檸檬の木

極彩しき

第1話

 昔はよく森の切り株に座ってアコーディオンを弾いていたメロナのほそい指が、つい、とキッチンの方を指差そうとしたものだから、トンボはすぐに彼女の意図を察してスツールから立ち上がった。「待ってて」そう伝えてからキッチンに向かおうとすると、寝台で横たわるメロナが微睡に溶けていたまぶたをまばたかせておどろく。彼女の、毛が変わってふわふわとした冬うさぎの背のような灰色のまなこが、やわらかに細められるのを見るのがトンボは好きだった。笑むメロナの表情に、つられて頬をゆるめる。

「あたしが何も言わなくてもわかるのね」

「そりゃ、わかるよ。君に今まで何度こうやって強請られたか……、水が欲しいんでしょ」

「ええ、正解」

「今朝、メロナが起きる前にさ、庭で摘んだばかりのレモンをみっつ、君がしていたみたいにうすく切ってピッチャーに入れておいたんだ。丁度いい風味が出てる頃だとおもう」

 歩みながら語りかけるトンボが裸足で踏むフローリングは未だにすこし冷えていて、そろそろ春の花が蕾をひらく頃だというのに、随分と長引いた冬の残滓を感じさせた。──そういえば、長らくツグミが道に落ちた実を啄んでる姿を見ていないなと思い出してすぐ──もう、長い間メロナと朝の散歩に出ていないのか、と気づく。メロナが寝台にいる時間が多くなってから、そんなにも時間が経っているのかと思うとおそろしい。

 よく陽が当たるよう、寝室からわざわざ、リビングの窓際にと運んできたメロナのベッド近くにある木造りのキッチンには、ふたり分の食料を蓄えるに十分なおおきさをさせた冷蔵庫が置かれていた。メロナが料理好きだからという理由で買ったおおきなこの冷蔵庫は、家にやってきてからもう50年も経つのにすこしも衰えを見せない。

 冷やしていた硝子製のピッチャーをトンボが取り出そうと扉を開けば、中にたっぷり閉じ込められていたのだろう、パブロブを作るときに使うレモンカードとよく似た、ほんのりとした酸っぱい匂いが鼻腔をくすぐった。メロナの提案で庭にレモンを植えてからというものの、いちばん有り難みを感じる恩恵を挙げるとするなら間違いなくこれだった。朝摘みレモンが沁みたレモン水の風味を嗜み慣れてしまったら、普通の水は飲めない。

「すっごくいい匂いがする」カーテンを開いて朝日を浴びるメロナが、トンボの背の向こうからうっそりとした声色でそう言った。「そうでしょ」そう返事をして、からんと音を鳴らしながらコップに氷をふたつ、そのあと、レモン水を注いで、輪切りにしたレモンとミントの葉をトンボはひとつずつ飾る。

 コップを2つ持ったトンボがふたたび寝台のそばに戻ろうとすると、メロナが僅かに呻き声を漏らしてほそい肢体をゆっくりと起こしていた。水を飲むためだろう。寝たままでは飲めやしない。けれど──その姿を見た途端、胃に冬の海の底が出来上がったような、腹の下から膝のあたりの骨がつららになってしまったかのような、体が凍てつく漠然とした恐怖と不安の獣に、トンボは襲われる。死、という文字が脳裏によぎって、気づいたら、せっかくの水が多少こぼれるのも気にせず寝台へ駆け出していた。コップがふたつ乗ったトレーを慌ててスツールに置き、うすい皮の下にある背ぼねの感触がよくわかる、彼女の背へ手を添える。

「そんな、無理して起き上がらなくていいって。僕が飲ませてあげるんだから」

「やあね、起きるって言っても、上体だけよ。ずっと寝てたら腰が痛くなっちゃうもの」

「そうは言ったって、」

「ほら、もう大丈夫。はいそれ、飲みたいから貸して。お水ありがとうねトンボ」あっけらかんとした声で、メロナがレモン水に手を伸ばして飲もうとするけれど、トンボはそれどころじゃなかった。先程の彼女の苦しそうな声を、どうしても忘れられない。メロナの声は消えることなく鼓膜の上でゆるやかに波紋を広げ続けて、トンボが過ごしてきた中で一番暗く、長かった、昨年の一夜を思い起こさせる。

「腰以外も、どこか痛いの? どこが? 教えてよメロナ、痛いなら医者に診てもらおう、電話するから」

「痛いところなんておばあちゃんになったらいくらでも出てくるわ。これくらいの痛みなんか慣れてるんだし、毎度そんな怖そうに見つめなくたっていいのよ」

「そんな、……そんなの無理だ。心配だし、こわいよ。だってメロナは……」

「わたしがもう80歳のおばあちゃんだから?」

 嫌味も皮肉も、すこしだって含まれていない。けれど、それは彼女らしくやわらかな、それでいてトンボの心の、どうしようもなく湿って熟れた一部分を的確につつく問いかけだった。昔から君はそうだ。いつものように、そう、言いたくなる。僕が大事にしていた雪模様のミトンを片方無くした時も、捨て子であることを必死に隠して君のそばででっち上げた家族の話をしていた時も、育て親の祖母が死んで一人になったガラクタの山の上、嗚咽を堪えていた時も、いつだって、よりによってひとが泣くのをいっとう我慢している時に、わざわざその限界を壊して泣かせようとしてくるんだ。──歳の話は好きじゃないって、知ってるくせに。トンボは、ふるえる息をなんとか呑み込みながら、心配なのは君が今年で80歳になるからじゃない、と必死に首を振る。もう、長い間メロナにキスすることもできず、気にかけることも無くなったせいで荒れたくちびるを、どうなっても構わないと噛んで、傷つけながら。

 トンボがメロナを心配するのは、長いこと患っていた病気が昨年になって悪化して、余命なんてものまで言い渡されてしまって、いつ、痛みを蝕む原因が彼女の命を喰らわんとするかわからないからだ。医者から病の進行具合を告げられて以来、トンボは安心してメロナのそばでわらえたことはない。だから、違和感があるのなら病院に行こう、車を出すからと──真っ先にそう言いたいのに、トンボの口からは「80歳だなんて、僕とたった一歳しか違わないじゃないか」──長い間積もらせているそんな感情ばかりが、心臓の悲鳴が、列を成して出て行った。自分と彼女の間にある歳のことなんて、語ったらきりがない。今までだってそうだったはずだ。30年間絶えず戦い続けて、結局、どうにもならずにいる。どうしようもない現実を前に抗って、足掻いて、コンクリートの壁に爪を立てても、血が滲んで痛いような思いをするばかりだと、……そうだとはわかっていても、止まらない。

「僕だって今年で79だ、君とひとつしか違わない。そうだろ。はじめて出会ったときに、君が言ったんだ。わたしのほうがずっとおねえさんだと思ってたのに、ひとつしか変わらないなんて意外だわ、って、……誰でもない、君が……」

 言い聞かせるように、トンボは言った。そして、繰り返した。「たった一歳差だ」力強く、でも、メロナの顔は見れないまま、俯いたまま、祈るように声を溢した。ほんとうはそうじゃないことなんて、……彼女の身に流れる一年と、おのれの身に流れる一年にどれだけの差があるかなんて、トンボが一番理解しているのに。


 トンボが、自身の見目や体にあきらかな異変を感じ始めたのは齢50歳を過ぎた頃だった。確信を抱いたのは53歳の誕生日を迎えたその夜で、それまでは見過ごせていた鏡の中の一瞬の違和感を、とうとう見過ごすことができなかった。

「……ねえメロナ、僕、20歳の頃から見た目がすこしも変わってない気がする、んだけど」

 互いに目を逸らし続けてきた成れの果て、終ぞ洗面所の前で不安げに頬を揉むトンボに、「そう? 気のせいよいつもの。あなた、昔っから童顔だから人より若く見えるだけ。そんなに気にしない方がいいわ」──とは、メロナももう言わなかった。言えなかった。自分たちは街中に出ればまず、親子と認識される程度には見た目に差が出始めていたからだ。気にせずふたりでわらい、手を繋ぎ、恋人として過ごすには、メロナのまなじりにできはじめた皺と、おさなささえ伺えるトンボの容姿がどうにも釣り合わない。予約していた料理店で、お母様と息子様ですか、と店員に悪意なく問われたときの、心臓が締め付けられる独特の痛みといったら!

 トンボは自身の体の異変を治療してくれそうな医者を何人も訪ね、何件もの病院をめぐり、やがて、ひとりの老齢の医者に辿り着いた。民俗学についても知見が深いらしい、物珍しいものを眺めるような目つきの彼に告げられたのは──両親の顔も覚えていない頃に捨てられた孤児の自分は、成人してから見目の成長が止まり、それから300年は長い時を生きる長寿の一族の末裔(血は随分と昔に絶えているはずのアモ族というらしいが、名前など知ってもどうしようもないし、治るものでもないと言われてからは詳しく調べる気にもなれなかった。)なのだと──要するに、愛しい人とはけして同じ時間を生きることができない人間なのだという真実だった。どうしようもない事実で、目を背けたくなるような現実だ。ただ、メロナの──最愛の妻の隣でありふれた日を生き、同じように老いたいという、夫婦として持ち得たってなんら咎められるはずのない願いがトンボは絶対に叶わない。

「じゃあ、この見た目は治らない、ってことですか」

「人間がハムスターなんかより長く生きるのは当たり前のことでしょう。そういうもんですから、治せるとか治せないとか、そういうものじゃないんです」

 医者が、カルテも書かずにそう言ったのを、トンボは覚えている。その頃からずっと、ただ離れていく、自分を置いてゆくように老いていってしまうメロナとの差を噛み砕き続けては、受け入れられない毎日をトンボは過ごしている。


 レモン水の入ったコップを掴むメロナの、しわくちゃで、年老いた証拠のように茶色の斑点がいくつも浮かぶ手と、トンボのなめらかな、皺もない、ナツズイセンのようにまっすぐな指をした若いおとこの手のその違いが、トンボには悪夢の風景のように見えていた。否、正しくこれは悪夢だ。もう30年以上続いている、そして、これからもきっと覚めない悪夢の現実が目の前にいつでも在る。

 やや間を空けてから、メロナはまゆじりを下げて言った。年老いても変わらない表情だった。泣くトンボを、メロナはいつも困った顔で見やる。

「そうやって顔くしゃくしゃにして泣いちゃうところも、出会った頃から変わらないんだから」

 空から、優雅に羽を広げてやってきた愛らしい天使みたいに静謐な微笑みを浮かべて、泣き出しそうな瞼を擦るトンボの頭を皺々の手が撫でた。彼女はいつも、トンボの見た目が若いまま変わらない、とは言わなかった。怒るときや泣く時、物を無くしやすい癖や動物にやけに好かれる姿を見た時ばかり、昔から変わらない、と言う。

「……それは君もだよ」トンボはなんとか、掠れた声で返した。メロナだって、手や、かんばせや、声がだんだんと昔のものと変わっていっても、トンボの頬ぼねを撫でやる感触と力具合だけが変わらない。彼女であれば変わるものも、変わらないものも、何より愛おしい。変わらない自分だけが、ただ憎い。

 自分のものよりずっとうすくなってしまった彼女のてのひらを握りしめると、トンボの涙はとうとう寝台に落ちた。森の中にある一軒家の、ちいさな部屋の中で、わかいおとこの嗚咽だけが虚しく響く。外では、メロナの植えた檸檬の木の葉が風に揺れてないている。





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檸檬の木 極彩しき @awaltzat3pm

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