1日目
僕は虐められていた。理由は家の事情だ。
僕の父親は酒に溺れ、ギャンブルに呑まれていた。母親からお金を貰い、全額パチンコに注ぎ込む。勝てば負けるまで帰らず、負けて帰れば酒を煽る。挙げ句の果てには借金を膨らませて姿を眩ませる。
世間一般では、「落ちぶれた人」と呼ばれる様な父親だった。
だから家は貧乏で、僕の教育費を払う事さえ困難だった。
奨学金を貰ってやっと学校に行ける。母親のパートの収入で、なんとか生きていける。
それでも僕は幸せだった。
僕が我慢すれば、母親はほんの少し楽になる。
僕が我慢すれば、世界のどこかで誰かが幸せになる。
そう思えば、気が楽だった。
「おい貧乏。汚ったねぇ。帰れよ」
毎日の様に投げ掛けられる、悪意が籠った罵詈雑言の数々。家の外壁に描かれた落書きの数々。それを見て哀しむ母親の顔。
僕が虐められているせいで、僕の家は歯車が食い違った様に、音を立てて崩れ始めてしまった。
まずおかしくなったのは、近隣住民だった。
あれ程優しくしてくれていたお婆さんも、晩御飯の余りを分けてくれたお爺さんも、ずっと一緒でいられると思っていた幼馴染さえも、僕らを嫌悪に満ちた目で睨む様になった。
でも、それは別に気にならなかった。
人はいずれ心変わりをする。そう分かっていたから。
でも母親は、睨まれるたびに泣きそうな顔をした。
時には家に駆け込み、リビングで嗚咽を漏らしていた。それが耐えられなかった。
だからといって近隣住民の家に乗り込むわけにもいかず、母親が悲しむたびに、僕は自らを責め立てた。
僕が虐められなければ。
僕がもっと強ければ。
僕が産まれていなければ。
そんな事を考えても何かが変わる訳ではないが、母親の苦しみを、痛みを、少しだけでも軽くしたかった。
それも自己満足に過ぎず、遂には母親は首を括ってしまった。
いつも通り暴言を投げられ、それでも強く振る舞おうと意気込んでドアを開ければ、糞尿を垂れ流したままの冷たい母親がこちらを向いていた。
そして母親は泣いていた。
机の上の置き手紙には「ごめんね」と、震えた手で書いた文字が残されていた。
そして僕は孤独になった。
その日から世界が白黒になった。
何も信じられなくなった。
虐めはエスカレートするが、もうどうでもよかった。
いっそこのまま殺してくれればいいのに、とすら思った。
そんな頃、彼女は転校してきた。
転校生と聞いた虐めっ子達の興味の矛先は変わり、暫くは誰も僕に見向きもせず、虐められる事はなかった。
彼女は転校生という立場上仕方のない事だが、クラスの中で人気のある存在だった。
休み時間になれば彼女の周りに人が集まり、質問責めにされていた。
彼女は多忙な毎日を過ごしていたが、僕はとても平和な毎日を過ごせていた。
でも、その静寂は長くは続かなかった。
僕の平穏な毎日を壊したのは、彼女だった。
空気に紛れていた僕に話しかけ、あまつさえ、手を取り歩き出すという奇行に出た。
「僕と関われば、君も嫌われてしまう。今ならまだ間に合う。君は教室に戻って欲しい」
そう呟くと、彼女は顔を顰めて
「出来ないよ、そんな事は」
と、答えた。
僕には意味が分からなかった。
何故僕に関わろうとしてくる?
何故僕に同情する?
意味が、分からなかった。
なのに僕の視界は、意識と反して滲んでいった。
あぁそうか。
僕は優しさを求めていたんだ。
そんなやりとりをしつつ、僕はほんの少し歩調を早めて、彼女の隣に並んで歩いた。
初めは彼女は驚いていたけど、すぐに慣れたのか、微笑んでくれた。
彼女は、月本陽奈乃は信じても良いのかもしれない。
そう思ってしまった。
ほんの少しだけでも冷静になって考えれば、これからの彼女の生活は狂い出すと分かったのに。僕はそれから目を逸らしてしまった。
「惨めで、ごめんね」
連れてこられた屋上に座り込んで、気付けばそう呟いてしまっていた。
彼女は呆れたと言わんばかりの顰めっ面でため息を吐いて、
「うん、確かに少し惨めだね。今みたいに自分を卑下するとことか。なんで虐められてるのかは知らないけど、今のところ虐めたくなる様な要素も無いし、普通に話せるし。さっきからポロポロ出てるネガティブ発言も、私を想って言ってたみたいだしね。あなたはいい奴だよ。だから私はあなたを虐めない。理不尽に痛めつけるのは好きじゃない。要するに、私はあなたと友達になりたい。そして虐めを止めたいのだけど。どう?」
「どう?って……別にどうもこうも無いよ。虐められなくなるのは嬉しいけど、攻撃対象が全て君に向かうのは嫌だよ。もう誰も失いたくないんだ。たとえ虐めっ子達でもね。僕が我慢することで、彼らが喜んだり、幸せになれるのなら僕は虐められたっていいんだ」
「そう、つまりは好きにしろってことね。ならこれから私は、あなたの傷付いた姿を見たくないから、虐めを止める。これは私の独断。だから、さ。その、死んだり…しないでね」
歯切れの悪い言葉と、彼女の顔から察した。僕を心配してくれているんだと。
でも、そんな事を言ってくるぐらいだから、僕は本当に思い詰めた顔をしていたのだろうか。
今すぐに死んでしまいそうな、そんな顔を?
確かにそうかもしれない。
母親が死んでしまってから、一度も鏡を見ていない様な気がする。
最近は寝つきも悪い。
毎日1時間睡眠だ。
彼女が貸してくれた手鏡を覗けば、写っているのは酷い隈を貼り付けた冴えない僕の顔。目は虚ろで、光どころか生気すら感じられない。ここまで酷いと、逆に凄い。
「うわぁ、これは酷いね。どうりで初対面の僕に君が声をかけてくる訳だ」
すると彼女は唯々笑った。
「そうだよ、折角綺麗な顔なのに。化粧してあげようか?そしたら女装させてー」
「いや待て、僕にはそんな趣味ないからな」
「うん知ってる。というか、あった方が引く」
話題を振ってきたのは彼女なのにそれは辛辣すぎないだろうか。
でも彼女の言葉からは、悪意は感じられない。ただ揶揄っているだけ。
「そうだね。そんな趣味を持っていたらある意味虐められてなかっただろうよ」
「なにそれ」
なんて他愛のない会話を交わして、馬鹿みたいに笑い合い、こっそり学校を抜け出す。
この感じ、久しぶりだ。
ただ、僕はこの関係が気に入りつつも、本当にこれで良いのだろうかと疑っていた。
母親を、近隣住民を、クラスメイトを、不幸にしてきてしまった僕が、彼女さえも不幸にしてしまうのではないかと思うと、身体が竦んだ。
でもその日1日は、頭のほとんどが彼女の事で一杯だった。
まぁ良い、眠れば明日も生き地獄だ。
淡い期待を掻き消すように、無理矢理目を閉じた。
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