いつかこの青が色褪せても

朝海拓歩

第一章 あの日の残滓(1〜3)

   1


夏の色だ。僕は小さくそう呟いた。


 視界には雲ひとつ見当たらず波は穏やかに揺れている。遠く白む水平線を境に、空と海、二つの青がどこまでも広がっている。ほぼ真上から降り注ぐ陽光はじりじりと首筋の肌を焼き続けるが、甲板を吹き抜ける風が心地良い。


 このフェリーが目指す目的地は日本海のとある離島の町だ。本州から約六十キロメートルほどの地点に浮かぶ諸島の一つにその町はある。


 普段とは違う慣れない仕事で緊張していた心も、どこまでも広大な青のパノラマを前にして随分とほぐれていた。普段コンクリートに囲まれて生活していると、目の前の雄大な景色だけで圧倒される心地だった。


 風に乗って微かにカモメの声が聞こえる。絶え間ない潮騒とエンジンの重低音に包まれながらも、僕は静かだと感じていた。甲板に他の乗客の姿はまだ無い。


 するとポケットに機械的な振動を感じた。海上でも今のところ電波は通じているらしい。出航して三十分ほどだ。まだ陸地が近いのだろう。僕はスマホを取り出し通知画面を確認する。


《受賞した広告を街で発見!同僚も良いって言ってたよー》


 僕宛てのメッセージではない。大学の友人間で作ったグループへの投稿だった。これは僕の友人宛てだ。


 つい先日、このグループの中の一人が仕事で国際的な賞を獲得した。それ以来懐かしい面々とのやりとりが久方ぶりに続いている。受賞したのは僕のライバルであり親友だった男だ。


 アプリを開く事もせずにスマホをそのままポケットにしまう。友人の吉報を素直に祝えない、そんな自分に嫌気がさす。報せから数日経った今でも、親友には何も言う事が出来ずにいた。


 もう同じ土俵にすら居ないくせに、僕はいつまで引きずるんだろうか。


『後悔してるの?』


 聞き慣れた凛の声が頭の中で再生される。それに続いて自分の情けない言葉もじくりと胸に蘇る。


『あの時、倒れてさえいなければ。僕だって、もっと』


 言った事を後悔しているのに、その言葉を撤回する気にはなれずにいた。そのせいかあの日以来、凛との間にもどことなく気まずい空気が流れている。一緒に暮らす夫婦だから、あの日以降もお互い普通に過ごしてきた。けれどふとした時に思い出す。


『私は、もうあんな秋人は見たくない』


 普段は気丈でさっぱりした性格の彼女が見せた、酷く弱々しい表情。ずっと不安を抱えているのだろう。全て僕のせいだ。わかっている。


 甲板の柵にもたれかかって、穏やかな海に向けて小さなため息を落とした。

 何をやってるんだろうな、僕は。

 全部自分で決めた事なのに、いつまでも吹っ切れず後ろを向いてばかりいる。まるで舵が壊れた船のようだ。目的地もなく、どこに辿り着くのかもわからない。


 せめて目の前の仕事はちゃんとしよう。


 悪循環に陥りそうな思考を断ち切る為に、現実的な問題を頭の中に引っ張り出す。今回の仕事は憂鬱な顔で臨む訳にはいかない。


 僕は誰もいない大海原に向けて無理やり笑顔を浮かべてみせた。



   2



 それは先週の木曜日の、朝九時五十五分の事だった。


 会社が始業する五分前、僕は自分のパソコンを開きいつものように業界のニュースサイトを巡回し始めた。ディスプレイにはもはや自分に縁遠いトピックスが並ぶ。しかし今の仕事にも無関係では無いし、長年の習慣で毎朝目を通しているのだ。


 ふと目の端に見慣れた名前を見つけて手を止めた。


「シゲ?」


 多賀谷重信。しばらく会っていない男の名前に微かな懐かしさを感じた。体育教師と言っても通じるようながっしりとした体格に、口の端を引いて笑う不敵な顔を思い浮かべる。


 シゲは同じ美大に通っていた友人で、共に様々な活動を行い、笑い、夢を語り合った。平たく言うと仲間でありライバルだった。


 お互い会社勤めになってからは、それぞれに仕事が忙しく会う機会はほとんど無かったけれど、SNSを通じて近況は何となく知っていた。卒業後は自分と同じように都内のデザイン事務所に就職して、毎日遅くまで働き詰めになっていた。


 昔は深夜に投稿されるエナジードリンクの写真がまるで生存確認のようになっていた。それを見るたびに身体を壊さないかと少し心配になったものだが、その投稿を同じく会社で見ていた僕も人のことは言えなかった。


 それに当時は、同じように頑張っている仲間が居る、その存在に鼓舞されていたのも事実だ。きついのは僕だけじゃない。あいつだって頑張ってる。いつかデカい仕事をしてやろう。そう思えばこそ過酷な環境でも心が折れずに済んだ。


 そんなシゲの顔が、見慣れたページ上に名前と共に掲載されていた。


 広告に携わるものなら誰でも知っている国際的な広告祭、その新人賞の速報記事だ。何度見ても間違いない。多賀谷という苗字はそれなりに珍しいし、同業の中に同姓同名の人物が居るということは無いだろう。


 記事の詳細を読み進める。作品のジャンルはソーシャル。近年新設された、社会問題を解決するキャンペーンの内容を競うものだ。新人賞のお題は広告祭が開催される現地で発表される。各国新進気鋭のクリエイターが、制限時間内に企画からアウトプットまでを行い、審査員に向けてプレゼンするというコンテストだ。


 そういえばシゲは英語が得意だったな。


 大学三年生の時、サークルの希望者で行ったニューヨーク旅行では随分と助けられた。本人は「小さい頃から英会話に通わされて大変だった」と苦笑していたけれど、こうして立派に役に立っているのを見ると、シゲの両親は先見の明があったんだろう。


「星野君。ねえ、星野秋人君ってば」


 懐かしい時代を思い出しているうちに周りの音が聞こえなくなっていたようだ。強めに名前を呼ばれて僕はようやく気がついた。「はい」と返事をして椅子ごとくるりと振り返る。そこには呆れ顔の進藤さんが僕を見下ろしていた。


 直属の上司でもある彼女は、ヒールを履いてようやく百五十センチを超えるというような小柄な体格なので見下ろされるというのは少し新鮮な角度だった。


 しかし眼鏡の向こうの視線が明らかに剣呑なので、僕は殊勝にぼうっとしていた事を詫びた。


「もう。徹夜でもしたの?作ってもらったデザインパターン、今日の企画会議でプレゼンだけど資料の準備は大丈夫?」

「あ」


 声に出すくらいすっかり忘れていた。進藤さんの顔が怖い。言われて思い出したプレゼンの時刻は午後の二時。まだ時間はある。僕は瞬時に今抱えている案件の進捗を考えて結論を出す。


 まあ、多分大丈夫だろう。

 デザイナー生活も五年目にさしかかり、自身のデザインをプレゼンする事にも随分と慣れてきた。


「ごめんなさいこれからやります。必ず間に合わせるので」


 しっかりしてよね、と小言とため息を残して進藤さんは自席に戻っていった。彼女の後ろ姿を見送りディスプレイに視線を戻す。僕の視線は開きっ放しだったニュースサイトの一文に再び吸い寄せられる。


《このジャンルでは日本人初のシルバーを獲得》


 すごいな、シゲは。


 あいつに連絡を入れようかとスマホを手に取った。けれど結局何もせず、そのまま机の上に戻す。夢を叶えつつある友人に向けて、何を言えば良いのかわからなかったからだ。


 おめでとう。

 先を越されたな。

 すぐ追い越してやる。

 どんな言葉も、胸の中で虚しく響くばかりで指を動かすまでには至らなかった。


 オフィスからは始業直後の気怠い雰囲気は無くなりつつある。同僚それぞれが集中し始め、自分の仕事に取り組んでいる。


 僕も自分の仕事をしなければ。時間は有限だ。今日は残業する訳にはいかない。余計な事は考えず、目の前の仕事に集中するべきだろう。



   3



 頭の奥で何かが切れた音がした。


 ぶつりという衝撃の後に感じたのは浮遊感。隣に居るはずの上司の声がやけに遠かった。宙に放り出されたように力が入らず、目の前が真っ白になって......。


 僕は三年前、クライアントへのプレゼン中に倒れた。


 当時の上司とは折り合いが悪く、提案する資料の作り直しを何度も何度も命じられ、徹夜に近い労働を繰り返す日々。その状態が既に二ヶ月ほど続いていた。


 疲労を残したままの仕事はむしろ能率を下げるとわかっていた。けれどチームの誰もが帰ろうとしない状況では、新人の自分が帰る訳にはいかない。会社に居る時間の半分は、上司からの曖昧で無駄に長いダメだしによる修正作業と、仕事には関係がない人格否定の言葉を浴びる日々。


 心身ともに限界だった。焦がれて入った会社も、夢に見た仕事も、こんなはずじゃなかった。そう思いながら僕は冷たい会議室の床で意識を失った。


 次に目が覚めたのは病院のベッドの上だった。


 目が覚めた瞬間は何が起こったのかわからずに「久しぶりにたくさん寝たな」なんて呑気な感想が頭をよぎった。けれど直ぐにプレゼンの事を思い出して血の気が引く。


 ベッドから飛び起きようとして、腕に繋がっていた点滴のチューブを引っ張り派手に倒してしまった。リノリウムの床に軽いアルミ棒が倒れる音が響く。それを拾おうと屈んだところで部屋に良く知る顔が入ってきた。


「秋人。良かった起きたんだね。本当に良かった」


 入り口に立っていたのは恋人である瀬川凛だった。


 ベッド横の椅子には彼女のカバンと上着が置かれている。きっと駆けつけて付き添ってくれていたのだろう。彼女もまた仕事を途中で抜けてきたようで、色シャツに濃紺のジャケットというオフィスカジュアルな服装のままなのが少し新鮮だった。


 仕事がある日に外で会ったのなんて初めてかもしれないな、なんて場違いな事を考えた。


 自分が倒れたという実感がまだ湧かない。点滴を拾って立て直し、落ち着くためベッドに座る。


「凛、えっと、僕はいったいどうなったんだ。仕事でプレゼンしてたはずなんだけど......」


 凛は現状を簡単に説明してくれた。彼女は自分の鞄をどかしてベッド横の丸椅子に腰掛ける。


 プレゼンの途中で倒れた僕は、到着した救急車で最寄りの病院に運ばれたらしい。凛は母から連絡をもらい駆けつけたそうだ。会社に提出していた緊急連絡先として実家の母にまず連絡が行き、母から凜へと連絡が回ったようだ。


 東北の田舎に住んでいる母では到着までに時間がかかるので、彼女を頼ってくれたそうだ。


 去年のお盆にまとまった休みを取って、凛と二人で地元へ旅行に出かけていた。

 そのとき両親に凜を紹介したのだが、いつの間に連絡先を交換していたのだろう。


 無精な一人息子が連れてきたしっかり者の恋人を、母はとても喜んだ。家を出る際に「息子をどうぞよろしくお願いします」と深く頭を下げていた姿を、今でもはっきりと思い出せる。


 その時は「僕ってそんなに信用ない?」と苦笑してみせたがざまあない。この体たらくじゃ心配されても仕方がない馬鹿息子だ。


「お医者さんが言うには今のところ過労以外に原因は見当たらないってさ。起きてみて異常が無ければちゃんと寝て食べて安静にしなさいって」


 一先ずほっとした僕が次に気になったのはやはりプレゼンの事だった。自分が倒れた事でコンペに負けたんじゃないかと気が気じゃない。


 凛にそれを尋ねると、これまで落ち着いていた凜の瞳に涙がにじむ。


「ねえ、今は身体を治すことだけ考えなよ。倒れるくらい、本当にボロボロになるまで働いて、私やお母さんに心配かけて、それでいったい誰が喜んでくれるの?」

「それは......」


 仕事だから、という言葉は飲み込んだ。こぼれ落ちた凜の涙がそれを言わせなかった。


 僕が起きるまでは気丈に振る舞っていたのだろう。緊張の糸が緩んだのか、すすり泣きは暫く続いた。堪えるように、なるべく早く止まるようにと思いながら流す、静かな涙。僕は点滴がついていない方の腕で凜の頭に手を伸ばし、そっと撫でる。


「心配させてごめん」


 凜に言われて改めて考えた。

 僕がここまで身を削っているのはいったい何の為なのだろう。


 仕事としての目的はもちろん、クライアントの利益の為だ。ただ今回のプレゼンに関しては受注を目的としたコンペだから会社のため、という事になるのだろうか。


 いや、受注が決まって誰より得をするのは恐らくあの上司だ。部下への罵離雑言を指導だと勘違いしているあの男が一番喜ぶのではないか。


 きっと嬉々として、全てを自分の手柄とするのだろう。チームの努力や献身など省みずに忘れ去った上で。


 その事に思い至ると、途端に抱え込んでいる案件だとか、今後のスケジュールだとかに対する焦燥が冷めていった。


 そうだよな。


 今はとにかく身体を休めよう。一日でも早く元気になって凜を安心させてやりたい。


 しかし僕はそれから一週間ほど入院する事になった。詳しい検査の結果、胃潰瘍になりかけている事がわかったからだ。


 入院した翌日には母も到着したが、開口一番「この馬鹿息子が」と説教を食らった。それでも最後には「心配かけるんじゃないよ」と抱きしめられた。付き添いで来ていた凜の手前「やめてくれよ」とは言ったものの、思いのほか細く小さな母の肩が震えている事に気づくともう何も言えなかった。


 入院中の僕は模範的な患者だったと思う。


 ずっと吐き気が収まらず食欲もなかったが、早く回復するために出された食事は全て残さず食べた。退屈でも無理はせず出来るだけ回復に努めた。


 担当の医者に「早く治すためにやった方が良いことはありませんか?」と聞くと、そういう焦り自体がストレスになりますからと窘められたくらいだ。


 仕事が気にならなかったと言えば嘘になる。


 しかし相部屋の病室でずっとパソコンは使えないし、失敗の手前自分から連絡するのは気が重かった。


 一度総務の人が、入院時の状況や手続きについて話聞きにきたけれど、あの日のプレゼンがどうなったかは知らないようだった。僕はずっと使えず貯まりきっていた有給を消化する形で入院していた。それ以来、会社の人は誰も来ていない。


 ただ、この入院生活にも少しは良い事があった。


 社会人になってからは予定を合わせるのが難しく、なかなか作れなかった凜との時間がたっぷり出来たことだ。


 国立大学の事務職員として働く凜は普段から定時帰りだ。土日はもちろん休みで有給も普通に取れる環境なのだが、いかんせん僕の環境がブラック過ぎた。学生の頃から付き合っていたとはいえ、今まで別れなかったのは奇跡かもしれない。


 学生の頃は毎日のように会っていた。けれど今では月に一回会えれば良い方だ。去年のお盆に取得した連休は、かなり前からの根回しと仕事を切り詰めて獲得した一大イベントだったのだ。


 怪我の功名と言って良いのかわからないが、こんなにゆっくりと二人で話す時間があるのは半年ぶりくらいだった。


 いつもは貴重な休みを無駄にはすまいと、予定を詰め込んで忙しく出かけていた。


 そんな僕らの事情を知ってか知らずか、母は気を利かせてさっさと一人観光に出かけて行った。せっかく東京に来たのだからと、こちらに居る友人を誘ってスカイツリーに行くのだとはしゃいでいた。


 相部屋の人は居るけれど、カーテンの内側には僕と凛の二人きり。

 何をするでもなく二人で過ごす時間は思いのほか心地良かった。


 だから転職を勧められた時も、僕の心は静かにその言葉を受け止めた。凪いだ心にその提案は思いのほか自然なものとして染み込んでいった。


「今どき転職なんて良くある事だし、他にいくらでも良い会社があるよ」

「そうかもなぁ......」


 気のない返事が不服だったのか凜が口調を強める。


「秋人が今の会社に憧れてたのは良く知ってるけどさ、やっぱり身体は大事にして欲しいな、私は」


 この会社は焦がれて、憧れて入ったものには違いない。学生の頃から毎月必ず購読しているクリエイティブ系の雑誌でもよく取り上げられ、毎年次世代のクリエイターを輩出している会社。自分もそういう存在になりたいと、そう願って就活を勝ち抜いた。


 だけど現実は甘くない。大きな光があれば、その足元には色濃い影が出来る。無名のまま、スターの仕事を支えているその他大勢の人間がいる。


 自分はそうはならない。必ず這い上がる。

 そう、思ってたんだけどな。


 身体を壊して、凜を泣かせて、親にも心配をかけて、自分が何を追いかけていたのか、もうわからなくなった。


 今でもデザインは好きだしクリエイターで居たいと思う。ここに至っても何かを作るのは楽しいと思える。


 でも、それって今この場所じゃないと出来ないことか?

 有名にならないと出来ないことか?


 名を上げて大きなプロジェクトをこなし、憧れた人たちのように活躍したいという、その欲求。かつて夢と呼んだそれがどれほど大事なものだったのか、今はもうわからなくなっていた。


 不本意に訪れた長い休養の中で悩み続けた僕は、退院と同時に退社の意志を伝える事にした。

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