ったのは結婚式の二次会だっけか。今も忙しくしてるのかな」
酔いも手伝って過去を彷徨いかけた心を、凜の声が現在に引き戻す。
僕らの結婚式の時、シゲも披露宴に招待していたのだけれど、仕事が終わらずに到着したのは二次会の途中だった。ご祝儀は置いていったがせっかくの料理を食べられ無かったと相当悔しがっていたっけ。
今のあいつはきっと、あの時以上に多忙な筈だ。凛にシゲの近況を伝える。
「今日アドポスのニュースであいつの名前を見たよ。世界的な広告祭で賞を獲ったって」
「すごいじゃん!友達にそういう人が居るのって何だかちょっと誇らしいよね」
凜の素直な驚きと嬉しそうな表情に、ちくりと胸の痛みを感じた。
僕は「まあね」と曖昧な返事しか返せず、そんな自分にまた嫌気がさした。
「昔から酔うと俺は必ずトップになるんだーって喚いてたもんねぇ」
ただの思い出話なのに、胸の奥に粘り気のある黒い油のような嫌な感触が広がる。
凜、覚えてるか。
僕だってあいつと同じように息巻いてたことを。
「そっかぁ、多賀谷君は夢を叶えたんだね」
多賀谷君『は』。
窓の外の夜景に散りばめられた光が、先ほどよりもすっと暗くなった気がした。
相槌を打つことが出来ずに、僕はキャンドルの火を見つめる。
小さな炎が蛇の舌先のように揺れている。
「あ、そうだ何かお祝い送ってあげようよ。それこそワインでもさ」
適当に頷くだけで良かったはずだ。それだけで良かった。けどそれだけの事が今はうまく出来なかった。
「秋人?」
「......僕だって」
声を出した瞬間に、心臓から頭へ電流のように血が上るのがわかった。こめかみに痺れたような感覚が残る。
「あの時倒れてさえいなければ、きっとあの広告祭にも参加してた。あいつとあの場で再会して、競って、勝ってたかもしれない。あの時、倒れてさえいなければ......」
頭の中のどこか遠くの方で、冷静な自分がやめろと必死で叫んでいた。それ以上言うな。後悔するぞ。しかし理性からの必死な警告も、生々しいこの鼓動にはまるで抗えなかった。
「僕だって、もっとやれたはずなんだ」
喉に詰まっていたものを最低な形で吐き出してようやく僕の口は閉じた。言ってしまってから、今度は強烈な羞恥で顔を上げられなくなった。
みっともない。ガキかよ。
入院した時、これ以上情けない姿なんてないだろうと思ったけれど、これはあの時の比じゃない。
「秋人は」
沈黙の末、ようやく発せられた凜の声に視線を上げる。彼女は少し困ったような顔をして続く言葉を口にする。
「後悔してるの?あの会社を辞めたこと」
「それは......」
反射的に答えようとして、だけど自分がどう思っているのかわからずに口を噤んだ。
「......わからない」
「私は、もうあんな秋人は見たくない。自分を大事にしてほしい。だから秋人の選択は間違ってなかったと思うし、またあんな無茶をするなら止めたいと思う。だけど」
やはり少し困ったような、何かを堪えるような、無理を感じる笑顔でゆっくりと宣言する。
「秋人が本当にやりたいなら、私も応援するよ」
その表情が、仕事に忙殺されすれ違っていたあの頃の凜を思い出させた。
約束を仕事でドタキャンする度に電話越しに聞いた声。久しぶりに会った時にふと垣間見る横顔。忘れる事が出来ない記憶が僕を揺さぶった。
シゲに感じる悔しさも、凜に対する想いも、どちらも本物だ。ならば僕は何を選ぶべきなのだろう。
せっかくの結婚記念日だというのに、その日は気まずい雰囲気のまま店を後にした。せっかく美味しい料理だったのに、再びここを訪れる日はもう来ないかもしれない。
5
「え、出張ですか?」
僕が所属するデザイン部では週に一度、メンバーのリソースを把握、調整するための定例を行っている。ここでは各々が担当案件の進捗や懸念を報告し合い、トラブルがある場合は上長の裁量の下で対応も決めていく。
例えば、作業速度から来る遅れや案件の抱え過ぎといった個人レベルのもの。または新製品の仕様変更や上層部からのちゃぶ台替えしといった、どうしようもない天災のようなものまでトラブルの種類は多岐に渡る。
しかし前職の環境が過酷の極みだった僕にとっては、いずれも可愛いレベルのトラブルでしかない。解決に向けて一丸となる建設的な話し合いはいっそ楽しくすらあった。それに少しくらいトラブルがあろうとも皆が定時で帰れるようなマネジメントが成り立っている奇跡のような環境なのだ。ここに来て、マネージャーの質が組織の質を左右するという事を日々実感している。
だから今回起きたトラブルはかなり珍しいものだ。僕を名指しした進藤さんの声も非常に申し訳なさそうだった。
「急な話で本当に申し訳ないんだけど、この取材をお願いする予定だった田島さんが事故で骨折して入院しちゃったの。今からじゃ信頼出来る代わりを探すのも難しくって。星野君なら案件も把握してるし、写真も任せられるから適任なの。もちろんその間にやる予定だった仕事は私達で巻き取るし、休日出勤分の手当は出るから」
お願い出来ないかな。進藤さんからそんな風に頼まれたら断れない。彼女には本当にお世話になっているし、純粋にこの人の為にも頑張ろうという気が起きる。自分にそれなりの義理堅さがあるなんて、前職の頃には全く気がつかなかった。
その土日に外せない予定は無いし、久しぶりの一人旅というのにも心惹かれるものがある。凛とは結婚記念日の一件以来どこか気まずいままだ。
「わかりました。謹んで行かせて頂きます」
「本当にありがとう!じゃあ星野君は来週火曜から島根に出張ってことで。その間の仕事の割り振りだけど......」
思いがけない成り行きで離島への出張が決定した。
移動も含めて六日間の、やや長めの出張となる。仕事内容は、うちが運営するウェブメディアで掲載する特集記事の取材である。ちなみに普段はそのメディア自体のデザイン改善や、掲載する写真のクオリティチェックやレタッチ、撮影なんかを行っている。撮影現場での仕切りは元広告畑の自分が得意とするところだった。
特集記事の趣旨は、離島での暮らしとそのローカルコミュニティを取材することで都会とは異なる生活、働き方の在り方を伝えるというものだ。なぜその島で暮らすのか。コミュニティの活動。何気ない日常の一瞬。そういった事柄を取材し、一連の連載記事として仕上げていく。
企画のきっかけは、うちのECサイトでも作品を取り扱っている陶芸家がその離島に住んでいた事から始まった。なんでも近年、その陶芸家も参加している島のコミュニティが俄かに注目を集めているらしい。初めは有志が自主的に行っていた活動が島民に支持され初め、継続的な取り組みを通じて行政の目にも留まり、最終的に島が一丸となる大きな流れとなった。
その結果として、減少する一方だった島の人口が徐々に増え始めたのだ。
《奇跡の島》
検索してみるとそんな見出しが付いていた。僕自身もその島の評判は耳にした事がある。広告の最前線に身を置いていた頃、その島を一躍有名にしたキャッチコピーが広告賞を受賞していた。そこではここ数年盛んに呼びかけられている地方創生、コミュニティデザインの成功例として紹介されていたはずだ。
この会社に来てから取材自体を任されるのは初めての事だ。こればっかりは前職でも未経験だったが、学生の頃にシゲと一緒にやったプロジェクトで何度か経験した事がある。それに記事の完成型がどんなものになるか、それもイメージは出来る。しかしプロとして仕事をするとなると心許ないのも確かだ。
そんな僕の心中を察したわけではないだろうが、定例が終わると進藤さんから取材の進め方についてのアドバイスがあった。
「まずは今日の午後に田島さんの所に行って頂戴。入院はしてるけど単純な足の骨折でそれ以外はぴんぴんしてるみたい。本人から引継資料を作ったから面会に来てくれって連絡を貰ってるの。電話じゃ相変わらず元気そうな大声で、入院してるなんて思えないわ」
「田島さんらしいですね」
スマホを耳から話すジェスチャーを交じえて説明する進藤さんに苦笑して同意を示す。
僕は一度会ったら忘れられない田島さんの顔を思い出す。
彼はフリーのライター兼フォトグラファーで、いつも日本中を飛び回っている気のいいおじさんだ。丸っこい熊みたいな体格に髭面を乗せた厳つい風貌なのだが、常に笑みを絶やさないその表情と物腰のおかげで親しみやすい雰囲気を身に纏っている人だ。
『森のくまさん』に出てくる親切な熊のような田島さんは、大雑把に見えて細やかな気遣いの人であり、取材で行く先々の人と親しくなる天才だ。相手が心を開いている事が伝わる田島さんの記事は、なんていうか生きた人間の血が通っているのだ。
田島さんの代打を勤めるのに気負いがないと言えば嘘になる。けれどもやるしかない。
それに凛と少し離れる事で今の状態が良い方向へ転がるのではという期待もある。
あの夜のことについて触れる事はないし普通に会話もするけれど、時々僕に向ける不安げな視線や、何か言いたげな表情には気付いていた。しかし僕は何も出来ずにいた。
酔っていたとはいえ胸に焦げ付いた炭のような苦さは本物であり、自分でもこの気持ちをどうすれば良いのかわからないのだ。
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