ブルーダート

オカザキコージ

ブルーダート

 地下鉄と言っても地上を走る区間が長く、車内に日が差し込んでくるたびに騙されたような気分になった。目を細めるのが面倒なので下を向いてやり過ごす。気分がすぐれない時に行うルーティンに頼るのも気が進まず、何も考えないよう、ぼんやりしようと心がけた。ただ、意識が立つというか、鉄路の軋みが正確に伝わるときは注意が必要だった。

 聴覚が鋭敏に機能し出すとろくな事はなかった。雑音が耳に入らないよう堰き止めるには意識が萎えていたし、無意識になれるほど精神が安定していなかった。無為の意味が分からず、何をどうすり減らしているのかさえも分からなかった。内側を無数の地虫が這っているような不快感に身の置きどころがなかった。“なかった”。僕は存在していないのかもしれなかった。

 電車が停車し、何人かの乗客が乗り込んできた。先頭車両だったためか、新たな乗客を含めても十人もいないように見えた。いつものように座席に浅く座り目をつむっていると、賑やかな複数の声が聞こえてきた。数人の男の子が競うように車両の一番前へと跳ぶように向かって行った。勢い余って乗務員室の扉にぶち当たらないか、心配してしまうほどだった。

 三匹の子豚よろしく押し合い圧し合い、車窓から延びる線路を見ようと背伸びを競い合うようにひしめいていた。やんちゃな男の子たちに加わらず、女の子とともに微笑ましく眺めている小さな男の子がいた。その笑顔をどう表現すればいいのか。頭の中で言葉を探す前に響くものがあった。煩わしい意識を素通りしてしまう、この心地よさ。久しぶりに、突き抜ける、この透明な感覚。何かを超越している、でもその何かが分からない、居たたまれない感じというのか。僕はその子に釘付けになっていた。

 「こっちへ来いよ、何してんだよ」。前に陣取る男の子の一人が乱暴な口調で促したが、その子は微笑を崩さずに“ありがとう”という風に軽くうなずくだけだった。代わりに横の女の子が行こうとすると、その太った男の子は“おまえじゃない”と怖い顔をしたあと、一瞬悲しげな表情を見せてすぐに向き直り、前の方へ戻って行った。

 女の子たちが“なによ、あいつ”と不満げに顔を見合っているあいだも男の子はやさしい笑顔のまま、楽しそうにしていた。目の前で繰り広げられる、幼気な彼ら彼女らの可愛い寸劇。騒がしい舞台の中央で一人、静かに微笑む男の子。車窓から柔らかな陽が差し込み、男の子を澄んだ光で包んでいた。車内の雑音がかき消され、彼の周りは静寂に充たされていた。僕は、目の前に突然舞い降りてきた彼から目が離せなかった。

 奥底で不規則に生滅を繰り返す襞が一定方向へ揺らめき出した。内側の不快なざわめきが緩やかになり次第に収まっていく。じんわりと表層へ浸透していき、瞬く間に外皮を覆ってしまう。一度たりとも成就した例のない心身の合一へ向けて、もしや動き出しているというのか。いや、錯覚に過ぎないだろうか。そもそも証立てようのない所為、光景に真も偽もなく、善悪の価値判断も及ぶまい。信ずるに足るか、委ねるに値するか。すべてを解き放してくれるかもしれない、いやそうに違いない類い稀な力能に触れていたのか。僕の前には男の子がいた。すでに矢は放たれた。車窓から澄んだ青空が広がっていた。

                 ◆

 僕はいつものように、ビデオを早送りにしてパソコンに向かっていた。小型のテレビ画面には滑稽な動きを見せる男女の姿が映し出されていた。アダルトビデオといっても今のDVDではなくカセットの時代。背の部分にタイトルのシールが貼られた黒い無骨なプラスチックのやつだ。かさ高くて洗練されていない分、いまに思えば妙に郷愁を覚えさせ、テープによる画質のばらつきもご愛嬌といったところだった。

 ストーリーらしいストーリーもない、低俗な内容に合わせてタイトルをつける作業は、後に何も残らない、徒労を極める、それこそ愛のない行為に似た、虚しくも後味の悪いものだった。ただ、効率のいい仕事だったのは確かで、多少危険手当が含まれているにせよ、時間給に換算すると、例を見ないものになった。僕が関わっていたのはアダルトビデオといっても、修正を前提とした表のものでなく、いわゆる裏ビデオ。枝葉の、末端の一要員だったが、下卑たタイトルで内容を想像させるのが僕の役割だった。

 マンションの狭い一室で黙々と作業している姿を客観視するのはタブーだった。でもその一方で、たんに非合法というだけで善悪や真偽にかけるべきではないとも思っていた。だからと言って、この僕にしても矜持に触れないわけはなく、敢えて意識しようとは思わなかったが、心身にかかる負荷はそれなりのものがあった。また、こうした客観を殺す意識の操作が、かえって集中力を高めて、高尚な無の境地とまでいかなくても、異なる次元を垣間見せてくれるのが不思議でおかしくもあった。

 「どう、ひとつやるか」。このマンションの一室を事務所に表向き企画会社を運営する友人の元カメラマンが後ろから声をかけてきた。「いや、今日はやめておく」と言って僕はタバコに火をつけた。彼はデスクへ向き直り手前の引き出しから携帯用の缶を取り出した。慣れた手つきで乾燥した草の刻みをパイプに詰め始めた。「今日は焼肉にでもいくか」。いわゆる葉っぱを燻らせながら背中越しに言ってきた。僕は「うん」とだけ答えて作業を続けた。

 彼は、以前勤めていた雑誌社の先輩にあたり、僕が入るとすぐに辞めてフリーランスになった。ほぼすれ違いにもかかわらず気が合ってしまったのか、いつの間にか事務所へ出入りするようになっていた。いまでは裏ビデオなど風俗系ツールの制作や、大麻草の栽培・卸しなど非合法な生業に終始しているが、事務所を立ち上げた当初は、ある県で教育長を務めていた父親のつてもあり、結構大きなイベントを企画・運営したこともあったという。チェ・ゲバラの小さなピンナップと、県から贈られた感謝状を並べて壁に貼っているのが彼らしかった。

 ソビエト連邦が崩壊間際で自由主義陣営が勢いづき、国内もバブル経済の最後の宴に浮ついていたころ、僕は転職を繰り返し、何度も彼女と別れて独りでいることが多かった。どれもこれも手触り感がなく、白々しく感じたり見えたり思えたり。身の置きどころのない、卑小な自分を感じずにはおられない情況が続いていた。自縄自縛、内奥から周縁までことごとく狭めていき、マゾっぽく自責を楽しんでいるように見えていたかもしれない。

 早送りとは言え、ビデオで男女の絡み合いを見続けていると、通常のコピーライティングでは感じない特別な徒労感に襲われる。この仕事を続けていると、いずれ不感症、勃起不全になってしまわないか、堅気の人が興味本位に想像しそうな陳腐なことまで考えてしまう。実際にはそうした心配は無用だったが、ただ欲望を充足するにあたって、何かにつけて強い刺激を求めてしまう弊害はあった。陳腐なストーリーを追うだけのビデオ鑑賞だったが、これまで意識していなかった己の意外な性向を確認してしまう、そんな利点というか取るに足りない副産物もあった。

 ベランダと部屋の一部に並ぶ大麻草の鉢を、ようやく意識しなくなったころ、マンションのエントランスで一人の男に出くわした。顔にニキビ跡が残るパンチパーマに赤のダウンジャケット、それに濃い目のサングラス。センスがないだけでなく強い違和感、嫌悪感さえ覚えたが、それゆえにかどうか、ただ成らぬ感が半端でなかった。オートロック操作盤に数字を打ち込む、その幅広の背中を眺めていると、抑揚のない友人の声が聞こえてきた。扉が開き、男が中へ入っていく。僕は住人のような顔をしてそのあとに付いていった。

 エレベーターの中で並んで立っていると、サングラスの端から目が垣間見えた。勝手に鋭い目つきと決めつけていた反動か、思いのほか、まつげが長く涼しい目元が印象的だった。エレベーターを降りて微妙に距離をとりながら同じ方向へ進んでいく。“アジト”に着くと、タイミングを見計らったようにドアが半開きになり、扉の陰から彼の横顔が見えた。

 男は紙袋を彼に手渡し、二言三言話したあと、こちらへ向き直った。すれ違いざまに見せた、サングラス越しの鋭い目つきと、言いようのない威圧感。非合法にかかわる者が部外者に見せる警戒感が漂っていた。僕は一瞬のうちに身体が硬直し、その場で動けなくなった。すかさず彼が、この子は大丈夫、というサインを表情で男へ送ってくれたので助かったが、そうでなかったらどうなっていたか、大仰でなく生きた心地がしなかった。

 「ごめん、さあ」。友人は申し訳なさそうにドアを開けて中へ入るよう促した。彼は男のことを「元締め」と呼び、仕事の連絡で定期的に会っているという。さっきまで草を燻していたようで、あの独特の甘い匂いが鼻をついた。デスクに付いていつものように仕事を始めたが、集中力が続かなかった。手につかないというほどではなかったが、あの男、「元締め」のインパクトに神経が過敏になっていた。“末端の構成員”に過ぎない僕にとって仰ぎ見るような存在だと、あとで聞かされたが、その時は畏れというより嫌悪感、いや嘔吐感が上まわった。

 裏ビデオのタイトル付けという、非合法活動にしては女々しい仕事は副業で、当時はある専門紙の記者をしていた。その業界ではクオリティーペーパーを自負していたようだが、内情は競合他社同様、芸者や太鼓持ちよろしく業界に食わしてもらっている寄生虫に過ぎなかった。二十人近く記者がいたが、多くはジャーナリストを気取るプライドだけ高いバカな連中だった。業界を所管する国の省庁やスポンサーの大手企業にすり寄る記事を優先するデスクが揃い、レポーターならまだしも単なるリライターに過ぎない仕事内容にモチベーションを維持させるのは土台無理な話だった。

 午前中に取材へ出て夕方に戻るルーティンだったが、発表ものの補強取材にかこつけてマンションに日参した。二時間ほどしか作業できない時もあったが気の合う彼と冗談を飛ばし、ちっぽけながらも反社会的空間で過ごすのが楽しかった。流れる時間がずれている感覚も魅力だった。時空間を超えるほどではなかったが、日常を強いる社会では得られないものがそこにはあった。

 表に対する裏というより、表象に対する基底、本質が形を成さず意味も持たず、ただ円環状に漂っている、そんな感じだった。そう簡単に本質をものにできるとは思っていなかったが、少しだけ近いところにいるという意識が形而下の不快感を和らげ、微かな光を感じさせた。可能性というにはあまりにも不確かで頼りないものだったが…。


 僕はあれ以来、電車に乗ると無意識にあの男の子を探していた。そんな自分に気づき苦笑したが、いつか会えると確信に近いものがあった。彼が“天上”から舞い降りて何カ月が経ったろうか。いつものようにうつむき加減に目をつむっていると、あの時と同じように騒がしい子供たちの声が聞こえてきた。午前中に学校を終えた小学生のようで、今回はその数が多くて一つの車両を占有する感じだった。

 小さな身体に大きなランドセルを背負い、四、五人のグループごとに男の子ははしゃぎ、女の子たちは話しに夢中だった。小さな雪崩のように車内に押し寄せて来たときは気づかなかったが、何人もの男の子、女の子が運動会さながらに目の前を行き来するなか、車両の後方に目をやると、探していた男の子が座っていた。

 ただ、彼とともに周りの三、四人だけが浮いている感じがした。この前は気づかなかったが、ほかの子のように黄色い帽子を被っていなかったし、ランドセルも背負っていなかった。ただそれだけでなく、男の子の周りだけが空間の質というか、明暗も濃淡も異なっているように見え、気のせいか、時の流れもゆっくり穏やかに感じられた。透明感に包まれて笑顔を見せる男の子に変わりはなかったが、しばらくするとあることに気づいた。男の子の周りには言葉がなかった。

 ずっと探していた言葉が胸にストンと落ちる感覚だった。自然とオーバーアクションになる周りの子たちに対し、変わらぬ笑顔で気遣う男の子。音のない世界が彼から余計なもの、煩わしいものを遠ざけ、彼を解き放しているかのようだった。雑音、雑念に惑わされないシンプルな美しさ。それは僕の中に巣食い、のしかかる得体の知れないもの、底に溜まった澱のような濁り、嘔吐でも吐きつくせない痞(つか)えのようなもの、そうしたものと二重写しになった。

 気がつくと、どの停車駅で降りたのか、ランドセルの子どもたちは潮を引くようにいなくなっていた。騒ぎが収まった車内で一人の女の子が男の子の顔をのぞき込み、何やら話す素振りを見せた。彼は一瞬真顔になって女の子の顔を凝視したあとすぐにいつもの笑顔に戻り、小さくうなずいた。

 その女の子は、立ち上がろうとする男の子を、あともう少し待ってという表情で制した。彼はまた真顔に戻り、彼女に従った。次の停車駅に近づいていた。僕は先に立ち上がりドアの方へ進んだ。電車が停まり、彼と彼女たちが近づいて来た。僕はドアの端に寄り、目の前を過ぎる、音のない一行を見送った。僕も一緒に電車から降りていた。

 その駅で降りるのは初めてだった。駅前にロータリーはなくタクシーも見当たらなかった。駅正面に見える商店街も廃れた感じで閑散としていた。男の子と女の子たちは寄り道するふうもなく、シャッターを下した店が目立つ商店街を抜けていった。

 一行は広い道路に行き当たったが、躊躇なく右へ折れた。男の子を真ん中に、しっかり一列になって側道を進んで行く。周りの女の子たちが気遣っているのが感じ取れた。先頭の女の子が振り向くたびに男の子があの笑顔を返しているのだろう、女の子の慈愛に満ちた表情がそれを物語っていた。

 どこへ向かっているのか、おおよその見当はついていた。その先を少し行くと児童養護施設がある。そこは身寄りのない子に加えて心身いずれかに障害のある子どもたちを受け入れていた。駅から子供たちの脚で二十分ほど、彼と彼女らは一列に並んだまま施設の中へ入って行った。取り残された僕は、何ごともなかったように通り過ぎようとしたが、校門から五メートルほど進んで足が止まってしまった。

 不審者に見られるのではないか、すぐに意識がはたらき脚を前へ動かした。目の前には緩やかな坂が延びていた。行くあてはなかったが進むほかなかった。振り返ると施設の全体が目に入ってきた。僕は子供たちの遊んでいる姿を想像した。元気な声が聞こえて来そうだった。その傍らに男の子がいた、少し寂しげにやさしい笑顔をたたえていた…。


 思ったよりも長くいた新聞社をけっきょく辞めたあと、半年余りぶらぶらしていた。元カメラマンの友人が気を遣って作業量を増やしてくれたため、通帳の残高を減らすことなく食いつなげた。マンションには昼前後に顔を出し、好きな時間に帰る、理想的な“勤務形態”だった。もちろん“社内規定”はなかったが、敢えて挙げるなら共犯意識を醸成する意味もあって葉っぱをやらざるを得なかったことぐらい。これとて強制されたわけでなく、僕の気遣いに過ぎなかった。

 そう、それ以外に一つあった。事務所のトイレ掃除だ。取り立ててキレイ好きというわけではなかったが、初めて訪れた時の、トイレのドアを開けたときの衝撃、こんな汚いの、見たことない、あり得ない、と思った。この惨状を放置して用を足している彼の気が知れなかった。ほぼ毎日“出社”することになったため、さっそくトイレブラシと洗浄液を買ってきて、おもむろに掃除を始めた。彼は何も言わなかったが、その程度で何を神経質に、と思っていたのかもしれない。いずれにせよ、そのほかはフリー、快適な“職場環境”だった。

 普通に葉っぱをたしなむ、女を物のように扱う、素人を騙して金を儲ける、トイレがどんなに汚くても…。堅気じゃないのだから、と開き直るつもりはなかったが、ヤクザを筆頭に社会性の低い者でも、どこかで何かをして生きていかなければならない。裏ビデオの制作や大麻の栽培も単に反社会的勢力の、ささやかなシノギの一つというだけでなく、出来の悪い者たちを囲い込んで食わせていく、いわば一つのセーフティーネット、立派ではないにせよ、必要悪であるにせよ、ある一定の社会的役割を担っていた。

 アンダーグラウンドの片隅に、うらぶれた底辺に棲む者同士、僕と友人は微妙につながり、生かされていた。裏ビデオや大麻に加えて、当時の呼び方でいうホテトル、今でいうデリバリーヘルスにも関わっていた彼は当然金回りがよく、頻繁に焼肉屋やすし屋に誘ってくれた。若い二人には不釣合いな高級店のあと、女の子のいる店で気晴らしするのが定番だった。

 僕はあの当時、何人かの女の子と付き合っていた。二股、三股と言えば色男の話のように聞こえるが、大した容姿ではなかったし、とりわけ言葉巧みというわけでもなかった。ただ、あるサジェスチョンが効果的であることは分かっていた。自分のことを大切に思ってくれている、女の子をそう思わせるフレーズは限られていたし、どういうわけか臆面もなく口をついて出た。ただ思っているだけでなく表現できる、それもナチュラルに。それと、たんに守備範囲が広いだけでなく、同年代の男に比べて好みや性向が少し変わっていたのも、図らずもそうした結果(複数の女の子と付き合う)につながっていたのかもしれない。

 仕事とはいえ、早回しであっても、いろんな種類のビデオをたくさん見ていると否が応にも自分の嗜好がわかってくるし、潜在している本能に思わず向き合わされる。性的に興奮するポイントがどこにあるのか、正確に分かってくる。その分析を生かして的確に行動へ反映させれば量的成果(同)も難しいことではなかった。自身の欲情に正直、忠実に、分をわきまえて、決して高望みせず、あくまで自然体で。愛の箴言には程遠い、ひねりのない結論だった。

 一人は外車のディーラーに勤めていた女の子、もう一人は喫茶店のアルバイト店員、それに看護婦さん。ディーラーの子は編集プロダクションで仕事をしていた時に取材先で知り合った。アルバイトの女の子というより四十に近いお姉さんは専門紙にいたころ、近くの喫茶店でウエートレスをしていた。真面目な看護婦さんは元カメラマンを通じて仲良くなった。

 どこにでもいる男と女の、そこらあたりに転がっている、掃いて捨てるような出会い。ただあとで振り返ると、それぞれの関係性の深浅は別にして当然それぞれにつまらないながらもちっぽけなストーリーがあり、当事者間ではそれなりに大切な、ときにかけがえのない、恋の、愛のカタチがあった。そんなこんなで、三人との関係性はけっこう長く続いた。

 さらにもう一人、そういう関係ではなかったが気の合う女の子がいた。豪勢な夕食のあと、友人とよく通ったお店に勤めていた。ボトルが入っていても一人二時間三万円は下らない、それなりのラウンジだった。たいがいは接待で、会社の金で来る客がほとんどだったので、僕らのように純然たる遊びで来る若輩者はめずらしかった。二十歳そこそこのニューフェイスでも、ため口を交えて気楽に話せる相手として女の子のあいだで僕ら二人はユニークな存在になっていた。

 通い始めた当初は、同伴を狙った女の子の仕草が鼻について大して楽しめなかった。でも回数を重ねるうちに、しっくりくる女の子の一人や二人は出てくるもので、彼女もその一人だった。変におもねるところがなく、無理して話を合わせようともせず、よく言えば自然体、合わない客からすれば愛想のない、盛り上がりに欠ける、サービスの悪いホステス、ということなのかもしれない。ただ僕にとっては、対面のスツールに控え目な感じで座り、機を見てグラスの水滴をぬぐう手際が心地よかったし、どこか通じ合っているような気にさせる、錯覚には違いなかったが、そんな不思議な魅力があった。

 モデルの扱いで慣れている元カメラマンと違い、僕は気の効いた言葉ひとつ彼女にかけられなかった。友人が二本目のボトルを入れたときだったから三、四度目だったと思うが、初めて彼女が横についてくれた。週末でもないのに客が多く、ヘルプも駆り出された格好だった。

 女の子が喜びそうな話題を次から次へと放つ、奥で戯れる彼のようにはいかなかったが僕なりに意識して話したつもりだった。それに応えて彼女もがんばってくれたが、ぎこちない感じは拭えなかった。「どう、延長する」。交代した女の子の空いたスペースに身体を倒すようにして聞いてきた。「いや」と首を横に振ると、彼は身体を起こして“口座”の女の子へ合図を送った。僕もそろそろという感じで浅めに座り直した。すると「ごめんなさい。いつも…」。彼女が申し訳なさそうな、少々引きつった表情でつぶやいた。

 「いや、全然」。もっと気の効いた言葉をかけてやりたかったが、慰めにもならない反応しかできなかった。チェックのあいだ、グラスに残った濃い目の水割りに口をつけていると、「連絡先、教えてもらっていいですか?」と声をかけてきた。今のように携帯が普及していない時代だった。三種類ある名刺のうち、自宅の連絡先が入ったフリーランス用を渡した。

 それから二、三日のあいだ、連絡があるかもしれないと頭のどこかで意識していたが、一週間経っても何の音沙汰もなかった。いまのようにショートメールでもあれば客へのお礼のメッセージぐらい簡単に送れたろうに、受話器を通して音声のやり取りをするのはいまも当時もやはり、それなりの思いがないとできない。だから相手から連絡が来なくても、そうなのだろうと忖度し、たいして不愉快に思わなかった。

 ただ、彼女が連絡先を聞いて来たときの印象から、すぐにでも電話をしてくるものと勝手に思っていた。そうした残念な思いも次第に薄れ、一カ月も過ぎたころだった。彼女から電話があった。「覚えていらっしゃいますか? 連絡すると言っていて。本当にごめんなさい」。声の感じですぐに彼女と分かったが、黙っていると、慌てて源氏名を挙げて、謝りの言葉を重ねた。少し間を置いて「ああ、いや全然」と言ったきり、僕は言葉をつながなかった。嫌な沈黙が続いたあと、何か面倒になって「また、顔出すよ」と言って電話を切ろうとした。

 すぐさま「そういうことじゃなくて。会ってほしくて」と彼女。この場面ではめずらしくすぐに合点がいき、「同伴できそうな時はこっちから連絡するよ」と冷たく返した。すると彼女は本意でないという風に強い口調で「そうではなく、普通に会ってほしいのです」。新手の誘い方かとも思ったが、悪い気はしなかった。


 別に頼っていたわけでなかったが、失業手当もそろそろ切れるころだし、もう一度どこかに勤め直すか、このままフリーランスでいるか、取りとめもなく頭をめぐらせていると、地下鉄の改札を出ていた。友人のマンションへ向かう途中、酒屋の前を通りかかりいつもの習慣で彼が好む銘柄のロング缶を二本買った。

 昼間でも薄暗い脇道を進み、いつになく晴れない気分でマンションの前に来ていた。冷えたビール缶がそうした気分を幾分和らげてくれたが、なにか重たい感じに変わりはなかった。名札の入っていない郵便受けへチラッと目をやって、オートロック盤に部屋番号を打ち込んだ。条件反射のように自動扉の正面に向き直ろうとするが、呼び出し音が続くだけで彼はなかなか出て来ない。午後の、この時間帯に居ないはずはなかった。

 そのときはすぐに思い当たらなかったが、嫌な感じはあった。ビールを買った酒屋の前の公衆電話に目が止まったが、思い直して足早に通り過ぎた。駅の改札をくぐった後、二本のロング缶がないのに気づいた。手のひらに感じていた冷たさが失われ、内側に不安感が広がっていく。電車を待つあいだ、何度も改札の方を振り向いていた。

 いつだったか、捕捉されたときの、あの感覚が蘇っていた。胸の鼓動が早くなるのを感じていた。僕は隠れるようにプラットホームの奥まったところで電車を待った。到着した車両に向かって足早に歩き出す。扉が開くと、降りてくる乗客と肩がぶつかり押し返された。僕は車内を見回した。何が起きたのか、きっとそういうことなのだろう。焦燥感が身体全体へ広がっていった。

 車窓を流れる風景が無機質に過ぎていく。嫌な汗が右脇に強く滲むのを感じた。関係者の申し合わせで互いの連絡先を残さないようにしていた。時代遅れのスパイ小説と笑われそうだがメモは厳禁、言われたその場で覚えるのが原則だった。

 僕の場合は、友人に関わる連絡先と直接出向く必要のあった小さな印刷所の電話・ファックス番号程度で苦労はなかったが、事務所を構えて手広くやっていた彼の頭の中には何十もの連絡先が登録されているのだろう。電話するときに何やら膝の上に指を立てて番号をなぞっている彼の姿が浮かんだ。いつになったら彼のマンションへ職場復帰できるのか、さっぱり見当がつかなかった。もうそのときには確信していた、悪い予感はそうそう外れないと。

 時間を意識する感覚が完全に抜け落ちていた。自宅に戻ってしばらくの間、目の前にある、動きのない空間だけが頼りだった。自身の存在の確認。流れる日常から非連続を取り出し、真とも偽ともつかない事象と向き合う。無意識が先行するのを押し止めようと意識を前へ、前へと。事象を、自分自身を確かめようとしていた。

 分離し拡散しようとする心身を引き止め、重ね合わせようと懸命だった。至るところで広がるズレを修復するため、たゆたうものたちを必死に引き寄せた。徒労感に苛まれながら作業をしていくうちに少しずつクリアに、意識が立っていく。流れるニュース映像とともに現実に引き戻された。

 テレビ画面には、一度だけエレベーターで乗り合わせた“元締め”の事務所が映し出されていた。壁には何十台ものビデオデッキが整然と並び、“西日本最大の裏ビデオ制作拠点を一斉捜索”とテロップが流れていた。友人のマンションに比べて三倍以上もあるベランダには大麻草の鉢が観葉植物のように並んでいた。

 僕のような末端の構成員にまで事が及ぶ心配はなさそうだったが、事務所を構える友人のことが気がかりで仕方なかった。こうして権力サイドのターゲットになると、僕ら非合法関係者はひとたまりもない、善後策はないも同然だった。当面息も立てず潜行するのが唯一の方策だった。

 ちょうど半年ほど前の冬の日、僕らは慰安旅行で風光明媚な島へ渡った。三台のワンボックスカーと元締め用の高級車に分乗して総勢二十数名、高速道とフェリーを乗り継いで小さな島へ上陸した。島唯一の旅館に定員ぎりぎり、一部はオーバー気味にふとんを並べて泊まった。

 裏ビデオの制作と大麻草の栽培のほか、ホテトルやファッションヘルスの運営、風営法にかかる飲食店の経営、ときにソフトな恐喝まで。反社会的な生業に手を染めた一行だったが、見た目も振る舞いも堅気のツアー客と変わりなく、違いと言えば異様に物静かなところぐらいだった。凄みが生業に役立つヤクザと違い、アンダーグランドで地味に目立たぬよう棲息する習性は旅行先でも変わらなかった。日ごろ女の子の身勝手に振り回されることが多いためか、こうした息抜きの旅行にはしぜん、女っ気はなかった。

 島で唯一のレクリエーションが釣りだった。宿で一服したあと、僕は友人のほか歳の近い関係者一人と連れ立って早速、海辺へ向かった。途中、釣竿と餌を調達し、小島にしては立派な桟橋の端まで進んで竿を下した。「この時間じゃあ、あまり期待できないな」と友人が言うと、もう一人の彼が「まあ、こうしているだけで…」。

 僕は黙ったまま、竿の先に広がる水平線に目をやっていた。「あのバカ女、どうにかならないのか」と友人がつぶやいた。左右どちらに向かって話しているのか、二人に問いかけているのか。すると、頬に目立つ傷のある関係者が「挙げられたら一斉に引くしかないだろう」と言って軽く竿を上下に動かした。

 ホテトルは、いまの出会い系サイトやJKビジネスの先駆的なビジネスモデルとして、同じように限りなく黒に近い灰色なデートあっせん業だった。実態は売春に違いなかったが黙認されているのをいい事に、調子に乗ってマスコミをにぎわしている若い女社長がいた。登録した男性に女性を紹介し、あとはお二人のご自由に、という今も引き継がれる不滅の売春ビジネス。バブル経済絶頂の80年代後半に、こうした業態もピークを迎え、そんなバカ女を生み出した。

 もちろん、お飾りの社長に過ぎず、いわゆるマル暴のフロント企業がシノギの一つとして運営していた。いくらバカでも売春あっせん業を社会に認知してもらおうとマスコミに露出していたわけではないだろうが、裏稼業が正業のように扱われた結果、警察の介入を許すはめになった。

 マスコミを巻き込んだ、行き過ぎた風潮にこれまで黙認していた権力側が反応せざるを得なくなり、見せしめにバカ女を検挙した。それだけに止まらず、広くホテトル業界に波及するのは時間の問題だった。“引く時は迅速、一斉に”。この原則のもと、関係者はこぞっていち早く動き、被害を最小限に抑えようと努めた。

 このとき、僕は友人を含む上層部の対応を見ていて、一般企業にはない、ある意味優れたリスク管理というか、非合法ゆえの逃げ足の速さと、その後の回復力に目を見張った。この生業の凄みを肌で感じた。後で聞いた話では、友人の店もすぐにクローズし、プールしていた現金一億円余りを共同運営していたほかの二人と三等分し、速攻で事務所を引き払ったという。

 明るいうちから始まった宴会は、飲みすぎて羽目を外す者もなく、料理やサービスに無理難題言う者もなかった。非合法関係者の慰安旅行は粛々と進んだ。旅館側にとっては金払いのいい上質な団体客だったろうし、初めて参加した僕にとっても気を遣う場面がほとんどなく、インテリの静かな集まりのようで心地よかった。ただ、この旅行に加わる意味は軽いものではなかった。

 お互い面(つら)を晒し合うことの意味、その重み。アンダーグラウンドで生きていく覚悟を決める儀式の意味合いがあった。ヤクザのように親分と盃を交わすわけではなかったが、かえって仰々しさがない分、静かに膳を囲むだけで退路を断たれる、そう思うと食傷気味になって途中から言葉少なになってしまった。

 ホテトルの一斉検挙の勢いを駆って、裏ビデオに対する取り締まりも強化された。公序良俗という、どうにでも解釈できる曖昧なお題目によってシノギの幅が狭められ、生業が壊されていく。関係者にとって大きな痛手だった。次々と繰り出される取締新法に対抗するため、新たなグレーゾーンを引き出す、さらにすれすれの新業態をひねり出す必要があったが、そう簡単にいくものではなかった。

 こちらが慎重に社会の許容度を測りながら、これぞとばかりに新機軸を編み出しても、権力側の思惑や都合で非合法の烙印を押される。そうしたイタチごっこの繰り返しだった。どの時代も性風俗に対する一定の需要があり、賛否は別に欲望を満たす社会的システムとして機能し存在してきた。合法か、違法か。本質的には不可知であり、明確な線引きはできない。僕ら関係者はただ、必要悪として社会の端っこで息を潜めながら生きていくほかなかった。


 僕は高校時代、よく授業をサボって一日じゅう家にいた。数少ない好きな学科以外は単位取得に必要な出席日数を計算し、試験も赤点ギリギリのところでクリアできればいい、と割り切っていたのか、たんに無気力なだけだったのか、教師からみればつかみところのない、やりにくい生徒だったに違いなかった。できるだけ社会へ出るのを遅らせようと進学するつもりでいたが、その学力では現役合格はままならず、浪人しても大して努力しないだろうからせいぜい中の下程度の大学にしか受からない、そう思っていた。仮に入学しても、まともに授業にも出ず途中でリタイアする公算が大きかったし、もし何かの間違いで卒業したとしても社会に出てちゃんとやっていけるか、甚だ心もとなかった。

 不登校に認定される欠席数をゆうに超えていたように思うが、そんなことどこ吹く風で午前中、ベッドの中でウトウト過ごし、午後にズル休みの罪責感を少し覚えながら好きな本を読むのが何よりの楽しみだった。例に漏れず、多感な少年期に嵌まりやすい自叙伝風の自意識過剰小説を経由して、大学受験のころには哲学や社会思想の分野を好んで読むようになっていた。

 どういうわけか、なんの拍子か、八十年代半ばの当時ですらすでに忘れられていたJ・P・サルトルを読んで、主体だの、アンガージュマン(投企)だの、虚無が孕む、不確かな可能性に共鳴したり、その延長線上で初歩的な左翼思想に触れて心を躍らせたりもした。たしか高校の一年生だったと思う、夏休みの課題図書に紛れ込んでいた左翼系の本の感想文を提出し、授業で日教組の教諭に褒められたりしていたのだから、それなりに素養があったのかもしれない。もちろん、社会を変革しようとストレートに考えていたわけではなかった。素朴に日常で感じる矛盾というか、理不尽な圧力というか、不可視でつかみところのない、心身に絡みつく不快感には敏感だったような気がする。

 僕は、モラトリアムの期間を少しでも延ばそうとその一心で受験勉強に臨んだ。どうにかこうにか中堅私大に合格したが、入りたかった文学部は落ちて経済学部にすべり込むかたちとなった。それが運のつきというか、良かったのか悪かったのか、八十年代後半の当時はまだ、マル経(マルクス経済学)を教える先生がいて、近経(近代経済学)と拮抗していた。僕はごく自然にマルキシズムの世界へ入っていった。大学一回生の夏に『資本論』を読み、コミュニズムとの相性の良さを実感した。いわゆるイズムの世界は理屈ではなく肌に合うかどうか。理論と実践は後からついて来る、何より肝心なのは感じることだった。虐げられ搾取された人たちに寄り添うこと、今では口幅ったい恥ずかしいフレーズも当時のナイーブな感性にしっくりいっていた。

 そうこうしているうちに議会主義を否定するセクトに目を付けられ、構内で再三オルグを受けるようになった。大学自治を仕切っていたのは当時も今も国会に議席を持つ党派の学生組織だった。彼らの日和見主義がみっともなく、へたれ感が格好悪く見えた。すでに弱体化していたとはいえ、その当時も公安にマークされていた過激派セクトの非合法な雰囲気に魅かれた。ただ、バブル経済真っ盛りの八十年代半ばに、よりによって左翼活動?と誰しも思う普通の感覚もどこかに持ち合わせていたし、「遅れてきた青年」という文学的な表現が当てはまりそうで恥ずかしかった。

 周りはほとんどノンポリで、深い真面目な話は敬遠され場を白けさせた。ましてや左翼的な話題を口にするなんてあり得なかった。結果的に彼ら同様、ふやけた、無気力なキャンパスライフに浸り、無為に時間を費やした。午後の授業が休講になり、早く家に帰るのも気が進まず学内をぶらぶらしていると、地味な感じの女の子に声をかけられた。サークルを装った新興宗教の勧誘だろうと、足を止めずやり過ごそうとしたが、少し引いた感じの話し方に惹かれるものがあった。心理学のレポート提出に絡み、話を聞かせてほしいという。時間がかかりそうなので「急いでいるので」と断った。すると、「あなたでないと困るのです」と彼女はしっかり僕の目を見て言ってきた。

 文学部棟地下の学食で彼女と一時間ほど話をした。米国の著名な心理学者の理論をもとに男子学生の行動様式をモニタリングして分析を加え、リポートに仕上げるという。期間は二週間でルーティンの変化を記録し報告してほしいという。要するに日常の習慣がどう変わったか、意識的か無意識にか、意識的ならその理由は何か、潜在意識がそうさせたのならなぜそうなったと考えるか、難しくてよくわからなかったが、そのあたりが肝のようだった。

 「たとえば…」と言って彼女は次のような例を挙げた。自宅から最寄り駅へ向かっていて、今日はどこかいつもと違う、意味なく違和感と覚えるといった体験や、友人や両親など長年付き合っている人たちに対する印象が微妙に変わってしまったとか、もっと言えば、身体の外側と内側の不均衡、そのずれを意識してしまい、嫌悪感を通り越して嘔吐をもよおしてしまった経験とか…。そんなこと感じたことも、意味も意図もよく分からなかったが、取りあえず黙って聞いていた。

 「協力への見返りなのですが…」。彼女は言葉を区切り、表情を変えずに続けた。「私を介して何かしたいこと、ありますか」。僕は「?」という顔をしていたと思う。日本語だし、一見センテンスに論理矛盾はなかったが、「見返り」というのもこの場合少し違うように思えたし、「介して」を自分自身に使うのも何かおかしく感じた。さらに「例えば、私があなたの道具となって何かを作り上げるとか…」と彼女。僕は「?」の状態が続き、表情が険しくなっていただろう。このあとも何を言っているのかさっぱり分からなかったが、こちらも感化されて思わず「僕の媒介物になるってこと?」。自分でも首をひねるようなことを言うと、彼女は大きくうなずいた。

 僕は何人かの大学教諭・研究者と仲良くなった。マル経関連を避ける学生がほとんどのなか、理論から学説史、哲学まで人気のない「真っ赤な授業」を好んで履修した。選んだ講義に通奏低音している「矛盾」や「変革」など純粋な響きに魅かれていった。マルクス=レーニン主義の理論体系、実践との整合性、実現への険しい道のりまで、僕の可能性の中心だった。

 イズムへの“入信”に欠かせない肌合いの良さ、極めてズレの少ないフィット感が僕と共産主義思想との間にあった。能力はともかく希少な若き左翼系人材として後々使えるのではないか、そう思われたのか、ある赤色教諭から食事に誘われた。一般教養の哲学を担当していた助教授で、大学から少し離れた和食屋で二時間ほど話した。どんなことを話したか、すっかり忘れてしまったが、あとで聞いた話ではその教諭がある過激派セクトの理論的支柱だってこと、鴨が葱を背負って来たように見えたのかどうかは別にして、こうして引き込まれていくのだなあ、と感心した。

 目を付けられる要因となったのは一回生の時に書いた稚拙な論文だった。マルクスの『資本論』に加え、レーニンの『帝国主義論』、ヒルファーディングの『金融資本論』を主要参照文献に、銀行を中心とした企業集団に支配されている経済・社会構造を分析し、資本主義の矛盾を明らかにしようとするものだった。青臭い論理展開にもかかわらず、経済学史の教授の後押しもあり、4回生の卒業論文に混じって「学生論文集」に掲載された。

 初めて活字となった、僕にとって記念すべきテキストだったが、これが思いのほか尾を引いて、その後の道行きに影響を及ぼした。資本主義を支える企業社会を真っ向から否定しているのに就職活動もないだろうと、三回生の後半になっても授業もそこそこに図書館へ通い、非生産的な想像や取りとめもない妄想をめぐらす学生生活を続けた。

 もう駄目だ、見込みがないと分かっていても、無かったことにできなかったし、身体に備わってしまったものを簡単に外へ放り出せなかった。内にあっておのれを規定する厄介なものから目を背けようにも逃れようにも打つ手なしの状態、そんな感じだった。巷でコミュニズムの終焉、キャピタリズムの勝利と吹聴されても、改めるつもりも軌道修正する気もなかったし、かといって目の前に新機軸があるわけでも、まやかしの善後策に寄りかかるわけにもいかず、ただ自意識過剰に社会へ対峙のポーズをつくるのが精一杯だった。

 バブル経済の恩恵に浴し、たいして苦労もなく就職して社会へ出て行った友人たちとは対照的に僕は卒業してもモラトリアムを享受し、何をするでもなくぼんやりとやり過ごしていた。仕事をしていないという意味で失業者だったが、そういう意識はなく、言ってみればこの社会にあらずという意味で「非社会人」と言えたかもしれない。ただ、親の手前、対外的には就職しない理由を大学院へ上がるため、としていた。じっさい卒業論文は上位十選に入り、再び「学生論文集」に掲載されたりしていたのだから、あながち研究者への道もない話ではなかった。

 多少意識して周りにそう印象づけていたが、頭の出来を考えると大学の研究者になれるはずもなく、秋に大学院の試験を受けるかどうかは別にして当分の間、なし崩し的に非社会人のままでいようと思った。モラトリアムを享受する罪悪感をよそに、内心に芽生えつつあった「小さな核」というか、未定型だが信じるに足りる、少しの可能性に賭けるつもりでいた。

 リポートを手伝った彼女とは大学を卒業しても何となく続いていた。お互い相手に何を求めるでもなく、こうあるべきというものもなくて、ただなぜか離れずにいた。彼女は大学卒業後、ある美術館の学芸員となり、忙しくしていた。もう付き合っているかどうか、はっきりしなかったが、たまに顔を合わせると、大学時代のように言葉少なにゲームセンターで時間をつぶした。

 彼女は僕の身の振り方について何も言わなかったし、心配するふうもなかった。普通の女の子が彼氏に抱くような思いを持ち合わせていなかったのか、彼氏であろうとなかろうと元々他人に興味がないのか、最初から僕のことをたいして好きでなかったのか。そのいずれかだったのだろうが、ただ僕にとってはキャンパスで初めて会った時の彼女の不思議な素振りも透明なイメージも色褪せることはなかった。


 僕は卒業して半年後、小さな求人広告に応募し、ちっぽけな出版社に入った。もう少しぶらぶらしようと思えばできたが、さすがに少し退屈気味で気分を変えたかった。古びたマンションの一室へ通い出して三カ月ほど経った晩秋の朝だったと思う。色の褪せたドアを開けてスリッパに履きかえ、畳にカーペットを敷いた奥の部屋へ入ると、先に来ていた社長から声をかけられた。朝早くに警察から電話があり、刑事が下の喫茶店で待っているという。

 「お忙しいところ申し訳ございません」。小さい方の男が喫茶店の奥で腰を浮かせて前に座るよう手招きした。僕は壁を背に男の正面に座った。斜め前にはがっしりした体格の男が表情を変えず僕を睨んでいた。どんな事件の捜査なのか、何を目的とした聞き込みなのか、肝心な点を説明せずにある人物の身辺についてのらりくらりと聞いてきた。

 「事件の捜査とか、彼が容疑者に挙がっているとか、そういうことではなくてたんにお話を伺いに来た、そう考えてください」。銀縁の眼鏡がくもっているせいか、小さな男の表情は捉えづらく、周りに無機質なものを漂わせていた。柔道の有段者に見える隣のごつい男はどんな話にも左右されないとばかりに微動だにせず前を向いていた。僕は、どんな質問にも出来るだけ表情を変えず短めに答えた。

 “拘束”されていた時間は思ったより長く、喫茶店を出ると早めの昼食で近くのサラリーマンが動き出していた。事務所へ戻り仕事にかかろうとすると、どんな様子だったのか、まだ三十過ぎの社長が聞いてきた。僕は小さな男に話したように言葉少なに報告した。もっと何か話すことがあるだろうと前のめりな社長をよそにパソコンへ向かった。

 僕のことで警察が来たわけでないのは分かっていたようで、そうでなればなおのこと、もっと話してくれていいではないか、そんな感じに見えた。たんに興味本位からなのか、何か見当のつくことでもあるのか、社長はこのあとも何度か話を蒸し返してきたが、そのたびにつれない態度に終始した。僕にはそれ以上話せない理由があった。

 僕はその当時、あるフリーランスのライターと仕事をしていた。校正記号を覚えたばかりの素人編集者だったが、彼は数々の不備に目をつむり、僕を一人前に扱ってくれた。二週間に一度程度、郊外の駅で待ち合わせて、ある中堅塗料メーカーの会長宅へ通った。生い立ちから学生時代のエピソード、父親の会社を継いだ経緯、業界団体での活動、バトンを託す次世代へのアドバイスなど、面白くも感心することもない俗な話を、あたかも歴史上の人物のごとくまとめる自叙伝の仕事でコンビを組んでいた。

 伺うたびに夫人が出してくれる上品な和菓子を前に、彼が資料をもとに話を聞き、僕がメモをとりながら相槌を打つ。ときに脱線する会長をうまく軌道修正しながら毎回、三時間ほど話を聞いた。雑談に入るとタイミングよく夫人がお茶を替えに来てくれた。それを合図に、眠りかけていた僕とうんざり感ただよう彼は季節に合わせた色鮮やかな練り切りに菓子ようじを入れて顔を見合わせた。ボブヘアというか、おかっぱ頭に近い彼との距離がどんどん縮まっていった。

 出版社といっても社名だけが仰々しく、業務の大半は自叙伝や社史などの編集・制作で実体は編集プロダクション、長時間労働の悪名高き“編プロ”に過ぎなかった。社長の奥さんが週二日ほど出て来て経理を処理し、僕ともう一人が編集の実務、社長が営業と編集統括という役回りだった。超零細とは言え一応株式会社の形をとっていたが、健康保険や年金は個人加入だった。労基署が入れば確実にアウトな労働環境のもとで働いていた。

 一方で、多少は気が引けたのか、福利厚生のつもりなのか、スポーツクラブの法人会員となり家族のほか僕ら社員も使えるようにしていた。このほか、忘年会の代わりに社長の小さな子供たちも連れて近くの温泉地へ一泊する慰安旅行も恒例行事となっていた。ただ僕はしばらくの間、前任者が若くして脳血管障害で死んでいたこと、その親族が労災適用を訴えて裁判沙汰になっていることを知らなかった。

 ボブヘアのライターは会長宅からの帰り道、事務所へ早く帰ってもしょうがないだろうとよく喫茶店に誘ってくれた。うすうすは感じていたが、彼は七十年安保闘争のとき、あるセクトに所属し留置所への短期収容を含めて拘置経験六度の強者(つわもの)だった。八十年代後半の当時もまだ、破防法適用の過激派セクトとみなされていたため、部外者の僕に対し当初慎重に言葉を選んで話していたが、その部類の、同じ系統の人間だとわかると打ち解けて様々な際どい話を聞かせてくれるようになった。

 自宅の電話が盗聴されているのは当然として、二、三日留守にしていて久しぶりに帰宅すると置いてあるものの位置が変わっているとか、反対派セクトの襲撃に備えて夜もおちおち眠れないとか、裁判闘争のエピソードも加えて時に面白おかしく話してくれた。歴然たる力の差を拭えない権力機構に対し、稚拙なゲリラ戦法というか、ほとんど素手で闘いを挑んだ、当時の左翼青年の心情が生々しく感じ取られ哀愁を覚えた。なかでも、収監に絡む母親との一件は、あのボブヘア以上に印象的だった。

 彼が半年近く留め置かれていたとき、母親は心配して何度も拘置所を訪れた。彼女は刑務官に息子への差し入れを頼んで帰って行った。ボブヘアはそのときの母親の態度が許せないと言って親子の縁を切ったという。どの母親でもするように刑務官に頭を下げて「息子をよろしくお願いします」とでも言って、菓子折りの一つでも渡したのだろう。資本主義礼賛のバブルなご時世からは想像できないが、センシティブでナイーブな安保世代の左翼青年には許せない態度だった。

 たとえ親であっても、いや近親者だからこそ、なおさら許せなかったのかもしれない。裏返せば母親への甘えに違いなかったが、世間様に迷惑かける出来の悪い息子でも、その志に一分の理があると心のどこかで思っていれば刑務官に媚びを売るなんてこと、できるはずがないと責めたかったのか。社会に何のインパクトも与えない無駄な抵抗であっても、彼にとっては自己実現へ向けた掛け替えのない行動だった。理解とまで行かなくとも、せめて血を分けた母親には理屈抜きで認めてほしかったのだろう。

 二人の刑事に喫茶店へ呼び出され、あれこれ聞かれたことを彼に話そうかどうか迷っていた。不利にならないよう言葉を選んで話したつもりだったが、こちらのうかがい知れぬところで彼に迷惑をかけてしまっていたら、と思いなおしてやり取りの詳細を報告した。僕の心配をよそに彼は「大したことないから気にしないように」と笑ったあと、何の事件で容疑をかけられているのか、事もなげに話してくれた。八十年代後半に世間を騒がせた、大手新聞社襲撃事件の容疑者の一人に数えられていたのだ。

 当時新聞などの報道では、犯行声明から極右の仕業とされていたが捜査線上には極左関係者もリストアップされ、ローラー作戦の対象にされていた。わがライターの属していたセクトは左翼過激派の中でも一、二の組織力を持ち、武装路線で中心的な役割を果たしていた。公安当局にすれば、頭に「極」がつく暴力集団なら左右を問わず、思想・信条に構わず、散弾銃を使って記者の一人や二人を躊躇なく殺(や)るだろう、と見ていたのかもしれない。結局、この事件は迷宮入りして三十年以上経った今も犯人は捕まっていない。ライターいわく、「左右どちらも体よく公安に利用されただけ」の結果に終わった。

 彼ら安保世代には、僕はいわゆる「遅れてきた青年」に見えただろうし、同じように尊いバカがこのバブルなご時世にもいたのかと、驚きと親愛、哀切の情でもって希少な小動物を見るように接してくれていたのだろう。このあと、僕は小さな新聞社や雑誌社、広告制作会社などを転々とし結局フリーランスになるが、六十年安保で活躍した老兵たちも含めて左翼思想を共同幻視し、果敢に実践に移した先輩諸氏、多くは同業者だったこともあり、合法・非合法を問わず、分のいい仕事を回してもらい、そのお陰で何とか生きながらえた。


 僕はいつもと違うホームに降り立った。出版社へ通い出して半年が過ぎようとしていた。まぶしい陽の光と肌寒い気温のアンバランスが心身に応える三月初旬の朝だった。いつも通り自宅を出て電車に乗ったが、一斉に降りる乗客を横目に僕は吊り革をつかんだままやり過ごした。あのマンションの狭い一室へ行く気になれなかった。そのときは、あとで事務所へ連絡を入れて熱が出たとでも告げるつもりでいた。たんに朝から気分がすぐれないので仕事をサボる、ただそれだけだった。

 登校拒否まではいかずとも元々引きこもり気味で社会適応能力が低かったのに加えて、大学に入って中途半端に左翼思想に染まり過激派セクトにシンパシーを持つようになった。いよいよもって社会とうまく間合いの取れない、非社会人化が進み、そんな偏りのあるナイーブな半端者が、矛盾に覆われた資本主義社会で真っ当に生きていけるはずがなかったし、さすがに受け入れる側もあえて面倒な輩を受け入れる度量というか、馬鹿な悠長さを持ち合わせているはずもなかった。

 卒業して半年が経ち、秋の大学院受験が近づくにつれて次第にごまかしが効かなくなり、やむを得ず新聞に出ていた五行ほどの求人広告に応募した。相性が良かったのか、いまの出版社に入った。居場所を探しあぐねていた身には、会社組織として体を成していなくとも、過重労働で社員が死んでいようと、少しのあいだやり過ごすにはちょうどよかった。でも、結局そう長くは続かなかった、いやよく続いたほうなのかもしれなかった。僕は降りたホームで次の電車を待った。

 快速電車は春の観光客で賑わう古都の町並みを抜け、湖面に映える山あいへ入って行く。県庁所在地らしい大きめの駅を過ぎると電車は各駅に停まり出した。トンネルを一つ抜けるたびに停車時の静寂感が広がり、増していく。小さな鉄橋に差しかかっていた。僕は身体を斜めにして車窓越しに渓谷を見下ろした。それも束の間、短いトンネルに吸い込まれていく。僕は暗くなった車内で、もう少し先へ行けば次元の異なる空間へ、それこそ心身のずれを修正してくれる、穏やかな世界へ足を踏み入れられるのではないか、そんな現実味のない、淡い幻想をいだいていた。電車はひと気のない駅に停車した。

 否応なく澱のように溜まっていく意識の重さから開放され、微かでも光明がもたらされるのではないか。もしかして確かなものが、この心身を浄化してくれる、何か尊いものが舞い降りて来るのではないか。たとえ錯覚であっても、パラレルワールドへの誘いならなおのこと、それこそ彼岸への道行きであっても僕をそこへ連れて行ってくれるなら…。僕はつむっていた目を開けた。そこは終着駅らしかった。

 無人の改札を出ると、小さなロータリーにタクシーが一台止まっているだけで人の気配はなかった。両側に連なる数軒の商店も開いているのかどうか定かでなく、ただ目の前に道が開けているだけだった。このまま進んでいけば海へ出られるのだろうか、地の果てる水際へたどり着けるのか、僕はただ、前へ進む理由があればそれでよかった。どういうわけか、もう引き返せないと思った、この渇きを充たしてくれるものに行き当たるまでは。それは、海である必要はなかった、豊潤で透明な青のタブローを欲していた。

 いくつ目の停留所だったのだろう。僕がそこへ差しかかったちょうどその時、バスが停車した。きっと一時間に一本、いや一日に五本程度しか走っていなかったのかもしれない。後方の扉が開き、招き入られるように乗り込んだ。僕は一段高い後ろの席に座った。バスは、ところどころ舗装の途切れた山道を上って行く。なかなか対向車に出会わなかった。誰も乗っていないのに加えて運転席が見えなかったため、バスがひとりでに動いているように感じた。僕をどこへ運んでいくのか、海の見えるところまで行ってくれるのか。後輪から伝わる振動に身を委ねながら車窓に浮かび出された顔をぼんやり眺めていた。

 喫茶店へ呼び出されたとき、刑事が言ったことを思い出していた。「電話をかけた時、奥さんが出られたこと、ありましたか」。僕は質問の意図が分からず、慎重に言葉を濁してやり過ごした。このほかにも、ライターに絡めてはいたが、そのパートナーのこと、その身辺について聞き出そうとしていたのではないか。彼はダミーに過ぎず、刑事たちが聞きたかったのは彼のパートナーの方、正確に言えば彼女が属しているセクトについてだったのでは…。彼に不利にならないよう、そればかり考えていたので他のことが疎かになっていたかもしれない。もしかしたら、警察のためになる情報を提供していたことになるのではないか。硬直した身体が暗闇の車窓の中へ吸い込まれていくように感じた。

 取材の帰りに一度、ライターから自宅へ誘われたことがあった。パートナーは仕事で居なかったが、挽きたてのコーヒーと干しぶどうの入ったパウンドケーキを慣れた手つきで出してくれた。左翼思想からどう行き着くのか分からなかったが『論語』の新釈原稿に力を入れていること、留守のあいだに誰かが不法侵入すればすぐに分かる仕組みについて、加えて毎朝欠かさないフランスパンのうんちく、さらには肩まで伸びた髪と長いあごひげの紋付袴姿の結婚式でのエピソードまで。相当機嫌が良かったのか、話は脱線気味にパートナーとの馴れ初めに及んだ。

 パートナーの彼女が属していた過激派セクトは、彼のセクトとは近親憎悪の関係にあった。元をたどれば同じ幹から出ていたが、途中枝分かれして犬猿の仲、ゲバ棒で殴りあう関係になっていた。左翼過激派界のロミオとジュリエット? 彼はそんな筋立てで冗談を飛ばしながら公安警察との攻防を戯画風に面白おかしく話してくれた。そのときは認識不足だったが後で気になって彼女のセクトについて調べてみると、極左中の極左、爆弾闘争も辞さない暴力主義を信望する超過激派セクトだった。公安警察が、極右による新聞社襲撃事件を極左締め付けの口実に使っていたというのが当時の左翼系関係者の見方だった。

 僕はけっきょく、事務所に戻らなかった。三、四日ほどの短い逃避行だったが、母親が心配してくれた程度で大きな問題にならなかった。青年期のナイーブな自分探しの旅と思われるのは心外だったが、それで許されるなら構わないと思った。一週間ほどの引きこもりで心身のバランスを取り戻し、性懲りもなく新聞の小さな求人に履歴書を送った。たとえ否定している社会であってもその中で生きていかねばならず、何をするにせよフリーランスで食っていけるほど能力も技術も持ち合わせていなかった。このあと、社会への適応能力を養うこともなく、ただ意味なく転職を繰り返した。


 僕は例の仕事がペンディングしている間、大学時代の友人というか、当時の関係者に連絡をとった。もちろん、ちゃんと社会人として堅気に暮らす将来有望な青年たちではなく、いまも非合法活動に手を染め、水面下で公安とやり合っている極左の連中。彼らのように度胸が座っていない僕は当時、シンパとして機関紙の定期購読や、ときに集会に参加するなどアルバイト代の一部を貢ぐ程度の関わりに止めていた。それでも卒業後、所在を特定され、集会への参加やカンパを度々求められ、たいていは応じていた。

 彼らに対し後ろめたさがあった。ヤクザの世界と同じ、一度足を踏み入れたらなかなか抜け出せない非合法組織に対する漠然とした恐れ、そして畏敬。当時、僕が卑小にも守ろうとし、彼らが見事に捨て去っていたもの。おのれの臆病さ、弱さゆえにずっと囚われ引きずってきたもの。その非対称、その落差、その呪縛から自らを解き放つ必要があった。

 何を守ろうとしてきたのか。社会的な体裁? 親族におよぶ負の影響? それこそ生への執着? 死への恐れ? いや、意味なく自らを守るため、ただこの身を保持するため、かけがえなくも取りに足らない、このおのれを。もともと、この資本主義社会の中で守るものも、占めるところもないはずなのに…。もう、そんな情けないところから抜け出さないといけない、僕はそこへ向かってもがいていた。

 元締めの事務所がガサ入れを食らって半年が経ち、一緒に慰安旅行した面々もほとぼり冷めて徐々に戻り始めていた。静かにしていた元カメラマンの友人も態勢を立て直し、移転したマンションで久しぶりに会うことになった。前と同じように大通りから少し入ったところに新しい事務所はあった。

 所在する番地を頭の中で復唱しながらビールの自動販売機を探した。酒屋がありそうになかったのでコンビニエンスストアを見つけようと歩いた。いまのように数が多くなく、けっきょく駅から三筋ほど離れたところで見つけ、いつものロング缶二本を手に彼のマンションへ向かった。何の表示もないメールボックスを横目に、聞いていた三桁の数字をオートロック盤に打ち込んだ。前のマンションに比べてやや広くなったエントランスに愛想のない彼の声が響いた。

 ワンルームから二間に変っていた。一部屋は仕事場として、彼の机と僕の作業机、前とほぼ同じ配置にしてくれていた。パソコンと受像機、レコーダーの位置も変らず、僕は以前と同じようにショルダーバッグを足元右下に置いて仕事を始めた。リモコンで早送りと一時停止を繰り返しながら七、八分で一本仕上げるリズムに変わりなく、何ごともなかったように作業を続けた。

 ビデオのコンテンツが半年で大きく変わるわけもなく、相変わらず映し出される男女の絡み合いに淡々とタイトルを付けていった。本質から遠く離れているようで僕にとって大切なトイレ環境が格段に向上したのはうれしかった。ただ、このまま二週間も放置すれば前のように惨憺たる状況になるのは目に見えていた。次に訪れるときはトイレ用ブラシと洗浄剤を買って行こうと思った。

 彼が例のごとく机の引き出しから小さな缶を取り出し、慣れた手つきで葉っぱを吸い始めた。あの独特な甘い香りが部屋に漂った。もう勧めることはなかったが、二時間も狭い部屋に一緒にいると、気のせいなのか実際にそうなのか、間接薬中(薬物中毒)効果で神経が弛緩、コピーライティングが進むような気がした。

 彼は、ほかの仲間と売春に代わる風俗系の新ビジネスを思案中だったが、一年前のホテトル一斉捜索のダメージは大きく、うまく進んでいないようだった。小商いの裏ビデオ制作を補うべく葉っぱ栽培に力を入れて当座をしのごうとしていた。仕事部屋よりひと回り広い、もう一つの部屋には天井から促成を早める照明器具が張り巡らされ、ところ狭しに並ぶ大麻草のプラントを照らしていた。

 友人のマンションへは以前と同じ、週四日のペースで訪れるようになった。精神的な余裕とまでは行かなくても日常生活に対する神経症的な構えが緩和され、少し楽に送れるようになっていた。僕は仕事のない平日の夕方、目的もなくぶらぶらと散歩に出て気晴らしすることを覚えた。自分の中ではブームだった初夏のある日、気づくと自宅からけっこう離れた、二駅ほど先の住宅街に来ていた。小さな店に目がいった。その前に小さい男の子と三十歳前後の女がいた。

 二人は、洋食屋の前で料理のサンプルを見ていた。男の子がうれしそうに女の顔を見上げた。例の男の子だった。こんなところで出会うとは…。でも不思議とそんなに意外感はなかった。女のうなずく素振りに安心した表情を浮べ、手を引かれて中へ入って行った。遠巻きに見ていた僕は、何の躊躇も要らないのに店の前で足を止めた。男の子が僕のことを知っているはずはなく、普通に客として扉を開けて中へ入り、少し離れた席に座ってオムライスかスパゲッティでも注文すればよかった。いつもの自意識過剰にとどまらない、自分でもどういうものなのか、どうしていいのかわからない、彼に対する強い思いがそうさせたのかもしれなかった。

 ようやく一人よがりの思いに整理をつけて扉に手をかけた。ドアチャイムの音にぎくりとしたがそのまま中へ進んだ。雑然とした狭い店内をイメージしていたが、思っていたより広く、週刊誌やマンガ本もきれいに棚に収まっていた。男の子と女は奥の小さなテーブルで向かい合っていた。僕はカウンター席に腰を下ろし、すぐにメニューを手に取った。何気なく二人を視野に入れるには、カウンターに左ひじをついて手のひらにあごをのせ、少し顔を左へ傾ければよかった。

 メニューを広げたまま、不自然な様子にならないよう気をつけながら何度か二人の方へ目をやった。手話で話しかける女の背中が見えた。男の子はその後ろ姿にすっぽり隠れてその表情を確認できなかった。僕は当初、女が養護施設の関係者だと思い込んでいた。でもよく見ると、その服装から髪型、身のこなし、特に姿勢の悪さから、そうでないような気がした。もっと言えば身持ちの悪い感じさえして、女の存在自体が男の子の境遇の原因になっている、そんな考えさえ頭をよぎった。店内は、音も声もしない不思議な静寂に包まれていた。

 六十歳前後のマスターがカウンター内で丸イスに腰を掛けて所在なげだった。僕は食べかけのスパゲッティに目を落とし、とりとめのない思いにふけっていた。フォークを皿に沿わせて麺をすくおうとしたがうまく絡んで来なかった。諦めて皿の隅に少し残したまま席を立とうとしたが、スープだけでも飲み干しておこうと思った。すると、二人の席から奇声が聞こえてきた。男の子の声だった。何を言っているのか聞き取れなかったが、哀願するような口調だった。

 僕は思わず二人の方へ振り向いた。女の手の動きが慌しくなり、男の子をなだめようとしているのが分かった。それきり、男の子は声を発しなかった。どんな表情で女と向き合っているのか。僕はのぞき込みたい衝動を抑えながら足の置き場が不安定なカウンター席で身を硬くしていた。男の子の厳しい表情や悲しい仕草を見たくなかった。この瞬間もこれからも、社会の汚い現実に染まってほしくなかったし、いつもあの笑顔のままでいてほしかった。僕は、店内の重たい空気を振り払うかのように外へ出た。

 小さな男の子を見て、居たたまれない気持ちになるのはこれが初めてだった。地下鉄の車内で彼に出会って以来、どうにもこうにも自分を制御しきれない情況に戸惑っていた。社会的な規制でいまではほとんど見かけなくなったが、八十年代後半当時は幼児性愛ものが裏でも多く出回っていた。仕事ではせいぜい三十本に一本の頻度でまわって来る程度だったが、隠し撮りや投稿を装った恣意ものに加えて、幼児モデルを使ったスタジオ撮りや演出を施した、目を覆いたくなるものもあった。

 裏ビデオのタイトル付けを長くやっていると、感覚鈍化に伴う性的能力の低下、果てはインポテンツの恐怖にさいなまれるが、その一方で潜在する自身の性向に否応なく向き合わされる。どういうタイプの子を好きになるのか、誰しも漠然とは意識しているが客観視する機会は思いのほか少ない。それが分かったからと言って、具体的に何かに生かせるわけでもなかったし、少なくとも僕に限っては幼気な子供の裸で欲情をもよおすようなことはなかった。


 大学時代に知り合った彼女とは連絡を取り合うのもまれになっていた。僕も彼女も積極的にアプローチする方でも、ことさら相手の気を引こうとか、意識して合わそうとか、そんなタイプではなかった。付き合っている普通の感覚からは大きくずれていただろうし、周りにはちょっとした知り合いにしか見えなかっただろう。相手がどう思っているか、それほど意識することもなく、よく言えば自然体、本当のところは大して互いに興味がなかったのかもしれない。そんな彼女でもまれに情愛を垣間見せるときがあった。特別展の企画運営会議で自分の意見が採用された、と博物館近くの喫茶店でめずらしく興奮気味に話したあと、ひと呼吸おいて切り出してきた。

 「これからどうするの。私のこと、どう思ってるの?」。このあと、どこへ行こうか、何をしようか、それすら考えても決めてもいなかったのに、二人のこれからって? 僕はまだ口をつけてないコーヒーカップを前に言葉を失った。普通の女の子のようにそういうことを言わないから今まで続いてきたのに。そもそもセクシュアリティーの対象にしてきたのか、彼女を。仕事柄、二次元の世界に慣れ親しんだ僕は、数えるほどしか抱いてない彼女の裸体を思い起こそうとしたが、頭の中に浮んでくるのは裏ビデオの映像の数々。抑え込んでいる猟奇的な凌辱シーン、死をモチーフにした哀切な情欲地獄、マゾから反転する攻撃的な突き上げ、なぜか程よく肥えたずん胴の中年女…。僕の偽りのない性向。そのイメージの中に彼女の肢体はなかった。

 でも、いや、だからなのか。その晩、僕は彼女を抱いた。生身の女は久しぶりだった。ビデオの世界とは別だと強く自分に言い聞かせて事に臨んだが、正直エレクトするか心配だった。女が感じたか満足したか、普通の男のように意識はしなかった。裏ビデオ関係者が少なからず保有する真珠入りの逸物以外、愛情のないセックスで大きな差が出るとは思っていなかった。

 こうした二人の不自然な律動が関係性を強める要素となるのか、ひいては愛を深めていく? ビデオに映る滑稽な動きが頭をよぎった。インポテンツがいつか訪れる? 九十年代初頭のソビエト崩壊に続く、僕の中での一大事? もちろん、瑣末なことに過ぎない、いずれそうなるってこと。僕にとっても、そう世界にとっても…。

 キャピタリズムによる一人勝ちは、社会生活を営むにあたって支障を来たすという次元に止まらず、もはやニヒリズムでごまかす以外、ほとんど死しか意味しなかった。ただ、ソビエトや東欧がなくなったからといってコミュニズムがなくなるわけではなかったし、主義者たちが全否定されるいわれもなかった。

 マルクス=レーニン主義とそこから派生した諸思想・行動原理が、この世で生きていくのに何の役にも立たず、逆にハザード、大いなる妨げにしかならなかったとしても、それを精神的な支えにしてきた者たちがその末路をしっかり受け止めて、微視的にはともかく、その愚鈍なベクトル、矛先を一か八か、しっかりターゲットに焦点を合わせ、潔く、できれば美しく砕け散れるかどうか、そこにすべてがかかっていた。取るに足らない、レフトウイングの隅にいた、雑魚の僕でもそう思っていた。

 疎外・搾取が極まって(も)桎梏から逃れられない、がんじがらめにされて。これまで見たこともない責め苦が巧妙・高度に容赦なく襲いかかってくる、有無を言わさず合法的に。幻想に過ぎない経済合理性を前面に推し立てて強者必勝・弱者劣敗の必然を説く、それも柔和な表情で。精神を破壊し肉体を麻痺させる、遺伝子へ影響を及ぼす、知らぬうちに。生殖能力の低下を招くとともに権力への対峙能力も殺いでいく。生殺しを好むキャピタリズムの本質…。

 従順で無機質な連鎖を作り出す、使いやすいように直線に並ばせて。網状に交差させ負のネットワークを形成させる、無抵抗な組織を堅牢に。有無を言わさず、組織の一員として役割を授ける、一律に可能性を奪って。整列の苦手な者どもをピックアップする、ヘッドギアをかぶせて電流を。ピクリと顔の一部をひきつらせて、クローンたちは最前線の部隊へ送られていく。止まることのない、資本主義社会の進化?


 広告制作会社にいたころ、クレジットカードの請求書とともに入ってくる毒にも薬にもならないリーフレットの制作に携わった。韻を踏むのが苦手な編集系コピーライターにとって好適な仕事だったが、案の定、周りからの下らない要求や当を得ないディレクションに辟易した。有名な建築家が設計した、コンクリート打ちっ放しの事務所には十を超えるチームが店子のように入居し、それぞれが代理店やクライアントと直に仕事をする形をとっていた。

 僕がいたチームは、アートディレクターとデザイナー二人の小世帯で、小冊子やカタログなどプレゼンで勝ち取る必要のない仕事を回されることが多かった。納期のきついものがほとんどで、クリエイティブ性が低いにもかかわらず毎日終電間際、土日出勤を強いられる過酷な労働環境だった。ただ、始業時間があってないような感じで昼前出勤が常態化していたし、無断欠勤をしてもたいして怒られなかったため、社会性の低い者でも比較的長く勤められた。

 ゴルフコンペの景品カタログを担当していたときは、編集ページの制作で豪州など海外ロケに行ったり、国内でもリゾート地のゴルフ場取材で旅行気分を味わったりと、一般社会的にはいい思いをさせてもらった。忙しくも意味なく無為に過ごすにはよかったが、業界体質というか、二十歳そこそこの若い能力を使い捨てにするやり方、クリエイティブな仕事に携わっているとの幻想を抱かせて、長時間・低賃金労働に疑問を抱かせない巧妙さにうんざりしていた。

 一時期同じチームにいて、新たにチームを立ち上げたデザイナーが過労で亡くなった。何度かアパレル関係のチラシでコンビを組んだが、ひとのいいところを付け込まれて納期が極端に短い、面倒な仕事を振られて完徹が続き、机に突っ伏したままあの世へ逝った。周りから不夜城と呼ばれていた、真夜中も煌々と灯りがともる事務所で何人目の犠牲者だったのか。若い能力を喰いものにして成り立つ業界にあらためて吐き気を覚えるとともに、そこに関わる自分自身を凝視できなくなっていた。ある夏の日、何かの手続きで総務に顔を出すと若い女の事務員がアイスキャンディー片手にラジオから流れるポップスを口ずさんでいた。その女の子に罪はなかったが、そのあと気分がすぐれず三日ほど無断欠勤した。僕は、そのまま事務所を辞めた。

 フリーランスになって初めての仕事が海外取材だった。東アジアのある国がパチンコを輸入して普及させようとしていた。日本国内では中古パチンコ台の廃棄問題もあり、後押しする動きがあったほか、日本の遊技組合をまねて業界団体を立ち上げた、という情報のもと、現地を訪れた。植民地時代に日本語教育を受けた年配のコーディネーター兼通訳とカメラマンの3人でパチンコホールや所管する役所、新たに就任した団体幹部の事務所など数カ所を足早に取材した。

 業界を二分する有力者の一人は、路肩の舗装が欠けた幹線道路沿いに事務所を構えていた。半地下に潜っている入り口を内側から開けてくれた。ドアというより鉄板の扉は厚さ十㌢ほど、思わずカメラマンと顔を見合わせた。中に入るとバーカウンターがあり、チャイナドレスを着た女が笑顔で迎えてくれた。

 新団体の理事長に就任したというその男は、透明の防弾ガラスに囲まれてデスクの前に座っていた。笑顔で立ち上がり、握手を求めてきた。僕が手を差し伸ばしたとき、カメラマンが機材の一部を床に落とし、高い金属音が部屋に響いた。理事長は一瞬、握る手を止めてカメラマンへ睨みつけるような鋭い視線を向けた。すぐに穏やかな顔に戻り、ソファーに座るよう促してくれたが、垣間見せた凄みのある表情が強く印象に残った。女が甘い香りを放ちながらカクテルのような色鮮やかなソフトドリンクを三人分、音を立てずテーブルに置いた。初代理事長は思いのほか、理路整然とポイントを押さえて業界の現状を説明してくれた。

 事前に聞いていた話とは違い、もう片方の団体トップとの軋轢もちょっとした行き違い程度でドンパチするような深刻なものではないと笑顔で答えてくれた。“混沌の”とか“深まる対立構図の”とか、当初イメージしていた形容句が使えなさそうで少し気落ちしながらもインタビューを進めていった。取材も終わりに近づき、カメラのシャッター音が響く事務所内を改めて見回すと、防弾ガラスに囲まれたデスクと反対側に扉があり、奥へつながっているようだった。その上には監視カメラが四台、僕らに照準を合わせ、自動に動いていた。

 お礼のあいさつもそこそこにその場から早く立ち去ろうとするカメラマンと、落ち着きはらった通訳の爺さんが好対照で妙におかしかった。理事長は大通りに出て僕らの姿が見えなくなるまで手を振ってくれた。いつの間にか彼の両側に屈強な男が控えていた。「早く引っ込まないと、危ないのに」と爺さん。取材対象者がこの辺りで有名なヤクザの親分だと後で聞かされた。八十年代後半、日本最大の歓楽街に無法な輩を送り込み、本国で差配していたのが彼だった。

 海の向こうからやって来た黒社会の構成員たちは、○○マフィアとして手荒なやり口がマスコミに取り上げられ、日本の暴力団からも一目置かれる存在になっていた。仕事をくれた雑誌の編集担当者は帰国して事務所を訪れると、少し申し訳なさそうな素振りを見せながらも、にやけた表情を押し殺すように出迎えてくれた。記事が特別レポートとして掲載されると、例のマフィアの一人から編集部に直接連絡があり、親分(理事長)が喜んでいると知らせてくれたという。

 この海外取材が端緒となって、このあと結果的に仕事の大半がアンダーグラウンド関連になってしまう。幸か不幸か、良い悪いは別にして社会との向き合い方で何か吹っ切れたのは確かだったし、オーバーグラウンドへの未練を断ち切るいい機会となった。表があれば裏がある、じゃなくて裏があるから表があったし、たとえ表層に現れ出なくても、ずっと潜在して社会的に陽の目を見なくても、その存在は確かなもの、僕にとってはしっかり手触り感のあるものだった。

 資本主義社会の中で、真っ当に生きていけない出来の悪い奴らとの国際色豊かな接触、ダークで非合法な交流。法治社会では本来存在しない、してはいけない残余な者たちの限界と反権力としての可能性。既存の構造を打ち壊すポテンシャリティと光明を垣間見せるディコンストラクション(脱構築)。連続と非連続、そしてシークエンス。合法に非ず。その可能性の中心にいると錯覚し、その周縁にしがみ付いていた。そこが僕の居場所だった。


 男の子のいる養護施設へ向かっていた。ふらりと自宅を出た時はどこへ行くとも決めていなかった。少し距離のある河川敷か、一度も買い物したことのない商店街か、結局よく行く定食屋さんか。意識を極力殺してベクトルを定めず足の赴くまま、ただトランスポートしようと。意識とイコールの目的を圧殺し、プロセスに不感症となって、視界に入って来るものどもをことごとく捨て去っていく、無意識に。

 時間の意識も空間の感覚も、まつわり付いてくるものをすべて振り払って突き抜け、滑降したい気分だった。それで未来が開けていくわけでも、小さな快感が明日待ち受けているわけでもなかったが、嘔吐感を抑えるため、ただそれだけのために進んでいたのかもしれない。僕は途中から、男の子が動くたびに揮発する、希薄な霧状の覆いの中に舞い込んでいた。彼の発する優しい微光が僕を包んだ。気がつくと僕は施設の前にいた。

 居たたまれない気持ち、整理し切れない快とも不快とも言えない宙吊りの状態をそのままにしておくのは難しい。何かに集約して気を落ち着けたくなるが、そう簡単にはいかない。どこかにこもっておのれを凝視して済む話ではなかったし、少し足を動かせば滑り落ちそうな、かといってずれを修復する手立てもなく、ただ立ち尽くすだけ。いろんなものを奪われて“崖の淵”まで来ていた。

 ちまたで希望の光と言われているものは大概、死と隣り合っている、そんなことは幼いころから分かっていた。ただ、腕も足も奪われて途方に暮れているとき、安息の地を求めるのは罪だろうか。あの哀切の微笑み、信じられるもの。心身が穏やかに、ひとつに、次第にずれが重なり合わさっていくのを感じていた。僕は死へ向かっているのだろうか。もしかしたら、すでに死んでいるのかもしれなかった。

 養護施設はぐるりと塀に囲まれていた。僕は男の子の姿を探した。狭い運動場にはいなかった。正面の入り口から反時計回りに外周をたどった。ちょうど半周辺りに裏口があり、中をのぞき込もうとしたが先生らしい若い女と目が合い、その場から足早に離れた。敷地内へ入る勇気もなく所在無げに立ちすくんでいると、後ろから声を掛けられた。

 不審者と思われているに違いない、そう思ってハッとした表情で振り返ると、中年の男が立っていた。予想に反して丁寧な口調で「どうぞ、中へお入りください」と手招きした。事態がのみ込めず逡巡していると、男は笑みを浮かべ再度促した。僕は軽く頭を下げて男に続いた。日当たりの悪い片隅で男の子がひとり、こちらを見ていた。僕は一瞬、立ち止まったが戸惑いはすぐに消えた。男の子の背後から一筋の微光が僕の足元まで延びていた。後光に包まれた、微笑む彼のもとへ歩を進めた。


 ちょうど一カ月ほど前のことだった。女の声で電話があった。誰だか分からなかったが話しているうちにある女の顔が浮んできた。この声がその女かどうか、確信が持てずにいると言葉を詰まらせて「助けてほしい」という。次に元カメラマンの顔が頭をかすめた。どうやら見当違いでないらしい。“自業自得じゃないか、後ろ手に縛られて閉じ込められいるわけでもあるまいし”。当たり障りのない表現で同じような意味のことを言って返した。仕事終わりの焼肉に彼が何度か連れてきた女からだった。連絡先を教えたかどうかさえ忘れていた。「分かった、そうする」。女は納得したような口ぶりで電話を切った。

 僕は、成り行きでホテトルの営業ツールも請け負っていた。当時電話ボックスにベタベタ貼られていた、あの下卑たシールだ。コピーライターが要る制作物ではなかったが印刷物と言えば…ということでお鉢が回ってきた。裏ビデオのキャッチコピーほどではなかったが、表の制作物に比べて効率のいい仕事に変わりはなかった。たびたび銀行口座の金額を確認するタイプではなかったが、いつの間にか普通ローンを組む必要のあるものでも、たいていは逡巡することなくキャッシュで買える、ご身分になっていた。

 違法な生業で儲けたお金を、社会変革に寄与する非合法な活動へ還元する、いずれそうするつもりで贅沢もせずアンダーグラウンドな日常生活を謙虚に送っていた。当初はアルバイト感覚でまわしてもらっていた裏ビデオの仕事もフリーランスになって本業化し、気がつくとホテトル関連へ足を踏み入れるまでに。この調子ならいずれは大麻の栽培も…。いつまで首を横に振っていられるか、心もとなかった。

 ホテトルから足を洗いたがっている、例の電話の女と会うようになった。「そんな関係じゃないから、どうぞご自由に。なぁ兄弟!」と笑う友人の顔を思い浮べながら女の話を聞き流していた。食事のあと、女は決まって誘ってきた。お互い職業柄、自然とそう持っていくのに躊躇はなかったが、当然のように受け入れる自分に距離を置きたい日もあった。「無理しないでいいよ、今日は帰ろう」。女はコーヒーカップの持つ手を止めた。

 彼女は、両手でカップを包み込み、うつむいていた。これまで見せたことのない仕草だった。「一緒に来る?」。僕自身、予想もしていなかった言葉が口をついた。通りでタクシーをつかまえて、ホテルでなく自宅近くのメルクマークを告げた。「いいの?」。女は降り際に僕の目を見て確認した。「逆じゃないのか」と僕は笑ってしまった。暗がりではっきりとしなかったが、彼女はぎこちない笑みを浮かべ、目を赤くしていたように見えた。

 その夜、僕と彼女は狭いベッドで寄り添い、何年も付き合っているものどうしのように眠った。目覚めて横に女がいるのは久しぶりだった。化粧がすっかり落ちた無防備な横顔に安心感を覚えた。「ずるい、なぜ起こしてくれないの」。簡単に身支度を整えて傍に座っていると、彼女はふとんから顔を半分出して不満気に言った。ちょうど昼の十二時を過ぎたころだった。「どうする? 僕はもう出るけど」。彼女はベッドに潜り込み、壁の方へ寝返りを打った。スペアキーをテーブルの上に置いて自宅を出た。

 そろそろ四本目のビデオに取りかかろうと画面を早送りにしてタバコをくゆらせていると、友人が受話器を持ったまま、にやりとした。この事務所で僕に電話がかかってくるわけがないと思い、怪訝な表情を浮かべていると「彼女から」と言って嬉しそうに受話器を放り投げてきた。僕は今日予定していた最後の裏ビデオに、内容と関係のない抽象的なタイトルを付けて早々に事務所を出た。「もう帰ったら」と、何度もからかわれるのが嫌だったし、夕食を作って待っていると電話で告げた女を叱りつけてやろう勢い込んでいた。だが、最寄り駅の改札を出て自宅へ向かうころには足取りが緩やかになり、どんな顔をして帰ればいいのか、ピンポンを鳴らして? 中に入る時に“ただいま”って言うのか。

 恋人のじゃれごとのように犬も食わない妄想をめぐらす自分がばからしく思えて、当初の勢いはそがれていた。一人住まいの自宅前でひと呼吸置くこと自体おかしなことで完全に調子が狂っていた。いつものように鍵を開けて中へ入ると玄関すぐのキッチンにいた彼女がこちらへ顔を向けて「開けるのに」。僕はもう、そこで諦めた。リビングのソファーに腰を下ろしテレビをつけた。包丁で何かを刻む、小気味いい音が聞こえてきた。

 僕は定期的に養護施設へ通うようになった。施設のイベント時にお手伝いするボランティア。子供の遊び相手をするなんて…。かつて想像したこともない、柄にもないこと。普通なら焼きが入ったというところだろうが、小さい子に囲まれているだけで心が和んだ。恵まれない子供たちに救いの手を…。そんな高尚なものではなく、かえってこちらが浄化された。それと、男の子の近くにいるだけで幸せだった。

 といって、彼に直接話しかけたり、意図して近寄ろうとは思わなかった。耳の悪い男の子とコミュニケーションをとる方法が分からなかったし、これだけ意識している相手なのに、どういうわけか彼と会話している自分を想像できなかった。ずっと幻を見続けているような、近づいて手を延ばせば遠くへ離れてしまうような…。僕は発達障害らしき男の子を相手にやり過ごすほかなかった。

 春の運動会と秋の学芸会は施設にとってメーンイベントだった。特に運動会は子供たちのほか父母兄、ボランティアも参加し盛り上がった。ただ、普通学級と違い、両親のいない子供たちが多かったためボランティアの役割が大きかった。僕は最後の対抗リレーのほか三種目にエントリーしていた。耳が聞こえない、話せない、目が見えない、落ち着きがない、動作が遅い、協調性がない…。子供たちの障害に合わせて競技内容やルールを修正し、誰もが楽しめるよう工夫されていた。

 ゴールめがけて一生懸命走ってくる男の子、輪になって得意そうにダンスをする女の子。特に徒競走では、ゴールした子をしっかり止めないと、どこまでも行ってしまいそうだった。幼くも勢いのある小さな肢体を胸で受け止める。屈んで待っているあいだ、彼らの真剣で健気な顔を見ていると、どうにも制御できない気持ちの高ぶりを感じた。知らず知らずに目頭が熱くなり、胸が締めつけられた。男の子たちが一斉に駆け出して来た。僕は両腕を大きく広げて待ち構えた。ゴールを突き抜けて胸に飛び込んで来た。あの男の子だった。僕は彼をしっかり抱き締めた。

 このあと、元カメラマンの友人に仕事を辞めると告げた。彼はたいして驚かなかったし、理由も聞かなかった。ただ、退職金代わりにと、隣の部屋で栽培している大麻鉢と裏ビデオの山を指差して、いくらでも持って帰れ、とおどけて見せた。ヤクザのように小指を奉納する必要はなかったが、辞めるには元締めの許しが必要だった。追って面談の日を伝えるという。仕事のあと、僕とカメラマンはいつものように高級焼肉と高級クラブをはしごした。

 陽気に振る舞う彼に感謝する気持ちでいっぱいだった。なにより、社会でまともにやっていけない僕を何も言わず引き受け、相場より高い単価で仕事を回してくれた。チェ・ゲバラに向かって仕事をする、彼の後ろ姿が見納めになると思うと、やはり寂しかった。何年か前の誕生日に贈ったベルトをいつも着けてくれていた。太り気味の腰まわりに窮屈そうだったが、楕円のバックルが彼によく似合っていた。

 いまさらどこかに勤めるわけにもいかず、合法の細い糸をたどって雑誌・広告関係者に、スポットでもいいから仕事を回してくれるよう頭を下げた。単価が低かろうが、質が悪かろうが、気まぐれなクライアントの急を要する仕事であろうが、文句を言わず粛々と請け負った。考えるまでもなく、これら制作物・印刷物は営業ツールなり御用媒体として、微力ながらもその企業の、団体の、ひいては社会の維持・発展の一翼を担う。そうした仕事でモチベーションを保つのは容易ではなかったが、表で生きるとはそういうことだった。

 だからと言って、そうかんたんに割り切れるものではなく、友人の事務所を離れた当初は、どこにいても合法の壁に取り囲まれているような圧迫感を覚え、見えない力で地面に押し潰される感覚を何度も味わった。いまにしてみればパニック障害なのだろうが、その情況にどう折り合いをつければいいのか、正直途方に暮れた。それに、ソビエトが崩壊したからといって、心身のずれを多少修正したからといって、器用にベクトルを定めなおして社会に、日常にアジャストできるほど融通無碍でなかったし、それに必要な生への執着も稀薄だった。

 気がつけば、フリーランスとはいえ正業についていたし、家に帰ればいつの間にか棲みついた女が甲斐甲斐しくご飯を作って待っていた。表面的には社会に適合し、ちっぽけな安寧を享受しているように見えたかもしれない。ただ、この程度の幸福感でリアルな日常を処せるほど鈍磨していなかったし、どこかに潜んでいる核なるもの、自己実現の萌芽と言えるものを諦めるにはまだ時間が必要だった。いっそのこと、自己啓発セミナーを擬した新興宗教の手練手管にはまってしまう方が楽になるのではないか、冗談でなくそう思うこともあった。

 それもこれも、結局のところ死への畏れに起因しているのは分かっていた。どこかの開祖のように悟りでも啓かないかぎりどうしようもなく、精神的なデッドロック状態から解放される術はないのだろうか。自己実現と死を結びつける、決死隊のメンタリティーで事に処す、ヒロイズムに陶酔することなく冷静に、緻密に。社会の矛盾を純化するに、死が必要なら喜んでこの身を差し出す、稚拙だが研ぎ澄まされた原点に戻る必要があった。


 大学時代から付かず離れずにいた彼女と久しぶりに会った。自ら企画した特別展の招待状をもらっていた。旧東欧諸国の美術工芸品を集めたユニークな企画展で、旧チェコスロバキアのクリスタルガラスやハンガリーの金工品、ルーマニアの宗教絵画など、ソビエト崩壊に伴う共産主義圏の流動化・自由化が各国の美術・工芸にどう影響していくのか、興味があった。彼女は忙しそうにしていたが大きく表情を崩さない、いつもの微妙な笑顔で迎えてくれた。「もう終わるから、待っていてくれない?」。そう言うのでうなずくと、続けて事務的に「あの喫茶店で。覚えてる?」。これまた種類の違う、微妙な笑みを浮かべて足早に去って行った。

 彼女は思いのほか早くやってきた。僕はそのころ、フランスを中心とした欧州の思想潮流に魅かれ、自分なりに系統立って当該する哲学書を読み始めていた。フッサールやメルロ=ポンティの現象学から派生した、いわゆる構造主義、ポスト構造主義の流れで、ソビエト崩壊後の左翼メンタリティーに入り込むナイーブな魅力があった。僕は分厚い単行本を閉じて彼女を迎えた。旧東欧諸国の美術工芸品は想像以上に散逸し保存状態が悪く、収集・展示に苦労したという。王政時代の文化遺産を一律に否定し、ぞんざいに扱ってきた共産主義体制の行状に苦笑いを浮かべるしかなかった。

 少し長めの化粧直しから戻ってきた彼女は、以前にも増して遠く感じられた。学生時代に付き合っていたとは言え、彼女が社会人になってからは一、二回の例外を除き、ほぼ友人関係。彼女は間違いなく同志だったが、帰依するセクトが違っていた。互いに左翼系と承知していたが、ずっと本筋の深い話を避けてきた。シンパシィーの持ち具合、深浅の度合いも分からなかったし、セクト間の近親憎悪を表出させまいと自然とそうしていたのかもしれない。僕が「まだやっているの」と聞くと、彼女は小さくうなずいた。

 強く批判していた権威的で全体主義的なフレームワークから解放され、新たなベクトルのもと、本来あるべき重層的なフィールドから珠玉の理論を再構築し、実践へ向けてスタートを切る。更地から新たな知の構造物を築き、弱者の視点に立った慈愛の革新を具現化しなければならない。先の共産主義国家に対する教訓は、周知のように働かない競争原理、進化・発展を阻害する悪平等、規定性が効かない下部構造、多様化し制御しきれない上部構造…。今後立ちはだかる課題は、人類の本性を反映した強固な搾取・隷属構造、あまりにも遅い人間精神の進展と退歩、偏った生への執着と対他関係の希薄化、複雑化する欲望への構え、死への向き合い方…。一方、可能な道筋は、底流で伏在するものごとの表出と可能性、抑圧からの反動とずれの効用、未開・未知への渇望と正道への誘導、有限な肉体と無限を秘める精神の融合、そして死の可能性…。

 彼女を前にして、何かが違っていた、微妙にずれを感じていた。でも、すぐには分からなかったし、かんたんに修正できそうになかった。いつもと違ってみえる彼女に原因があるのか、対する僕の神経症的な感覚のせいなのか、そうではなくテーブルを挟んだ僕と彼女のあいだに浮遊する何かがそうさせるのだろうか。「これからどうするの?」。こちらを気遣うふうでなく責めるかのように言ってきた。何を意味にしているのか、すぐに分かったがひと呼吸おいた。

 「このままでは駄目だと思っている」。僕はそう答えた。彼女はそれっきりこの件に触れようとはしなかったが、なにか慈しむような、見方によっては蔑んでいるようにも見える、捉えどころのない表情をしていた。このあと、何ごともなかったようにカップに残ったコーヒーを飲み干す彼女に、いつものことながら“勝てないな”と思った。彼女と違ってミッションに対する自覚や覚悟が足りないだけでなく、思想的な深まりも遅々として進まず、当然のごとく実践まで行き着けない。いつまでたっても不甲斐なく、地虫のように這いつくばって羨ましげにただ見上げているだけ。もういい加減、そんな自分自身におさらばしなければ、己に引導を渡す時期が来ていた。

 彼女にも苦悶や焦燥があったろうに、初めて会ったときから、しっかり目を見て話せない僕をどうにか引き上げてやろうと、ずっと気を張ってくれていた。でも、今日の彼女からは諦めにも似た、一種穏やかなものが感じられた。こうしてデザートを挟んで話していても表情が明るく見えたし、何より楽しそうだった。たんに仕事が順調なだけではなさそうだった。

 「わたし、離れようと思っている」。話が途切れてだいぶ経ったあと、彼女はポツリと言った。一体どこから、なにから離れたいのか。聞かなくても、もちろん分かっていた。「精神的にもつのか。物理的に厄介なことも多いけど」。そう返すと彼女は小さくうなずいた。もう十分すぎるぐらい闘ってきただろうし、ここで結果や成果を問われるいわれはないと思った。そこから彼女を解放してやるにはどうすればいいのか。僕はない知恵をしぼって考えた。

 いつまで経っても、どこまで行ってもファルス(男根)中心主義。彼女がいるそこも、相変わらず性懲りもなく、そうに決まっていた。高い理想を掲げて革命を目指す組織であっても大抵は軍隊にも似た縦社会、中央の指示・命令で末端が動く硬直した構造に堕してしまう。風通しのいいフラットな組織を求めるべくもなく、ましてやフェミニズムを尊重・実践するような男女同権意識などあるはずもなかった。それ以前に、きっと女であることによるセクシュアルな理不尽にも耐えてきたのだろうと思うとしぜん目頭が熱くなった。多くの者を解放しようと無駄な努力をする前に、自らを解き放つべきだったし、誰かが手を差し延べて引き上げてやらないと底の底まで堕ちてしまう、それが彼女の情況に思えた。

 スターリニズム、ソビエトの官僚制に劣らず硬直し切ったがんじがらめの組織に見切りをつけて人生をやり直してほしかった。いまからでも遅くないと言ってやりたかった。キャピタリズムに対する、たんなるプロブレマティーク(問題設定)で事足りる、そう思考停止し安穏としている、えせ反権力に鉄槌を! 僕は彼女から思いがけず、崇高なミッションを授けられたような気がした。


 男の子は今日も楽しそうにしていた。施設の関係者から手話を教わり、ほんの少しだったが通じ合えるようになっていた。僕の未熟な手話能力に合わせて彼は短く分かりやすい返事に心がけてくれた。“こんにちは、元気でしたか?”。彼はあの笑顔を見せて“はい、元気でした。お兄さんは?”と答えてくれる。僕は、他では絶対に見せない滑稽なジェスチャーを付けて“すごく元気です”と返す。たいしたやり取りをするわけではなかったが、それだけで十分だった。

 しだいに距離が近づいていく、そう感じるだけで幸せだった。煩わしいエディプス・コンプレックスの領域外にいる彼は澄んだ目で僕を見てくれる。ある日、照れて凝視できない僕の手を引いて誕生日会に連れて行ってくれた。講堂の小さなステージには、この月に誕生日を迎えた男の子一人と女の子二人が並んでいた。はにかむ男の子と目いっぱいうれしそうな女の子。僕は、前のめりで見つめる男の子の横顔を見ていた。

 僕の膝にずっと手をやっている男の子。彼は無意識、無造作にそうしているのだろうが、僕はどうしてもそちらの方へ意識がいってしまう。みんなからのプレゼントに悪ふざけする男の子とそれを戒めるも喜びいっぱいの女の子。なんともかわいい構図に僕の意識もステージへ向くが、気がつくと膝の上の小さな手にそっと手を重ねていた。壇上を彩る手作りのポップが使いまわしによるのか、一部よれて剥がれかけているのが気になったが、僕はこれまで感じたことのない、幸せの真ん中にいた。

 彼の手をしっかり握りしめた。壇上の男の子が大きな声でお礼を言い、それに合わせて女の子たちが丁寧にお辞儀をした。散会のなか、僕と彼はしばらくのあいだ、その場にいた。ただ時間だけが過ぎていく、でも意味ある何かを孕みながら。“ここから出たい”。男の子は僕の顔をのぞき込み、そう口を動かした、ように見えた。普通なら躊躇するだろう、彼の哀願に僕の身体はしぜんと動いた。気がつくと彼の手を引き、立ち上がっていた。一瞬のためらいもなかった。手のひらから彼の思いが伝わっていた。面倒な言葉なんて要らなかった。僕と男の子は足早に施設を抜け出した。

 意識が戻ると、電車の中にいた。僕は二人分の切符を握りしめ、前を向いていた。さして強くない初冬の日差しが車内の僕らを包んでいた。過ぎ去る車窓の風景に寒さは感じられなかった。彼の顔を確かめようとしたができなかった、勇気がなかった。初めて会ったときのように笑顔をたたえてくれているだろうか。まだ見ぬ世界を前に打ち震え、不安の色を濃くしていないか。強く握る彼の手をぎゅっと握り返した。彼も真っ直ぐに前を見つめていた。

 この社会で唯一信じられるもの、確かなものを僕に与えてくれた男の子。初めて会った時のようにいまもオーラに包まれ、これからも変わらずにいてくれるだろうか。聖なる彼を、穢れた僕が汚してはいないだろうか。辺りの明暗を操るのは誰だろう。僕の心象風景を曇らせ内心を不安にさせる、多段階のグラデーション。光の束が明確な輪郭を持たずに車内へ延び、広がっていく。それがおぼろげな光輪となり男の子の足元に陽だまりをつくっていた。もうこの先はないようだった。乗客の姿はすでになく、僕と男の子は車内に取り残された。


 頭の中には断片しか残っていなかった。あのあと、僕たちはどこで何をしたのか。記憶が定かでなかった。あったはずの、いい思い出まで途切れてどこかへ行ってしまったのか。呼び起こそうにも気力が失せていたし、メモリーにかかわる脳髄の部位が機能していなかった。僕はベッドの上で点滴を受けていた。かたわらで看護師が何やら話をしていたが、音声だけ聞こえて言葉として意味をなしていなかった。心身の乖離に制御が効かず、何もかもがまとまりを欠き、塵となってばらばらに散っていく、そんな感じだった。

 どのくらい時間が経ったろうか。起点があやふやで正確に長さを測るのは難しかった。ただ、そう遠くない時点で涙を流していたのだろう、潤んだあとの目の乾きを感じていた。欠落した記憶を蘇らせるタイミングも方法も分からなかった。頭が痛くなっていく。僕は目をつむった。男の子の笑顔だけが浮んできた。

 「どう、大丈夫?」。横にいた女がたまらず声をかけてきた。刑事が帰ってもうだいぶ経っていた。病院のベッドに横たわり、警察の事情聴取を受けた。任意で言葉遣いは丁寧だったが、やり取りの内実は参考人でなく完全に被疑者扱いだった。黙秘も考えたが罪を犯してもいないのに、と思い直して不利な言質をとられないよう心がけた。いずれにせよ、思い出そうにも記憶が途切れ、前後違える断片が浮んでは消えていくという有り様だった。

 執拗に男の子の行方を聞いてくる刑事の口調がきつくなっても、明滅する断片に整合性をつけられず、結果的に手掛かりになるような情報を与えなかった。この記憶、刑事に対してだけでなく、たんに意味を与えるには尊く、かけがえのないものに思えた。膨大な数のピースを一つひとつ当てはめていく、至福の作業はもっと後にとっておきたかった。奴らの低次元な誘導で思い起こすにはあまりにもったいなく、この内側に大切にとどめておきたかった。僕は、完成したパズルを胸にいだいている姿を想像し、このうえなく癒された。

 

 あのとき、僕は急いでいた、追っ手から逃れるように身体を前のめりにしていた、そして男の子の手をしっかり握って…。それぐらいしか感覚として残っていなかった。僕に行くあてはなかったが、彼に合わせて足を止めなかった。誰から逃れようとしているのか、誰の元へ行こうとしているのか。聞かなかったが彼の思いは伝わっていた。

 駅前通りは閑散としていた。放射線状に広がる何本かの道のうち、アーケードのない細い通りへ入った。彼の動きを感じ取ろうと神経を集中させ、必死に行き先を見定めようとした。ときに彼の顔をのぞき込むと、決まってあの微笑を返してくれた。僕はそれをご褒美に彼の手を引き、ところどころ舗装がはげた道を進んでいった。西日を浴びた男の子は美しかった。まぶしそうに目を細めるも、しっかり前を見つめて僕の左手を離さなかった。

 小川にかかる橋にさしかかった時だった。男の子の足が止まった。遠く彼の目の先には、あの女の姿があった。平屋の見すぼらしい家の前で立ちすくんでいた。表情は分からなかったがこちらを見ているようだった。男の子は同意を得ようと僕の顔を見上げた。僕は手を放し、かがんで彼と向き合った。男の子は寂しそうな表情を見せた。僕は精一杯の笑顔で彼を送り出した。

 男の子がどんどん離れていく。そのかわいい後ろ姿は小さな橋を渡り、朝方の雨で水かさの増した流れに立ち向かうように川沿いの小道を駆け上っていく。彼は、女のところへたどり着く七、八㍍ほど手前で一瞬立ち止まり、僕の方へ振り返った。僕はつま先立って何度も何度も大きく手を振った。遠くてはっきり見えなかったが、彼はきっとあの笑顔をこちらへ向けてくれているのだろう。男の子は一礼して女のもとへ駆け寄って行った。僕は二人を見届けず、その場を離れた。

 僕は一度だけ、彼に尋ねたことがあった。手話では心もとないのでノートに書きつけた。“一人で寂しくない? いつも笑顔で迎えてくれるけど”。彼はその笑顔のままノートを引き寄せた。“お兄さんが来てくれるので大丈夫です”。多少の気遣いや忖度はあるのだろうが、率直にうれしかった。少し調子に乗って続けた。“何かほしいものはない?”。施設の子に聞いてはいけないことかもと後悔していると“内緒にしてくれますか?”と彼。僕はノートから目を離して大きくうなずいた。“連れて行ってほしいところがあります”と書いて寄こした。“それは施設の人にも内緒ってこと?”。確認するようにそう聞くと、真剣な面持ちになってめずらしく声を上げて「うん」。僕は分かったという表情をつくり笑顔で返した。

 何度も施設へ通っていると、子供たちのこと、恵まれない境遇にまつわる話がしぜんと耳に入ってくる。一緒にボランティアするおばさんらのちょっとした会話から、両親の離婚や死別が原因とか、よくある話として親戚の家をたらい回しにされたとか、未熟な親による育児放棄、そして虐待…。心に傷を持っていない子供はいなかった。

 本来なら、これっぽっちも抱える必要のないトラウマをそれぞれ背負わされて、足に枷を嵌められて修羅の道を歩かされている。一見社会に順応しているように見える彼、彼女も心の闇はそのままに栓をして蓋をして必死に抑え込んでいる。その反動がいつどんな形で現れるか、きっと本人にも分からないだろう。抑圧から開放される手立て、方法はあるのだろうか。その邪悪な者の背後に控える、とてつもなく巧妙でシステマティックなモノどもコトどもに、ただ怯えて生きて行くしかないのだろうか。それぞれの内心に関わることなので、こちらとしては処置なし、途方に暮れるとはこのことだった。

 僕は、頭を振って男の子の幻影を追い払おうとした。同じ電車に乗って同じ経路をたどって帰るには疲れ切っていたし、精神的に持たないと思った。駅前のロータリーに停まるタクシーに乗り込み、行き先を告げた。運転手が何か言いたげに振り返ったが、すぐに向き直り生徒のような弾んだ声で車を発進させた。タクシーは、線路と川に挟まれた道を縫うように走っていく。並走する電車がタクシーを追い抜いていった。僕は車窓の風景に目をやるのも疲れ、しぜん目をつむった。

 さっき電車の中で交わした男の子との会話を思い出していた。僕は拙い手話で彼に念を押した。“本当にいいの?”。男の子は僕に分かるようにゆっくりと手を動かした。“お兄さんこそ、迷惑じゃない?”。心配そうな顔だった。僕は大きく首を横に振った。そんなことより“本当に幸せになれる? あの女と一緒で”。そう聞きたかったが手話にできなかった。困った表情を察してか、彼は僕の手にそっとかわいい手を重ねた。“大丈夫だよ”。いつもの、あの笑顔だった。二人は肩を寄せ合い電車の振動に身をゆだねた。

 男の子の行く末が気にならないわけはなく、女とうまくやっていけるのか、心配でならなかった。過去を悔やんで二度としないと約束していたとしても、幼少時の仕打ちを無かったことにはできないし、いくら贖罪の気持ちを持って接しようが、積もり積もった心の傷をそうかんたんには氷解させられないだろう。男の子の心を凍らせ、その瞳から希望の光を奪い、それこそ男の子に声を与えなかったのは、まぎれもなくあの女だった。いくら改心したとしても心配の種は尽きなかった。

 僕に見せたあの笑顔でさえ社会に対する防御反応の一つだったのだろう。耳が聞こえない彼にとって目に映るものは、いい加減な仮象とは程遠い、僕がどう足掻いてもつかめない、輪郭が際立った本質に違いない。彼は、僕には見えない、届かない、峻厳なる真理に触れていた。男の子は僕の弱さを見通していたし、社会とうまくやっていけないこと、放っておけばひ弱なウサギのように死んでいくだろうってこと、すべて感づいていた。だからこそ、僕の前に突然現れて天使のようにやさしく導いてくれたのだろう。

 いたいけな男の子を養護施設から巧みに誘い出し、引きまわした末に…。僕の容疑は誘拐・拉致・監禁、さらに捜査当局は殺人・遺棄の疑いもあるとして立件に向けて動き出していた。動機はいたずら目的で、挙句の果てに殺害して山中へ投棄、というお定まりなストーリーを組み立てていた。いつ任意から強制執行へ変わってもおかしくない状況だった。

 僕は三度目の取調べのあと、姿をくらますべく隙をうかがい刑事の尾行をまいた。複数の非合法関係者の手引きで、あるアパートの一室へ逃れた。元カメラマンをはじめ風俗関係の面々もいつでも声をかけて来い、とサポート態勢を築いてくれた。ただ、地下へ潜行するにはそれなりの心の準備が要ったし、形而下の瑣末なものごとを処理しておく必要があった。

 一緒に住んでいた女は遊び人の元上司が何とかしてくれるだろうし、親兄弟とはとっくに縁が切れていた。ライターとしての仕事はいくらでも代わりが利くので何の心配もなかった。身辺整理にたいして時間をかけることなく身軽になり、あとは内心にけりをつけるだけだった。誰でも死ぬ時は一人だとずっと言い聞かせてきたせいか、潜行するに特別な思いはなかった。

 ただ、気がかりなのはやはり、あの男の子だった。僕は別れ際に念を押した。“これは二人の秘密だから”。さらに“お母さんを助けてしっかり生きていくように”。柄にもないことを書きつけた。彼は真剣な眼差しで僕の目を見つめ、小さくうなずいた。このあと、男の子が施設に連れ戻されようが、幼い時のように女に虐待されようが、もうどうすることもできない。ただ、彼の行く末を、神にも似た、すべてを差配する絶対的なものに任せ委ねるしかなかった。僕は地下へ潜った。

                  ◆

 目の前に何もなかった。装飾を凝らしたものがあるはずはなく、あったとしても意識が拒否しただろうし、感じることもなかったに違いない。少しのあいだ、変わらぬ空間と意味を失くした時間さえあれば、それで満足すべきだった。もともと信用していない、あてにしていない視覚がいまさら鋭敏になってもどうしようもなく、ここに至っても頼りない、この内側を信じるほかなかった。

 そういう季節なのか、微かに聞こえる雨音が思いのほか、心地よかった。カーテンが引かれていたため、どんな具合なのか確かめられなかった。屋根を打つ雨粒がどういうわけか、やさしく感じられた。きっと夕方なのだろう、下校中の子供たちの声が雨音をかき消すように耳へ届いた。複数の女の子たちに混じって男の子の声が聞こえてきた。耳を澄ませたがすぐに通り過ぎてしまい、また雨音だけの世界へ戻った。片隅に置かれた小さなストーブと古い扇風機に目をやった。僕との関係性を拒むように、そこにあった。別に寒くも暑くもなかった。心身の感度を保つにはこのくらいでちょうどよかった。今日は食料搬入の日だった。よく知らない男が、そろそろやって来る。

 考えることが“二つ”しかない幸せ。そんなシンプルな日常を求めていたのかもしれない。一つは死について。何の妨げもなく死と思い存分向き合う、哲学者でも宗教家でもない市井の出来の悪い者が死について考える。生産的ではなかったし、もちろん答えが出るはずもなかった。そうして少しでも死を感じられるだけで十分だった。心の奥底に潜み、隠れていた、ちょっとした可能性。異形に包まれて陽の目を見なかったモノどもコトどもが、死の間際にひょっこり顔をのぞかせてくれるのではないか。冥土の土産に? 僕はただ、それを抱懐し、高く高く昇っていくだけでよかった。

 死を賭すこと。生を増補するだけでなく、軽く超越する本来の力。だらだらと弛緩した生を一瞬のうちに淘汰・昇華してくれる力能。折り重なるズレの修復と溜まった澱の一掃。汚辱に塗れた生をきれいさっぱり拭い去る、誰もが持っているプライオリティ。何ものも足元に及ばない清らかさとエクスタシー。誘い訪れる断絶と円環。エターナルの戸口で放つ、微かな光彩…。

 死を与える。崇高なる行為と厳めしい儀礼。死を選び、力を授かる。時空の超過と心身の融合。仏教でいう“死して生きる”。死を抱いて初めて感得する、この力の充溢。厳然と屹立する対象、意識が投影される仮象、驕り高ぶる偶像。邪悪な三位一体を払拭する、現象を淘汰する。真偽、善悪を意識から外し、清らかな整合性を、僕と彼の合一を…。

 「準備は出来ているか」。男の声に我へ返った。ここに及んで首を横に振る選択肢はなかった。でもまだ少し、猶予が要った。とっくに死の準備は出来ていたが、もう一つのこと、幻影を振り払う作業が残っていた。いつのころからか、気恥ずかしくて正面から向き合えなくなっていた革命という幻想、ずっと引きずり抱いてきた自己への嫌悪、憐憫、そして矜持。これら哀れな虚飾を丁寧に処理しておく必要があった。

 弱さを隠すため、出来の悪さを打ち消すため、情けない自己を慰めるため、無意味に虚勢を張るおのれを抹殺するために。そう、非合法に携わることで…。ブルーダート、青の汚点。それは空や海へつながる透明で広く深い清廉な汚れ、矛盾を射抜く可能性を秘めた、か弱くも鋭い青い矢…。気がつくと、テーブルの上に薄茶色の油紙に包まれた、あるモノが無造作に置かれていた。

 

 “お兄さん、どこにいるの?”。男の子の声が聞こえてきた。幻聴に違いなかったが僕は返事した。“どうしたの? いつから話せるようになったの?”。初めて聞く声だったが、間違いなくあの男の子だった。“いつも近くにいるよ”。彼はそう言ってくれた。“寂しくない?”。僕は男の子に聞いた。“お兄さんのこと思っているから大丈夫”。あの微笑みが内側を浸した。

 「僕も思っているよ、いつもこの中、ここで」。胸に手をやって小さくつぶやいた。“初めて会った時のこと、覚えている?”。男の子は少しトーンを落として聞いてきた。“気づいていたの?”。僕は心の中で聞き返した。“あのとき、お兄さんの声が聞こえてきた。それからずっと…”。彼の声は透き通っていた。“僕の声が…”。言葉が続かなかった。出会ったときから、つながっていた。きっとこれからもずっと。天から舞い降りて来た、僕の男の子。

 “お兄さん、本当に行っちゃうの?”。悲しみを帯びた男の子の声が内側に響いた。僕は返事が出来なかった。それを察したのか、彼はすぐに言葉を継いだ。“連れて行って。僕も付いていく”。彼は強い口調でそう言った。「それはだめだよ」。僕は小さくつぶやいた。「幸せになって…」。後が続かなかった。男の子は微笑んでいなかった。でもすぐに“いつもそばにいる。離れないよ”。そう言ってくれた。

 “そうだね、出会ったときからずっと一緒だった”。戸惑いや不安な気持ちが消えていくのを感じていた。彼と一体になること、僕が望んでいたのはそれだけだった。男の子は僕の中に居る、しっかりここにいる。高尚な理念も、勇気ある実践も必要なかった。死を前に怯むことも虚勢を張ることもなかった。男の子の清らかな笑顔さえあればよかった。


 僕は薄茶色の包み紙を解いた。鈍く光る重厚なマテリアル。その手にしっかりと握った。不思議と非日常な感じ、違和感はなかった。手に持ったまま上着のポケットにしまった。男のあとに付き従い、アパートを出た。停まっていたグレーのミニバンへ乗り込んだ。後ろの席で目をつむり、マテリアルの感触を確かめた。クルマが動き出した。もう頭の中に浮かんでくるものはなかった。

(了)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ブルーダート オカザキコージ @sein1003

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ